熱砂の風 − 熱砂の風(2010年12月24日改訂 第弐版) 【1】 BACK | INDEX | NEXT

2014/09/20 update
 背の低い潅木と僅かばかりの草が大地にしがみつくように生え、乾いた空気が熱風となって流れて行く西の最果て。
 羌きょうの地との境のぎりぎりの、民家などその影すらも見えぬこの場所に、一人の若者が訪れた。
 字あざなは孟高もうこう、年齢は二十。
 貴賎の程は定かでないが、良く学を修めたと見えて、青白い顔には一種の気品が漂っている。
 そんな、よく言えば育ちの良い、悪く言えば脆弱な若者が、従者を二人ばかり連れ、恐々この地に足を踏み入れた。
 
 地図の上では、ここは漢の領土である。……もっともそれは、漢の地図の上では、の話だ。
 羌王は羌王で、ここよりも更に十里ほど東までが己の領地である、と主張している。
 主張は対立している。同意はあり得ない。
 そのためこの辺りでは、国境を越えた越えないが原因の小競り合いが絶えたことがない。
 
 孟高は溜息を一つ漏らした。
 彼はどちらかというと武よりは文で身を立てたいと思っている。戦乱とは関わりたくないのだ。だから、できる事ならこんな危険地帯に踏み入りたくなかった。
『父上の願いでなかったなら……』
 孟高は更に一つ息を吐きだした。
 
 正午を四半刻ばかり過ぎたであろう頃、一行の目にゆらりと揺れる陽炎が見えた。照りつける太陽に、痩せた大地を割って出たほんの僅かな水気が蒸発し、大気を揺らしているのだろう。そのゆらぎの中に、数個の人影が見える。
 湧き水の小さな水溜まりの傍らに、屈強な若者達が五・六人たむろし、飯を喰らっていた。
 酒を浴び、肉を鷲掴みにしてむさぼる姿を「喰らう」という言葉以外で表す事は、孟高にはできなかった。
 陽にやけた肌、不可思議な結髪、見慣れない服装をしたその一団は、紛れもなく西の果ての民「羌」であろう。
 孟高は一瞬たじろいだ。が、その中に、見覚えのある影を見つけた彼は、おずおずとその影に近づき、呼び掛けた。
「卓たく、卓よ」
「おう、何処ぞで聞いたような声だと思わば、我が兄上ではないか! この地の果てに何ぞ用がおありかな!?」
 割れ鐘の様な声が乾いた空気を引き裂いた。返答したのは、座の中心で人一倍呑み喰いしていた漢おとこだった。
 すっくと立ち上がった彼は、七尺豊かな大丈夫で、腕にも胸にも隆とした筋肉を鎧うている。
 その肉鎧からは、人を威圧する氣がまき散らされていた。
 これが十六・七の餓鬼であるとは、誰も信じないであろう、すさまじいばかりの覇氣である。
 気の弱い者ならば、視線を浴びただけで昏倒しかねない程の、暴力的な強さに満ちている。
 実兄である孟高ですら、弟の氣概に押された。が、彼はなんとか正気の範疇に踏み留まった。
 父の威光を示す為にも、兄として威厳を保たねばならない。
「この地になど用はない。お前に用があるのだ。……お前は一体ここで何をしているのだ。暴れ者のお前が仕官してくれたと、涙を流して歓ばれた父上に便りの一つもよこさずに……。父上は心配の余り、この兄を遣わしたのだ。所が、護羌校尉の本陣にお前を訊ねれば、一ヶ月前に巡視に行くと言って陣を出たきりだと言われる始末……」
 彼が厳しい口調で言うと、卓は目を大きく見開いて
「一ヶ月! そうか、もう一月になるか。いや、月日の経つのは早いものよ!!」
 わめいた。その口ぶりが、まるきり他人事のような、あるいはむしろ楽しげですらあるものだったので、大人しい孟高もさすがに立腹し、更に声を荒げた。
「父上も私もお前の身を案じて居るのだぞ! ……父上は我らに期待をかけておられる。お前には地方の雑吏などで終わって欲しくないのだ。お前を見込んでいる」
 学問では弟に引けを取ることのない孟高だが、膂力では到底叶わない。それ故父親は跡継ぎである彼ではなく、弟に家名を上げる望みを掛けている。
 孟高は口惜しかった。弟が愛されていることが、己が不甲斐ないことが、口惜しくてならなかった。腹の中で渦巻く口惜しさが、語気を更に強めた。
「父上はお前の立身出世を望まれておられる! それをお前ときたら、与えられた役務を投げ出し、こんな蛮族どもと遊ぶばかりで!」
「蛮族!? はっ!!」
 卓の日に灼けた顔が、ぬっと、兄の青白い顔の前に突き出された。赤銅色をした顔は、怒っているようでもあり、嗤っているようでもある。
 孟高はたじろぎ、数歩後ずさった。
「こいつら羌族・胡族が蛮人ならば兄上などは何だと言うのだ!? 他人を蹴落として出世するために、学問とやらにすがりつく兄上等は、一体何だ!!」
 孟高は答えられなかった。答える間もなかったのだ。
 卓は兄の返答を待っていない。彼は足元の友人に何か声をかけた。孟高の知らない言語だった。
 友人が頷くのを見て取ると、卓は横目で兄を睨み、
「兄上が羌・胡を蛮族と呼ぶならば、俺は役人・官吏を蛮族と呼ぼう!! その蛮族に、兄上が学問で成ろうというのなら、俺はコレで蛮王と成ってやる!!」
 孟高の耳元で大気が鳴った。
 弓の弦が弾ける音だった。
 直後、後方で、地面を叩く軽い音がした。
 振り向くと、十歩ばかり後方の大地の上で、一羽の雁が翼をばたつかせていた。
 雁の胴には朱塗りの矢箭が深々と突き刺さり、背へと突き抜けている。
 今一度振り返った孟高の鼻先で、弟はニヤと笑んでいた。
 右手には、強弓が握られている。
 孟高は目を見開いて弟の顔を見た。
 ……いや、見たのではない。ほんの一瞬も瞼を閉じること許されず見開かされた瞳のその中に、弟の姿が入り込んできているだけであった。
 卓は笑っていた。人懐こい笑顔だった。誰もが魅了される、愛される笑顔だった。
「兄上、父上によろしゅうお伝え下され。卓は至極真面目に働いておると。その内に天蓋の馬車でお迎えに上がる、と!」
 呆然と立ち尽くす兄の横を通り抜け、異国の男達を引き連れて、卓は歩を進めた。
 そして繋いであった彼等の馬の、鞍もない裸の背に跨ると、高らかな豪笑を残して、遥か西の地平の果てへと駆けて行った。
 もうもうと立ち昇る砂塵を、孟高はただ見送った。乾ききったその唇からは、嘆きにも似た呟きが漏れた。
「確かに、確かにあれは武によって身を立てるに違いない。だが、あの眼光は……あの逆巻く火炎は……」
 孟高の口元にも、弟のそれに似た笑みが浮かんでいた。
 
 これよりおよそ二十有余年の後、董擢とうてき孟高の実弟・董卓とうたく仲穎ちゅうえいは、自身の言葉通り武によって身を立て、それにより董家は栄華を極めることとなった。
 しかしその手段の如何を、そしてその結果の如何を、兄が見る事はなかった。
 
 史書にはただ、「董擢孟高は、若死にした」とのみ記されている。
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