いにしえの【世界】 − 朝ぼらけ 【17】 BACK | INDEX | NEXT

2015/02/16 update
 この日、この村で奇っ怪な死に方をした人間は、合わせて九名だった。
 勅使一行の旗持ちの若者と、付き従っていた伝令官の男、下男二人と下女三人。そして呑み食い屋にいた二人の農夫だった。
 芝居小屋に駆けつけた村の役人は、勅使の従者達の死骸を見つけ、嘔吐し、卒倒しかけた。それほどに酷い有様だったのだ。
 役人達は肉食の獣が爪や牙を持って殺害したに違いないと判断した。
 幾人かの村人や一座の者が、小屋の裏の方から獣の咆吼や何かが暴れる大きな音が聞こえたと証言していたし、楽屋口の壊されようも、到底人間の行いとは考えられないものだった。
 呑み食い屋の前の大通りにうち捨てられていた農夫達の死骸は、明らかに人の手によって殺されていると判った。一人を真正面から唐竹割に、もう一人の胴を両断した凶器は、断面の様子から、卓越した使い手が振るった鋭利な刃物であることが明らかだった。
 不可解だったのは、農夫達はそのむごたらしい姿を半時も道端に晒されていたというのに、通りを行き交う者が誰一人として気付いていなかったことだった。
 彼らが悲鳴を上げたのは、芝居小屋の中で真鬼《オーガ》が倒され、皆の目玉から砂粒ほどの赤い欠片がこぼれ落ちた後だった。
 もっとも、彼らは何故自分の目が唐突に「開けた」のか、理由を知ることはなかった。彼らからしてみれば、突然足元に惨殺体が湧き出たようなものであった。
 飲み食い屋の客の中には、その時になってようやく自分も怪我を負っていることに気付かされた者もいた。その数は、傷の大小を合わせて十数人に及ぶ。
 残りの死体は、勅使ヨハネス=グラーヴ卿の一行が宿舎としていた屋敷で見つかった。
 勅使一行に従っていた小者下女、合わせて五名。
 しかし、それらはどう見積もってもここ数日に死んだ者とは思えぬほどに腐敗が進んでいた。
 屋敷には生存者がいた。一行が村に着いてから雇い入れた年配の下男ただ一人だった。
 腐乱死体の傍らで腰を抜かして座り込んでいた老人は、村役人に問われて、
「皆、突然動かなくなり、見る間に肉が腐り落ちた」
 と証言をした。
「ただ黙々と良く働く人たちでございました。連中はこちらから話しかけても一言だって答えやしませんでした。ええ、連中同士も互いに声を掛け合うことはありませんでした。まるでカラクリの人形のようだと、少々薄気味悪く思いはしました」
 役人は公式な書類に彼の言葉をそのまま書き留めた。
 信じがたい証言ではあったが、他に目撃者はいない。状況から見てもこれを信用するより他なかったのだ。
 役人は老人にもう一つ尋ねた。
 勅使・ヨハネス=グラーヴの行方である。
「ご家来衆を引き連れて、芝居小屋にゆかれましたよ。晩には戻られるってぇ話だったんですがねぇ」
 家臣達は村の広場の芝居小屋にいた。ただし、そのうち二人は物言わぬ惨殺遺体であり、証言は取れない。
 残り三名も、まともに取り調べができる状態ではなかった。
 耳朶を切り落とされた衛兵は何を聞いても貝のように口を閉ざし、返答しない。
 別の一人は肉体的な外傷はなかったが、余程恐ろしい思いをしたらしく、錯乱状態にあり、話をするどころではなかった。
 痩せた少年(イーヴァン)は衰弱しきってい、村にただ一人の医者が尋問を許可しなかった。
 フレイドマル一座の座員達も尋問された。
 木戸番が
「閣下はご家来衆を連れて……確か四人、ええ、旗持ちの方が先頭で、閣下とあと三人、全部で五人で、ウチの座長と一緒に小屋へ入られました」
 と言った。その後のことは判らないと首を振る。
「閣下があっしのほうをちらりとご覧になったところまでは……。そこから先のことは良く思い出せません。目がチクチク痛んだことぐらいです」
 木戸番の両の目は、酷く充血していた。
 座長フレイドマルは、小太りの体をガタガタと震わせつつ、役人の問いに神妙に答えた。
「確かにお屋敷から小屋へご案内いたしました。途中、呑み喰い屋に? ええ、寄りました。店の中を覗き込んだとき、埃が酷くて目がチクチクしました。閣下は私を気遣ってくださいましたよ。小屋についてすぐ、私は用があって舞台裏に参りまして……戻ってきたときにはもうお姿はなく、奇妙な、真っ黒い化け物が暴れておりました」
 座長は顔中を包帯で覆い隠していた。
「目玉が落ちた……らしいんで。ええ、覚えておりません、なにも。どこかで怪我をしたのか、化け物に喰われたのか、何なのかさっぱり」
 団員達のほとんどは楽屋裏におり、皆、客席の側で何が起きたのか判らないと言う。
 客席の側に居たのは指揮者一人と楽隊員五名、そして戯作者だった。
 楽隊員達は異口同音に
「グラーヴ卿が化け物になった」
 と証言した。
 ところが、同じ場所にいた戯作者がそれを否定した。
「最初から化け物でしたよ。少なくとも、劇場にやって来たヨハネス=グラーヴらしいものは、人間の服を着て人間のふりをした化け物でした。……いつから本物と化け物が入れ替わってかなんて、それは私《あたし》の知ったことじゃありませんよ」
 村役人は、ヨハネス=グラーヴを「生死不明、行き方知れず」と断じ、報告書に記録した。
 呑み喰い屋の外で農夫達を殺した犯人として真っ先に嫌疑をかけられたのは、身元のはっきりしない余所者《よそもの》である、エル・クレール=ノアールとブライト=ソードマンだった。
 取り調べはブライト一人が受けた。
 彼は役人にエル・クレールは重傷を負い伏せっていると告げると、あとは何も言わず、自分の腰の物と「主人」のそれとを役人に提出した。
 古びた長剣と真っ二つに折れた細身の剣は、持ち主にかけられていた疑いをすぐに晴らしてくれた。
 樫の木を削りだした模造刀では、人を「斬り殺す」ことは到底できない。
「俺達は……特にウチのかわいい姫若様は……人を傷付ける道具が大の嫌いでね」
 律儀な村役人は、ブライトの不可解な物言いも一字一句違えることなく書類に書き記した。
 次に疑われたのは片耳を削がれた勅使の衛兵だった。大柄な剣術使いの剣には、脂による曇りがこびり付いていた。
 決定的といえる証拠があったにも関わらず、村役人は彼を捕縛することができなかった。
 衛兵は件の長剣の切っ先を自分の喉元に向けると、勢いよく大地へ倒れ込んだ。
 この「十人目の死者」が出たのは、夜明けの鶏が鳴く直前だった。
 村役人は夜なべで書類を書き上げた。
 正体不明のものが、屋敷の下男下女を殺害。
 勅使ヨハネス=グラーヴになりすましてグラーヴの家臣を欺して農夫達を殺害させた。
 人々が集まるであろう芝居小屋に赴き、人々に害なそうとして、家臣達を死傷させた上、逃走した。
 そういった事件の概要を書きまとめると、彼らは何故かその書類を、ブライトの所へ持ってきた。
「貴公のご主君は……」
 若い地方官は恐る恐る切り出した。
「ウチの姫若様が、何だって?」
 ブライトは不機嫌を丸出しにして彼を睨み付けた。
 利き腕の骨を折られ、全身を強く打ったエル・クレールは、村の宿屋の一室で手当を受けている。その「病室」に、彼は入ることを許されていないのだ。
 宿屋の亭主に言わせれば「宿で一番上等」だという部屋の、立て付けの悪い古びたドアの前に、フレイドマル一座の踊り子が二人、門番よろしく立っている。
 エル・クレールとブライトがシルヴィーを抱えて芝居小屋にやってきた時に、小屋の外で小道具の修繕をしていた娘達だ。
 彼女らは二人とも本名をエリーザベトという。仲間達は二人を「痩せのエリーザ」と「雀斑《そばかす》エリーゼ」と呼び別けていた。
 二人は一座の踊り子の中では背丈が高い部類だった。演目によりけりではあるが、男役を務めることが多い。
 そのためもあってであろうか、普段から言葉も少々強めであり、態度も幾分横柄な所がある。
 彼女らは医者以外の「男」がやって来ると扉の前に立ちふさがる。そうして、怪我人の見舞いをさせろという彼らに向かって、口角泡を飛ばしてまくし立てる。
「冗談じゃないよ。だれがお前なんぞをお可哀相な姫若様の寝所に入れたりするものか」
「医者様の見立てじゃ、腕の骨が折れているばかりか全身の骨という骨にヒビが入ってるうえに、筋という筋が切れたり伸びたりしてるんだよ」
「普通なら、死んじまったっておかしくない大怪我なんだ。上を向いたら背中の怪我に、下を向いたらおなかの怪我に障る」
「布きれ一枚だって傷にさわってご覧。気を失うくらいに痛むっていうんだ。しかたなしに、半分裸みたいな格好でおられる」
「息をするのだってやっとなんだ。その息だって、ホンの少しずつ、そっと吸ったり吐いたりしておられる」
「そんなところに、お前が吐きちらかす生臭い息なんぞが混じりでもしてたら、高い薬だって効き目が出ないに決まってるじゃないのさ」
「とっとと失せな。この下種どもめ!」
 耳の先まで真っ赤に染めて激しい早口で言われては、男共には口を挟む余地がない。皆、彼女らの剣幕に押されてすごすごと引き返す。
 では女の見舞客は総て通されるかというと、そうでもない。「門番」の同僚である踊り子の内の、ごく一部の幾人かは、男共とほとんど同じ台詞を頭の上から浴びせられ、追い払われる。
 追い払う相手と通す相手の区別は、門番二人が着けているらしい。
「追っ払うのは、姫若様のお体に障る連中だけですよ」
 ブライト=ソードマンの前に立ちふさがった二人のエリーザベトは口を揃えて言った。
「つまりは、色狂いの色気違いの助平の変態野郎ですよ。女の内にもそういうのがおりますからね。男だろうが女だろうが、そいつの心持ちが良くなけりゃ、一切姫若様には近づけたりやしません」
「すっかりお弱りの姫若様には、ほんの僅かな淫らがましい気配でも、酷い毒になりましょうからね」
「この俺からも毒気が出てる、ってか?」
 居丈高に胸を反らせると、ブライトは目を針のように鋭く細め、尋ねた。踊り子達は一瞬おびえ、またひるんだが、すぐに勇気を振り絞って、
「旦那もです」
 きっぱりと答えた。
「俺ほどアレのことを心配しているニンゲンは、他にゃ居ないってぇのにかね? 大体、俺はアレの……」
 言いかけて、しかしブライトは言いよどんだ。自分とエル・クレール=ノアールとの間柄を的確に表す言葉が存在しない。
 エリーザベト達は彼が言葉を探しているほんの僅かな隙間に、自分たちの声をかぶせた。
「旦那と姫若様が、ご家臣なんだか、師弟なんだか、友達なんだか、同志なんだか、兄妹なんだか、妻夫なんだか、家族なんだか、他人なんだか、アタシ達は存じ上げません。存じ上げませんけれど、特に別して、旦那はダメです。毒が強すぎます」
「この俺が何処からあいつの毒になるような邪さを出しているって?」
「頭の先から、足の先まで、全身からぷんぷんと」
 エリーザとエリーゼは合唱でもしているようにぴったりと息を合わせて言い切った。
 そしてブライトが何か言い返そうと息を吸い込んだその瞬間に、集団舞踊の振り付けのようにぴったりと動きを同調させて辺りを見回した。
 宿屋の廊下には彼女らとブライト以外の者は居なかった。彼女らが全部追い返してしまったのだから、当然ではある。
 二人はそれでも慎重に、声を殺して言葉を続けた。
「旦那が姫若様を心配しているのはあたしらにだってよくわかる。でもその心配の気配が、姫若様には良くないんですよ」
「ああいう真っ直ぐなお方は、自分の所為で相手が心配していると思えば、無理をして平気な風に振る舞っちまったりするもんなんです」
「自分を大人に見せたいお年頃でしょうしね。相手が大人であればあるほどにね」
「そうそう、旦那は大人でいらっしゃいますからねぇ。商売女の扱いは見るからにお上手そうだ」
 踊り子達はブライトの頑丈な肉体を舐めるような視線で眺めた。
 視線が彼の不興な顔に至ると、二人は気恥ずかしそうに取り繕いの笑顔を浮かべ、言葉を続ける。
「旦那は若い生娘が……いえ、娘に限ったことじゃないですよ。つまり姫若様のような年頃の純な子供ってものが、どんなに繊細で複雑なのか、自分だって子供の頃があったでしょうに、すっかり忘れっちまっているでしょう?」
「だから、旦那はご自分の心配を体中から吹き出させてることがどれだけむごいことなのか、心配される方の申し訳なさを察しておあげになれない」
「ま、あたし等も擦れ具合じゃあ旦那のことなんぞ言えやしませんけれどもね」
「もうすっかり真っ黒だからねぇ、あたし達は」
 エリーザとエリーゼは顔を見合わせると、淫猥と自嘲を混ぜて、クツクツと笑った。
 その笑いもやはりすぐに止んだ。
 ブライト=ソードマンが笑っている。静かに、穏やかに、優しげに微笑んでいる。
「一つ、訊きたい」
 彼の眼差しが、鋭く、険しいことに気付いたエリーザベト達は、顔を強張らせ、背筋を伸ばした。
「ウチの姫若の『秘密』を、知っている阿呆はどれくらいいるものかね? 医者は省くとして、だがね」
 柔らかい声音で聞きながら、ブライトは忙しなく指先を曲げ伸ばししていた。節くれ立った手指が拳の形になる度に、エリーザとエリーゼは背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「四人」
 二人は声を揃えた。
「あんた方以外には、誰と、誰だね?」
「シルヴィーとおっかさん」
「おっかさん?」
「マダム・ルイゾン……ウチの一番の年寄りで、座長もマイヨール先生も頭が上がらない人です」
「つまり、『そのこと』を他の誰にも言わないと『命がけ』で約束ができて、しかも他の誰にも知られないように抑えが効く人、ということかね?」
 妙に優しげな声だった。その穏やかさが、逆に恐ろしい。
「さようで」
「決して」
 二人のエリーザベトは同時に、低く抑えた声を絞り出した。
「そいつは良かった」
 ブライトは笑みを大きくすると、病室ドアに背を向けた。
 彼の姿が廊下の角を曲がって消えるまで、エリーザベト達は無言で直立したまま見送った。
 その後、彼女たちが
「あの旦那、よっぽど姫様が大事と見えるねぇ。……惚れてるのかね?」
「そりゃぁ、あんな綺麗な姫様だ。旦那じゃなくたってベタ惚れだよぉ」
 などとささやき遭っていた言葉は、さすがのブライトの耳にも届かなかった。
 彼があてがわれた宿屋の別の一室で村の役人と対峙したのは、それから小半時ほど後のことである。
 小さな木のテーブルの上に質の悪い紙の束が積み上げられた。たどたどしさすらある筆跡で、細かくぎっしりと文字が書き込まれている。
 気の弱そうな若い村役人は、背もたれ無しの粗末な椅子の上で身を縮めて、上目遣いにブライトを見ていた。
「諸々の証言を一言残らず正確に書きましたら、あまりにも常識外れな調書になりまして。このまま郡の上役や領主様に見せても、信じて貰えないでしょう。かといって、事実を曲げることはできません。でそこで、貴殿のご主君にご助力を願おうと思い至った次第です。つまり、ここに書かれていることに目を通した、といった具合の文言を、若君に一筆添えていただければ……」
「検閲済み、ってか? なるほど、テメェの要領の悪さを、ウチの姫若に押しつけようってけ魂胆だな。だがな、ウチの姫若のサインにそんな神通力があるとは、俺には思えねぇよ」
「グラーヴ卿が、そちら様を『同業』と仰ったとか。都の皇帝陛下の直属であられるなら、ここの貧乏領主などより余程格上です」
 役人は真面目な顔で言った。頬には、都であるとか皇帝であるとかいう言葉に素直に憧れている、田舎者らしい笑顔があった。
「白塗り婆さんが、余計なことを言ってくれたもンだぜ」
 ヨハネスという通り名の老嬢ヨハンナ=グラーヴにその言葉を言わせたのが自分の行動であることが口惜しい。
 ブライトは天井を睨み付けた。薄っぺらな板の向こう側に、エル・クレールの病室がある。
「面会謝絶でね」
「ご家臣でも、お会いになれない?」
 ブライトは返事の替わりに舌打ちをした。
「そうですか。ではお怪我の加減は相当にお悪いのですね」
 役人は肩を落とし、机上の書類を眺めた。弱り果てているというのは、背中の丸みを見ればわかる。
「俺は医者じゃねぇンだ。診立てようがない」
 態《わざ》とがましく棘のある物言いだった。役人は、若い貴族に付き従う忠義者が主の身を案じ、苛立っているのだと、強く感じた。
「こんな片田舎にお寄りになったがために、わけのわからないものに襲われて、せずとも良い怪我をなされて……。なにやら、自分が申し訳ないことをしでかして、方々にご迷惑をかけたような気がしてまいりました」
 若い田舎者の役人が益々縮こまる様を見たブライトは、小さなため息を吐き出た。
「全く面倒なことをしてくれる」
 椅子を蹴るようにして乱暴に立ち上がった。
 役人は肩をびくつかせた。目をつぶって、顔を伏せる。この腕っ節の強うそうな大柄の男が、嵩に懸かって怒鳴りつけるか、力任せに殴りつけるかすると思ったらしい。
 ブライトは、もう一度ため息を吐いた。
「テメェにゃ関わりのないことの責任を勝手に背負い込むような青臭い莫迦の尻ぬぐいするなんて厄介事は、ウチの姫若の分だけで手一杯だっていうのに」
 床を踏みつけ大股に部屋の隅に向かうブライトの声音には、呆れはあるが不機嫌がない。少なくとも、若い役人にはそう聞こえた。
 彼は硬くつぶった目をそっと開いた。
 部屋の隅の床に、古びているが頑丈そうな革袋が無造作に投げ置かれている。ブライトはその口紐を足先に引っ掛けた。鞠のように蹴り上げられた革袋を、彼は胸の前で無造作に受け止めた。袋の中から、金属が触れ合う高く重い音が漏れる。
「知ってるかい? およそ雲上人ってのは、やたらな書類のための文字ってものはご自分じゃあお書きにならないもンだ」
 革袋の中に手を突っ込み中を漁りつつ、壁際の小テーブルに置かれていた燭台を掴むと、彼は元いた机の前に戻ってきた。革袋にしたのと同じように、足先で器用に椅子を立て直し、どかりと座る。
 卓上に燭台を乱暴に置いた。革袋の中から火口箱と大振りな金属の円盤を取り出して、これも無造作に置く。
 使い込まれた火口箱には磨り減って消えかけた焼き印が押されていた。
 若い村役人は、その文様がハーン皇帝の徽章《おしるし》であることに気付かなかった。正確に言うと、知らなかったのだ。彼が物心ついた頃にはハーン最後の皇帝は「都落ち」していたのだから仕方がない。
 だが、もう一つの金属盤に刻まれている、二匹の鬣《たてがみ》のある蛇が絡み合う文様の「貴さ」は彼にもすぐにわかった。
 生唾を飲み込む役人に一瞥をくれると、ブライトは火口箱から燧石《フリント》と黄鉄鉱《パイライト》を取り出し、火口炭を燻《くすぶ》らせた。火種はすぐに蝋燭に移され、小さな炎となった。
 その動作の間、ブライトは口をへの字に曲げていた。しかし目には笑みがある。
 若い村役人は痙攣に似た瞬きをした。ブライトの言わんとしていること、やらんとしていることが理解できていない。
 きょとんとした顔で己を見上げる役人の鼻先に、ブライトは手を差し出した。
「ペンとインクと封蝋」
「あ……」
 ようやく理解した様子だった。
 村役人は携えてきた筆記具を彼に手渡しすと、自身が書きまとめた書類の最後の一葉を卓上に広げた。
 書類の制作者の署名、彼の直接の上役の署名、村長の署名が、紙の上方三分の一に、押し込められるようにして並んでいた。
 残り三分の二の空間に、所見と署名を記載せよということだ。
「用意のいいことだ」
 ブライトは使い古しの鵞ペンをインク壺に漬けると、卓上の用紙を極端に斜めに置き直した。
 強い筆圧で押し潰されたペン先が、起伏が少ないく平べったい続け字を、右肩上がりに記してゆく。
 書き上げられたのは僅か二行。
『関係者の証言を一言一句間違えることなく記したものと認むるものなり。
 なお、この地に訪れし“彼の者”はしかるべき場所にしかるべき如く在るなり。』
 一行目は兎も角、次の行が何を意味する言葉であるのか、若い役人には理解できなかった。小首をかしげて書き手の手元をじっと見つめる。
「これかい?」
 ペンをほ放り出すと、ブライトは唇の端に柔らかい小さな笑みを浮かべた。
 もしこの場にエル・クレール=ノアールがいたなら、すぐさま、この笑顔が彼の感情から自然と湧き出たものではなく、物事を有利に進めるための狡猾ですらある作り笑いであると見抜いただろう。
 蝋燭の炎の上に禿びた封蝋の先端をかざしつつ、ブライトは空いた手で卓上の銀色の円盤……すなわち「双龍のタリスマン」などと呼ばれるものに手を伸ばした。
 絡み合う龍が描かれた表面も、いくつかの赤く丸い小さな石の象眼された裏面も、その細工は豪華で美しい。ブライトはそれらの文様を全く見ていなかった。
 銀色の円盤を親指と中指でつまみ上げ、人差し指で分厚い外周に刻まれた文字の凹凸を弾くようにして転がし、指の腹で文字を読んでいる。
「その御託の意味なンざ、この俺だって知るものか。聞くところによりゃぁ、解る人には解る決まり文句みたいなもンだそうだ。例えばウチの姫若様や、お宅のゴ領主サマぐらいにゴ身分が高い方だけが、こいつをゴ理解なさるってものさ。俺達のような下々の者にゃ、関係のないことなンだろうよ」
 厭味と卑下と慇懃無礼を練り混ぜたブライトの言葉に、村役人は素直な感嘆を返した。
「そういうものですか」
 大きく何度もうなづいている。
「上つ方々の考えることなんてもなぁ、下っ端には到底理解できないものさ。くだらないといやぁ、とことんくだらないこったがね」
 ブライトは鼻先で笑った。彼の言う「上つ方々」に向けた嘲笑だった。同時に、素直さも純朴さも欠片すら持ち合わせていない自分に対する冷笑でもあった。
 やがて、ブライトの手の中の、銀の盤の回転がある一点で止った。節くれ立った太い指の先が小さく動く。金属の留め金が外れる小さな音が鳴った。
 ブライトは「双龍のタリスマン」を卓上へ放り捨てるようにして置いた。彼の掌の中には、銀色のメダルの意匠はそのまに大きさだけ十分の一に縮めたような、丸い金属片が一つあった。
 充分に熔けた封蝋を炎から取り出し、書類の上に滴らせる。あまり質の良くない蝋が赤黒く滲んだ円を描いた。低く盛り上がった蝋の上に、ブライトは小さなメダルを乗せた。
 指先で軽く押しつけた後にメダルを退けると、蝋の上には印影がくっきりと残っていた。
 しばらく書類を眺めていたブライトは、蝋が冷え固まったと見ると、紙の束を役人の前へ少々乱暴に押しやった。
 受け取った若い村役人は、浮き彫りに描かれた「貴い紋章」に恭しく礼をしつつ、
「ご署名は、いただけないのですか?」
 遠慮気味に訊ねた。
「そのハンコがありゃ、余計なモノいらねぇよ」
 ブライトは唇の端に柔らかい小さな笑みを浮かべた。これも作り笑いだ。
 役人も笑った。こちらは心から湧き出る晴れ晴れとした笑顔だった。肩の荷が消えたなくなった気軽さが、おのずと表に出たのだろう。
 役人は、書類の束を大事そうに抱持し、幾度も頭を下げた。いそいそと出口へ向かった彼は、ドアを閉める直前室内へ振り返り、深々と頭を下げた。
 廊下の靴音が聞こえなくなった頃、ブライトの顔の上に貼り付いていた笑顔がすっと消えてなくなった。
 彼は椅子の上で大きな伸びをした。立ち上がり、窓辺によると、役人が大通り(というほど広くないのだが)を足早に行き去るのが見えた。
「あの手の小役人が一番厄介だ。ぶん殴るわけにも罵り倒すわけにもいかねぇ分、あしらうのがとんでもなく面倒臭ぇ」
 独り呟いた後、彼は窓枠に足をかけた。
 身を乗り出した頭の上に、上階の窓が空いている。
 直後、ブライト=ソードマンの巨躯はその場から消えた。
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