みまちがい



『胃が痛い』
 まだ木の香りが残る真新しい駿府城内で、真田信幸は周囲の者・・・・にはそれと知れぬようにため息を吐いた。
 周囲の者・・・・とは、即ち徳川譜代の家臣達だ。

 豊臣秀吉の仲介により、真田昌幸と徳川家康が和議を結んだのは、天正十四年(一五八六)のことであった。
 真田は徳川の与力大名として、名目上その勢力下に組み込まれた。
 但し実情を言えば、昌幸は秀吉から羽柴姓を下賜される程度・・に重要視されており、もっぱら豊臣家直臣として動いている。その働きぶりはと言えば、京・大阪に在って、本領上田に戻ることがほとんどない程であった。
 さて、争っていた武家の間で和議が成ったという場合、おおよそ証人、即ち人質を取り交わすものだ。
 徳川から真田への証人は、徳川家臣・本多忠勝が娘のいな姫であった。彼女は家康の養女・小松姫として、真田昌幸の嫡男・源三郎信幸に嫁ぐことになった。
 そして真田から徳川への証人は、その信幸自身である。
 信幸は昌幸の元を離れ、徳川家康の居城・駿府すんぷに出仕することになった。

 居並ぶ徳川家臣団の内のいくつかの顔を、信幸はよく見知っている。上田城下で……後の世で「第一次上田合戦」であるとか「神川かんがわ合戦」などと呼ばれることとなる戦場で……見かけた顔だ。さんざんに翻弄し、さんざんになぶりもの・・・・にした敵武将達である。
 新参者の若造であり、元々敵将であった信幸の席次は、末の末、一番の末席だ。
 その末席の隣に、どすりと座る者がいた。より線・・・を束ねたような筋肉の付いた、細く引き締まった体躯の上に、ごつごつした巌のような顔を乗せている。
 本田平八郎忠勝である。
婿殿・・、顔色が悪ぃな」
 信幸は小さく頭を下げた。
「お歴々の皆様を前に、己の小ささを感じ入り、なにやらもの悲しい心持ちにございまして」
「抜かせ。その六尺豊かな身の内に収まる肝っ玉が小さい筈がなかろう」
 雷が落ちたかと思うほどに大きな声音で言い、城が崩れるかと不安になるほど大きな声音で笑う。
 当然、人々の視線は集まる。左右の者とひそひそと言葉を交わす者あり、失笑する者あり、また忠勝同様に大笑する者まであった。
 笑い声が満ちる中、忠勝は小さく、
「それとも、その肝の小さき男に、散々な目を見させられた儂らは、なおの小心者と言いたいか?」
 忠勝がにたりと笑う。底意地悪い微笑は、同時に楽しげで嬉しげだった。
『胃が痛い』
 信幸は首を横に振り、今一度小さく頭を下げた。

 下城の段となったが、信幸の足取りは重い。
 舅の本田忠勝ばかりではなく、上田合戦のおりの丸子城の戦で対陣した井伊直政、鳥居元忠といった諸将が、代わる代わる彼を呼び止め、あるいは呼びつける。
 中でも井伊直政は熱心・・だった。
 井伊家は元々徳川と敵対していた今川家の家臣であった。旧来の家臣でないという点で言えば、直政の立場は信幸と似ている。
 体の大きさも良い勝負だ。背丈は六尺にわずかに足りないと見えたが、胴回りの肉付きが良い。偉丈夫だった。
 まだ万千代と名乗っていた頃、ほとんど身一つで家康の小姓となった直政には、自身の家臣という者がいなかった。長じて今は、甲斐併呑の後に下った武田の旧臣達を与力として従えている。その者達は即ち、
「御身の同僚であった」
 直政は静かに言う。
 真田は元々武田の家臣である。徳川と武田が戦い、徳川が敗走した「三方ヶ原みかたがはらの戦い」には、信幸の父・昌幸が武藤喜兵衛の名で参陣している。
「確かに、知らぬ訳ではない者が幾人もお世話になっておるようです」
「御身とは縁深い」
 それだけ言うと直政は去った。この二言三言の会話が、彼を良く知る者からすれば「大分にご執心の様子」と映るらしい。
 井伊直政は平素はひどく無口である。


 信幸は疲れ果てていた。
 自分の一挙手一投足が真田家と信濃の命運を分ける、すこぶる危険な立場に置かれている。いや、その危うさには馴れていたはずだ。武田が滅びて以降、信幸がそういう状況の中で暮らさなかったことはない。
 胃ののあたりを軽く撫でた。生来頑丈な身体であるが、なぜか時折はらわた・・・・の調子だけが崩れることがある。
『槍を持って戦場にいる方がよほど気が楽だ』
 城下に小さいが屋敷が与えられていた。わずかな家人けにん達がいる。その中には上田や沼田から連れてきた家臣達も居た。それを年若い新妻の小松が取り仕切っている。
 その家に、早く帰りたい。
 前屈みになりがちな背筋を、意識して伸ばした。
 視線が高くなる。
 胸を張った。
 虚勢ではあったが、勢いが湧き出る。
 歩を進めた。
 その一歩が、ずるり・・・と滑った。
「待て、待て、少し待て!」
 背後で叫ぶ声がする。振り返れば、廊下の端から武士が一人駆けてきている。
 体に見合わぬ長さの、金銀の蝶が舞う柄の羽織の裾が、ひらひら・・・・となびいている。揚羽蝶が羽ばたいているように見えた。
 中肉中背、骨太の体つきに四角い顔、城中だというのに腰に三尺五、六寸はあろうかという太刀を手挟んでいた。鞘の先が床に擦れている。
 信幸はこの武士の顔も見知っている。
 大久保彦左衛門忠教ただたかだ。
 信幸よりも七、八歳年長の筈だが、顔つきはそれ以上に年寄りじみている。
 忠教は信幸の一間前で、急に走るのをやめた。
 両足をぴたり・・・とそろえる。
 走り寄った勢いは、両足がそろったままなお、忠教の身体をすぅっと滑らせた。
 滑って、信幸のとぶつかろうかという直前、三寸ばかり手前でぐっと止まった。
 背の高い信幸の鼻先に、忠教の髷がある。
 信幸は一歩引いて頭を下げた。忠教は家康が大名として自立する以前より仕えている、古参の三河武士である。新参者としては敬意を表する必要があった。
 すると忠教が一歩前へ出た。
 信幸が今一歩下がる。また一歩前へ。下がる。前へ。
 幾度か繰り返した後、信幸は、
「手前に何かご用でありましょうか?」
 不信感を胸三寸に隠し、努めて穏やかに問うてみた。
「用も用。大ありも大ありじゃ」
 忠教は顎をぐいと持ち上げた。しみじみと、じっと、信幸の顔を見る。
「うむ、その面じゃ。間違いない」
「手前の顔が、どうかいたしましたか?」
「お主、真田源三郎と言ったな。上田の、神川の戦のおりは、ようも儂らを散々な目に遭わせてくれた」
 忠教の口振りは、心底怒っているようであり、懐かしんでいるようでもあった。
「何分手前も武士にございますれば、主命を拝すれば存分な働きをいたすのみにて」
 それ以外に言い様がない。信幸は小さく頭を下げ、斜め後ろに一歩引いた。そのまま振り向くつもりだった。忠教が同じ方向に動かなければ、そうできた。
「おお、その身のこなしよ! あのときもそうであった」
「あのとき、と申されますと?」
 聞き返しはしたが、信幸には、いずれ上田城下の合戦の時のことであろうという察しが付いていた。
「うぬらの小賢しい火攻め水攻めに、口惜しくも逃げ出そうという我が勢の殿軍、儂が獅子奮迅に堪え働いたそのときよ!」
「はあ……」
 信幸は神川合戦の状況を思い起こそうとした。しかし忠教の大声が思考を阻む。
「お主、天から降ったか地から湧き出たか、突如として現れ、小勢を率いて追い打ちを掛けてきたであろう。馬を煽り、大薙刀・・・を振り回して攻めてきた。刃が風斬る音が耳元に聞こえて、肝が冷えきったぞ。儂は踏みとどまって討ち取ってやろうと思いはしたが、馬めが竿立ちになるは足踏みするわで、前に出ぬ。逃げ出すより他に手がなかった。思い出すだに口惜しい、口惜しい」
 まくし立て、ぎりりと奥歯を噛んで後、さらに、
「儂は真田と手打ちをするのは反対だった。あんな小賢こざかしい策を弄ろうする者共は好かぬ。水攻めは嫌じゃ、待ち伏せは嫌いじゃ。ところが殿は儂の言などよりも可愛い・・・万千代・・・めの言葉の方が耳に良く聞こえるらしい。あげく平八郎までが殿をそそのかしおった。思い出すだに口惜しい、口惜しい」
 また奥歯をぎりぎりと噛む。
「致し方なし、その真田の嫡男とやらが来たならば、一言言って聞かせねば成らぬと思うていたが、なんのその面見れば、あのときのあの強者ではないか! あれほどの戦い振りをする男であれば、たとえ小賢しき卑怯者であっても、徳川の臣として申し分ない!」
 ここまで一息に言うと、忠教は胸を反り返し、フンと鼻息を吹き出した。
 信幸は困惑した。
 どうやら己の不満を言い終えて満足している様子の忠教ではあるが、まだ自分の前に立ちふさがっている。振り向いて戻りたい。城から出たい。そして、
『早く我が家に帰りたい』
 信幸は脂汗の浮いた額を撫でた。
「大久保様、残念にございまするが、仰せの荒武者は、手前ではないかと存じます」
「むっ? 儂がかたきの顔を間違え覚えていると申すか!」
「いえ、大久保様でなくともお間違えになられましょう。彼の武者は手前の従兄叔父いとこおじの矢沢三十郎頼康よりやすで在ろうかと存じます。三十郎は手前と背格好がよく似ておりますれば、家人であっても、遠目に見間違えることが多うございまして」
「いや、そのようなことはあり得ぬ。儂が目は節穴ではないぞ。確かにあれは其方であった!」
 忠教のつむじ・・・のあたりから湯気が噴き出した。
 信幸は苦笑いした。
「大久保様、手前の常の柄物・・・・は槍にございます。薙刀や長巻きはよう使いませぬ」
「何と!?」
 忠教は三歩跳び下がった。眼と口とが大きく開いている。
 好機であった。
「それに手前は小心ゆえ、小勢で追撃する戦は不得手にございまして」
 信幸は早口で言うと、すっと頭を下げ、素早く踵きびすを返し、足早にその場を立ち去った。
 しばらく置いて、背中の側から大声が聞こえた。
「ええい、小賢しい真田の小僧めが! あのおり、天野小八郎が、十七、八ばかりの小倅と斬り結んでいるのを、仏心を出して『子供を殺すようなむごいことはするな』と止めて、小倅をば逃がしてやったが、ああ、止めるのではなかった! 真田の兵は片端から討ち取るべきであった」
『ああ、胃が痛い』
 信幸は振り返らず、しかし一礼して、大きく息を吐いた。


「まあ、彦左殿のことは、どうかお許しくださいませ。あの仁はいつでも誰に対しても無礼・・にございますから」
 小松が臆面もなく言い、口元を隠すことなく笑った。花が咲いたようであった。
「年若い娘にまでそう見られておられるとは、さても面倒な御仁だな」
 信幸は苦笑いを返した。
 小なりとはいえ大名の嫡男の夕餉の膳であったが、酒肴すらない寂しい物だった。
 もっとも、生来胃腸が弱いと自認する信幸である。子供の頃からこと食べ物に関しては努めて節制していたから、一汁一菜であっても何の不満もない。
 家がある。小さな灯火がある。妻がいる。それで十分ではないか。
 その妻が、小さな灯火の傍らで微笑しつつ小首をかしげて見せた。
「して、どちら・・・が殿様でございましたのですか?」
どちら・・・、とは?」
 信幸も小首をかしげて返す。
「大薙刀を振り回して攻め掛けた方と、見逃して貰って逃げおおせた方と、どちらが殿様でした?」
「どちらかが私に違いない、とな? その根拠は?」
 若い殿様は幼い新妻の顔をじっと見た。小松は微笑を崩さずに、
「殿様が、名乗りも上げぬままに言いたいことを言い捨てる彦左殿を、大久保彦左衛門と知っておいでだったからです。お顔を見ただけで判ったということは、何処かでお会いになったことがある、ということにございましょう? 徳川の者と真田の者が何処かで出会ったとするならば、その場所は戦場いくさば以外にありませぬ。違いますか?」
「やれやれ」
 信幸はくびの後ろを掻いた。目元に楽しげな微笑が浮かんでいる。
「徳川家中は、おなご衆に至るまで面倒な者がそろっていると見える」
「面倒なのが三河武士と肝にお銘じなさいませ。……して、どちらにございまするか?」
 小松も心底楽しそうに頬笑んでいる。
「私は薙刀は使わない。私は十七、八のせがれではない」
「では両方違う、と?」
 小松が少々残念そうに唇を尖らせる。信幸は首を小さく横に振った。
「三十郎の柄物は大太刀だ。あの人は長柄物は使わない」
「……はい?」
「大久保殿の見間違い・・・・だ」
『何をどう見間違えたのか』と尋ねようとした小松であったが、夫の顔を見て、やめた。
 信幸は両手を突き上げ、背伸びをしている。
「ああ疲れた。今日は本当に疲れた」
 欠伸一つの後、唇の片方の端が、くっと持ち上がった。
 真田信幸の脳裏には、銀色の蝶・・・・が猛烈な勢いで馬を急かせて去って行く景色が思い起こされていた。



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