序章 − 転換 【4】 BACK | INDEX | NEXT 2014/09/20 update |
冷たい風に頬を撫でられ、主税は意識を取り戻した。 頭上遙かに開けた針先のような空間から、暖かい光が射し込んでいる以外は、全くの闇が辺りを包んでいた。 手が、酷くざらつく。よく見ると、手の甲は土にまみれている。 ズボンで拭おうとしたが、むしろそちらの方が泥まみれであるということに気付いた彼は、瞬時に 『落ちた』 と悟った。 どこから? …あの針先のような空間から。 相当に高い、あの場所から? …それににしては自分は怪我をしていない。 自分…は? 腕の中に、なにもない。抱えていたはずだ。大切な… 「優! どこだ!?」 語尾が、ワァンと反響した。 この空間は、広い。 そして明らかに人工的だ。床は煉瓦引きだし、壁は漆喰様に白い。 主税は闇の中に目を凝らし、ゆっくりと立ち上がった。 「優! 優!?」 声は揺れながら、一つの方向へ流れた。 風上へ。 冷たい風の流れにさからって、声が闇に吸い込まれてゆく。 そして。 「…ラ…カラ!」 冷たい風の流れに乗って、声が漂って来た。 それと同じ距離から、ゆっくりとした軽い足音が2つ聞こえる。足音は、間違いなく赤石主税に近づいて来ていた。 「チカラ! 良かった、気が付いた!」 緑川優の半分泣いたような声と、一滴の水が床にこぼれ落ちた音と、ぱたぱたと軽い足音が同時に聞こえ、同時に近づいてくる。 「チカラ、目覚ましたね。良かったよぉ」 泥だらけの優が、主税の胸へ飛び込んできた。 冷たい水が一滴、主税の頬に跳ね飛んだ。 「頭から血が出てたから。呼んでも、全然、動かないし。でも、息はしているから。それで、水の流れる音がして。だからチカラに水を汲んできてあげようと思って。それで…」 普段は子供ながら脈絡の通った話しぶりの優だが、今は言葉がひどく混乱している。 当然といえば当然だ。保護者であり友人であり、この度の唯一の道連れである主税が、怪我をし、意識を失っていたのだから。 「判ったよ、ありがとう」 主税は優の頭を一なですると、 「折角だから、その汲んできた水ってヤツをくれないかな。…それと…」 視線を持ち上げ、闇の中を見据え、その中にいる気配へむけて低く唸るように訊いた。 「お前は、誰だ?」 気配はふわりと沈んだ。 小さな光がいくつも瞬いて、主税の足許にひれ伏す、若葉の香りのする羅紗に身を包んだ者の姿を照らし出した。 「私はシロネン。この地の管理者。長く眠り続け、目覚める季節を待ち続けた者」 顔を上げた。 萌葱色の髪は肩までの長さ。 両耳に下がる真円の環は鈍く光る金。 長裾のゆったりとした衣。 「シロネン?」 主税の研究対象であるアステカ神話に、そんな名前の女神が登場する。シロテ(熟していないトウモロコシの実)を司り、その穂を病や不作から守る女神だ。 「若いトウモロコシの女神が、こんな洞窟の底にいるなんて、大した冗談だな」 3000年の昔、中南米の現住民族の大地では、様々な祭りが行われていた。現在の太陽暦で7月終わりほどに当たるトウモロコシが実る直前の時期…それは丁度、前年収穫した穀物の蓄えがつきるころでもある…にはシロネン女神の祭りが行われた。 求める者達全てに充分な食料が施され、歌と踊りが神殿を飾る。 シロネンの祭りは来るべき収穫の前祝いであり、充分な食料を蓄えられなかった弱者の救済であった。 何にせよ、若さと命と豊穣の象徴であるシロテの女神に、闇や地下は似合わない。 「あなたにもこの地は似合いません。我が王、カマシュトリ様」 その幼顔の娘は、懐かしげな笑顔を主税に向けた。 「悪い冗談だ!」 主税は頭を掻いた。固まりかけたゲル状のカサブタが、ボロボロと落ちた。 「カマシュトリだって? 創造神オメテオトルの長子で、東を司る赤い軍神で、太陽神トナティウや生贄の神シペトテックと同一神で、トラスカラの主神だぞ!」 「チカラ…」 しがみついていた優が、不安そうな小声を出した。 「呪文みたいで、何言ってンのか解ンない…。とりあえず、シロネンさんはいい人だよ。お水もくれたし」 優は半分以上水がこぼれてしまっているカップを差し出した。金色の光を鈍く放つ金属性のそれはずっしりと重く、主税の掌になじんだ。 底に溜まった透き通った水の小さな丸い手鏡は、泥と擦過傷のカサブタに覆われた男の顔を映した。 赤い髪、光を弾く金属片をあしらった耳飾り。額から鼻に抜ける赤い顔料の筋、両頬に走る三本の赤い線。鋭い眼光。 「!?」 主税は、やはり泥まみれになっている袖で、目を擦った。 黒い髪、狭い耳たぶ。埃まみれの鼻筋、両頬にこびりつく腐葉土。戸惑う眼差し。 顔を上げた。 シロネンを名乗った少女が、彼の前でひざまずき、ゆっくりと頭をもたげて微笑んでいた。 「カマシュトリ様の持つ『煙を吐く鏡』は、真実を映す鏡。…例えそれがどのような破天荒でも、信じがたい光景でも、否定したい姿でも、あなた様の見たモノは総て真実です」 「待て、待ってくれ!」 主税は頭を掻いた。固まった軽石のようなカサブタが、ボロボロと落ちた。 「百歩譲って、君の目に僕がカマシュトリ神に見えたとしても、僕は僕自身をカマシュトリ神だとは思えない。だから僕が手にした鏡面に何が映ったとしても、僕には虚像か、幻覚としか思えない」 「…では、鏡を通さずにご覧になった物はいかがですか? 陛下の御目に映った物は『真実』ではありませんか?」 シロネンがすっと手を持ち上げた。 細い指先が、主税と優の背後を指し示した。 振り返る。深い闇がある。 視線を送る。白い壁が浮かび上がる。 目を凝らす。黒い固まりがうごめいた。 人の形をした闇が、いくつもいくつも動いている。 見たことのある闇。 「あー!!」 引きつった大声を上げた優の口を、主税はあわてて掌で覆った。 「うーうーううーーー」 「解ってる。さっき、山道で見た奴らだ」 「うー、うぐぅううー」 「だから大きな声を出すな。気付かれたら、また撃たれっ!!」 言いかけたその時、冷たい光の紐が闇の中から放たれた。 光が床に当たった。 まるで火薬が破裂するように床が弾けた。日干し煉瓦のかけらが猛烈な勢いで飛び散った。 主税は優を抱きかかえ、そのまま背中から倒れ込み、床を転がった。 乾いた土埃が鼻の穴に飛び込んでくる。 「何なんだ、一体!?」 咳き込みながら顔を持ち上げた。 シロネンが緊迫した、しかし微塵も不安を感じさせない真っ直ぐな目で、主税を見ていた。 「判りません。ですが、かつてあなたは彼らを『新しい魔王の僕(しもべ)』と呼び、彼らは自身を『神の子』と称していました」 パンッ。 乾いた、耳に突き刺さる音がし、再び床が破裂した。 2度、3度。続けざまに破壊が起こる。 炸裂音の合間に、別の耳障りな音が聞こえる。 「ギギ、ギギギ」 「ギィ、ギギ」 「ギギギギ、ギギギギギィ」 会話をしているかのようなせわしなさで、とぎれなく聞こえるノイズは、次第に確実に、床を転げて逃げる主税と優に近付いてきた。 が。 ビシッ。キンッ。バッ。 唐突に、硬い物がそれほど硬くない物とぶつかり、切り裂かれ、倒れ込む音がした。 「ギィ! ギギィィィ!」 悲鳴にも聞こえるそのノイズを最後に、音はしばし途切れた。 巻き上がっていた土埃が、ゆっくりと重力に負けて落ちてゆく。 しかし、埃は床につく直前に、再び舞い上がった。 空気が渦を巻いていた。その中心には、人型の影が一つ、立っている。 背丈を超える長柄物を携えた影は、白く輝いていた。 |
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