卵 − 興平元年(194年)、徐州・小沛。 【1】 BACK | INDEX | NEXT

2014/09/20 update

 興平元年(194年)、徐州・小沛。

 確かに立派な家だった。
 だが不思議と、豪邸に付き物の閑散さが無い。
 かと言って、にぎやかな訳でもない。
 大体、この屋敷には人気というものがない。
 そもそも、客をもてなすのに婢(はしため)が一人しか出てこないというのが、なんとも妙である。
 
「それはつまり、私のような“馬の骨”では下の者がまとまらない、という事だろう?」
 静かな、小さな宴席の上座で、この家の主は眉一つ動かさずに、客に尋ね返した。
 主の白く丸く長い顔は、髭の薄さも手伝って、さながらつるりとした卵の風体だ。
 表情に起伏がないところも、ますますその感を高める。
 しかし、口元に微かな笑みがあるから、冷淡な印象は受けない。
 柔らかな無表情、少ない口数、直截な物言い。
 客は、主人・劉備玄徳(りゅう・び げんとく)が相当な偏屈であろう事を予想してはいた。
『しかし、あの顔は…。腹の中が読み取れぬ』
 客……麋竺子仲(び・じく しちゅう)……は困惑を面に出さぬよう努めて、応えた。
「有り体に申さば、そのような事ですな」
「子仲殿も大変だな。そんな“馬の骨”を主公(あるじ)にしようというのだから」
 劉備のイヤミには、何故か毒気がない。
 
 麋竺は先の徐州牧・陶謙(とう・けん)の幕僚だった。
 三日前に薨(こう)じた主君は、今わの際に何故か、客将・劉備を後継者と指名した。
 
「陶徐州様のご遺言ですから」
「仕方がない、かね?」
 劉備がニッと笑んだ。
「……いかにも」
 釣られて麋竺も笑んだ。笑みながら、肺腑の奥にため息を押し込んだ。
『厄介な御仁だ。当たり前のように、他人を己の手の内に引き込まれる』
 劉備は笑いながら続ける。
「馬の骨に良家の娘を嫁がせて箔を付けるのは良くある策だ。しかし、貴君の『己の妹を』というのは……また思いきった策だな」
 笑んだ口から溢れるのは、なんとも砕けた口調だった。
 だが、彼の目元には笑みがない。……少なくとも、麋竺にはそう見える。
「使君(しくん)が御正室を亡くされたと聞いての事ですが。……我が妹ではご不満ですか?」
 劉備は視線を麋竺から外し、己の傍らをチラと見た。
 そこには婢が控えている。
 歳の頃十八・九。美人とは言い難いが、愛敬のある顔をした、よく働きそうな女だった。
 主の眼差しに、女は慌てて杯を満たした。
 劉備は杯を口に運ばなかった。それを掲げたまま、空いている方の手を、自身の大きな耳たぶに伸ばした。
 瞼を閉じている所から推するに、何か考えているようだ。
 暫くして、彼はボソと言った。
「国を安んじたいのなら、実績がある者に与えれば良かろうに。……寿春に袁公路が居る。四代三公の家柄に徐州を譲れば良いものを」
「あの傲慢な男に、ですか?」
 袁家は四代に渡って国家の重臣たる『大尉・司徒・司空』の、いわゆる『三公』を排出した、当代随一の権勢家だった。
 現当主の袁術公路(えん・じゅつ こうろ)は人望厚く、配下には良臣が多い。
 だが彼はその人望が「家柄から高まった」物である事を忘れ、「自身の人間性に因る」と取り違えていた。
 故に、時折わがままな振る舞いをする、との風聞もある。
 麋竺が目を丸くしたのはその為だった。
「昨日、元龍殿もそう言っていたな。文挙殿に到っては『あんなものは墓の中の骸だ』と」
 劉備が事も無げに言うので、麋竺の目はさらに丸くなる。
 陳登元龍(ちん・とう げんりょう)は済北国の相を務める陳珪漢瑜(ちん・けい かんゆ)の息子。
 北海国の相たる孔融文挙(こう・ゆう ぶんきょ)は孔子から数えて二十代目という儒家。
 共々、徐州では推しも推されぬ『大人(たいじん)』である。
「あのお二人の薦めすらも、お断りに?」
 麋竺の驚嘆に、劉備は応えなかった。
 彼は目を閉じたまま、逆に麋竺に訊ねた。
「子仲殿は元々商人だったそうだな?」
「はぁ。麋家は五代遡ってなお商いをしておりますが」
 麋竺はいぶかし気に、それでも答えるだけは答えた。
「私も昔、商いをしていた」
「左様で……」
 初耳だった。
 麋竺は、劉備の閉ざされた目をじっとみつめた。
「麋家には到底及ばない、ほんの小商いだったがね。それでも家族を養う事はできた。だからよく知っているつもりだ。商人は利の無い事には関わらない、ということをな」
 劉備はゆっくりと瞼を持ち上げた。
「子仲殿、私を州牧に持ち上げて何の利がある?」
 穏やかな視線と静かな言葉が麋竺を貫いた。
 一拍の間が、重く流れた。
 劉備は、低く言った。
「俺は大店の入り婿には向かんぞ」
 眼光が一転した。
 今までの穏やかさが掻き消えていた。
 その鋭さに刺されて、麋竺は息を飲んだ。
『読まれた』
 彼は、そして彼の同僚達は、劉備をただの傭兵隊長だと見ていた。
 無学な武偏者に過ぎないと思い込んでいた。
 所が、違った。
 劉備は陶謙の遺臣達の目論見を見抜いている。……田舎者に良家の子女を充てがって恩を売り、お飾り殿様を仕立て上げ、州政を思うままに牛耳る目論見を……。
『見誤った。とんだ食わせ者だ』
 麋竺の総身から脂汗が滲んだ。
 上目遣いに劉備を見上げる。
 彼は再び目を閉じていた。
 そうして、静かに言う。
「それに、なぁ……」
 劉備は一息に杯を干した。
「私には女房を二人も養うだけの甲斐性がない」
 澄んだ笑い声が、狭い室内に響いた。
「は?」
 麋竺が言葉を失い、ぽかんとだらしなく口を開けているその眼前で、劉備は傍らの婢を抱き寄せた。
「こいつはな、甘美淑(かん・びしゅく)といって、古くから当家に仕え、母の世話をしてくれていた。母はこれかお気に入りで、後添えにしろ、とうるさく言う」
 頬と耳とを真っ赤に染めた美淑のうれしそうな困惑顔の横で、劉備は笑っている。
 三度開かれた目の中にあるのは、楽しそうな、嬉しそうな、澄んだ笑みだ。
 その笑みで、麋竺の脂汗は一気に引いた。
 そして彼も笑った。心の底から笑った。
「それでは婢がいなくなり、御母堂のお世話にお困りになるはず。我が妹を侍女になさいませ。それから州牧には、やはり使君に成っていただきたい。……いや、あなたでなければ、劉玄徳でなければなりません」
 麋竺は大商いの予感に浮かれていた。
 何が生まれるか判らない、巨大な卵を仕入れた……そんな気がしていた。
〈了〉
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