いにしえの【世界】 − お芝居 【3】 BACK | INDEX | NEXT

2015/02/16 update
『時は大帝ジンの頃』
というのは、戯作者や講談師が彼らが作った物語の頭につける常套句である。
 本来ならこの文言の後に
『だから、現在実在する人物・機関とは一切関係のないお話です。あくまでも作り話、フィクションですよ』
 というお断りが続く筈であるが、大概の場合はその部分は大抵『以下省略』の体裁だ。
 そもそもこの『お断り』は一体誰に向かって発せられているのかと言えば、読者観客にではなく、政府・国家に対してである。
 ギュネイ帝国は国家に対する批判を、かなりきつく統制している。まあ、ギュネイに限らず、大概の国は多かれ少なかれ国家批判を嫌う傾向にあるのだが。
 兎にも角にも。
 ギュネイ帝国では、手放しの賛美なら許されるが、初代皇帝の人となりや、今上皇帝のお噂に、ちょっとでも『想定外の脚色』を加えよう物なら(たとえそれが「事実」であっても)、絶対君主に逆らう大罪に当たるとして、作者も版元も座長も興行主も俳優達も、みな数珠繋ぎでご用となる。
 では、なぜギュネイ以前の国体であるハーンの時代のこととしないのかと言えば、ギュネイの帝位というヤツが、ハーンから正式に禅譲されたものであるからだ。つまり、国家としてのハーンは国家としてのギュネイの親であり、その先祖は帝国の先祖という扱いだ。
 親も先祖も敬わねばならぬと、常々臣民に対して教え諭しているギュネイ帝室の方針からすれば、親であり先祖であるハーン帝室をないがしろにするわけには行かぬ。
 だから、ハーン時代に実際に起こった事件を、ハーンの帝室や政府の関係者になんらしかの落ち度があったように演出すれば、やはり逮捕される。
 こういったわけで、戯作者達は物語の冒頭で断りを入れるのだ。
 これは今の話でも、ハーンの頃の話でもないのだ、と。ハーンが打ち倒した憎き敵国の、横暴な王が支配する哀れな土地の物語だ、と。
「ああ、成程」
 エル・クレールは、翡翠色の瞳を大きく見開き、文字通り膝を打って感嘆を漏らした。
 その大げさな様子は、一般常識を言ったに過ぎないという認識のブライトを大いに呆れさせた。
 立夏前の例祭が近づき、片田舎の寒村では人々が皆浮き足立っている。
 どうやらこのあたりではこの村が一番豪勢に祭を執り行うらしい。準備もままならない内から近隣から見物客が集まり始めている。
 おかげで村に一軒しかない食い物屋は大賑わいだ。
 ブライトは相棒の世間知らずぶりが周囲の酔客に嘲笑されてはいないかを確認し、ため息混じりに言う。
「成程も何もあったモンじゃなかろうに」
 彼は木の匙を握った手を小さく上から下へ振り、声音を落とせという仕草をしてみせた。
 エル・クレールは頷いたが、声の大きさは変えられても目の輝きは消せない。
「まだ幼かった頃のことですが、母が旅回りの劇団の演目にずいぶんと不満を漏らしていたことが、ずっと腑に落ちなかったのです。大昔の良くない官僚に自決を強いられた地方領主の仇を家臣が討つという忠義な物語の、どこが気に入らないのだろうと」
 そう言って、晴れ晴れとした笑顔をブライトに向けた。その晴れ晴れしさ加減が、益々彼を困惑させる。大げさに頭を抱え込む仕草をして見せた。
「元ネタが悪すぎる。お前さんのお袋さんなら、確かに怒るだろうさ」
「そうなのですか? あなたに説明して頂いたので、本当は大帝の時代の話ではなく、ハーンの頃の実話を元にしているのではあろうと想像できますけれど、母が腹を立てる理由が今ひとつわかりません」
 笑顔の上に、うっすらとあどけない疑問の色が広がっている。
 ブライトは頭を掻いて、口の中で『今でもまだ十分幼い』とつぶやいた。
 やがて指を折って何かを数えた後、彼は小さく、声を出した。
「海の向こうからお姫様が輿入れするってぇその日に、宮殿の隅っこで二人の貴族が喧嘩騒ぎを起こした。今から大凡五十年前、ジオ一世の頃だ」
「曾祖父の……」
 エル・クレールは言いかけて口を塞ぎ、辺りを見回した。
 クレール姫はジオ一世の直系ではない。
 嗣子に恵まれなかった一世は自分の従姉妹の子を養嗣子とし、ジオ二世を名乗らせた。二世は子宝に恵まれ、三世が生まれ、御位を継いだ。
 そのジオ三世がハーン帝国のラストエンペラーであり、今はエル・クレールを名乗っている娘の父親である。
 ハーン帝室はすでにこの世にない。
 国家としても、そしてその血筋そのものも、末裔の封じられたミッド公国の滅亡と同時にこの大地から消え果てた……ことになっている。
 エル・クレールは自身で我が身を「死んだはずの最後の公女」、あるいは「世が世なら皇太子たる皇女」であると公言しそうになったことに、少々狼狽した。
 彼女にとって運の良いことに、周囲の客達は皆、祭り前夜の浮ついた盛り上がりの空気に酔ってた。興奮している彼らの耳には、見知らぬ客の小さな声など入りようもない様子だった。
「ジオ一世陛下は随分と……つまり『気の早いお方』だったと聞いておりますけれど」
 安堵した彼女は、それでも一応は己の言葉尻を訂正し、尚かつ慎重に言葉を選んだ。
 確かに彼女の言うとおり、ジオ一世は何事にも「素早い決断」を第一に重んじる性質だった。
 素早い決断は正しい決断力から下されたものであれば何も問題は起こらない。むしろ即断即決は歓迎されることの方が多い。
 しかし彼の皇帝の決断は実のところあまり歓迎されてはなかった。
 十の決断の内、七つか八つは「重大な問題」を引き起こし、誰かが命がけでその問題を解決しなければならない結果となったのだから。
 詰まるところジオ一世という皇帝陛下は、短気で短絡的という、支配者には不向きな性格だったのだ。
 しかしその事実を口に出して言う訳には行かない。
 エルの歯切れの悪い口ぶりは、むしろブライトに彼女の本心を良く伝えるものとなった。
「両方の言い分を聞く前に領地の没収やら爵位の剥奪やらを決めたのは、確かに『その人』の落ち度だがね」
 彼も言葉を選び、声を潜めて言う。
「それで母は、ハーン家にとっては良くない物語だと怒って……」
「それもそうだが、敵討ちの標的にされた方の登場人物の描かれ方のほうが、むしろ癪に障ったんだろうよ。……ジオ一世のお気に入りの役人学者の、さ」
 ブライトはわざわざ遠回しに言った。しかしエルの顔に浮かんだ疑問符が消えない。
『こりゃ今朝の夢見が余程悪いモンだったらしいな。いつも以上に勘働きが悪い』
 彼は後頭部をゴリゴリと掻きながら足りなかった言葉を補った。
「ギルベルトって言ってな。今のお偉いサンの三代前のご先祖で、お前さんのお袋さんにとっちゃ義理の爺さんの兄弟にあたる」
 途端、エル・クレールの瞳からキラキラとした光が消え失せた。
「母は、自分がギュネイの血族であることを重んじていましたから」
 ブライトの呆れの対象は、目の前にいる男のなりをした元公女から、その母親に移った。
「後妻の連れ子だろうに」
 深く考えもせずに言ったその直後、彼は黙り込んだエルの瞳に、別の輝く物を見付けた。
 涙だった。
 こぼれ落ちる寸前の量で、蓮の葉の上で転がる露のようにふるふると震えている。
 ブライトは少々あわてて、しかし吐き捨てるように言った。
「この場合は褒め言葉だぜ。何しろ、あの小汚ぇ血が流れてねぇってことだからな」
「フォローになっていませんよ」
 目頭を軽く押さえ、エル・クレールは無理矢理に苦笑して見せた。
「名家の苗字を背負わされるのは、それだけで大変な重責なのです。だから母は……むしろ血が繋がっていないからこそ、ギュネイの名を重んじなければならなかった」
 エル・クレールの脳裏に、なぜか一枚の肖像画が浮かんだ。
 愛らしい、しかし大人びた少女の像だ。
 それはジオ三世に嫁ぐ四年前に描かれたという、母・ヒルダの姿だった。
 かつて娘は、『いずれ自身もこのように成るのだ』と信じていた。
 だが夢見るお姫様は、一二歳の時に絶望した。
 額縁の中に封印された過去の母は、華奢な肩の下に丸いふくよかな胸を持っている。
 しかし「過去の母」と同じ年齢になったクレール姫は、少年のように痩せていた。
 この瞬間、母はエル・クレール……いや、クレール姫にとって信仰対象となった。
 理性的で、知性的で、夫を立てる良妻で、子を慈しむ賢母で、何より美しい……一番近くにいて、一番自分から遠い存在。
 エル・クレールは小さく頭を振って、自身を現実に戻した。
「あのとき母は、すぐに一座を国外に追放するべきだと主張しました。ですが父は『作り話に過ぎぬ』と言って、笑っていた」
 エルの瞳の中で、思い出の懐かしさと、未だ消えない疑問とが、混然とした充血を生んでいる。
 すると、ブライトが鋭いまなざしで言う。
「外様の殿様のとる態度としては、親父さんのやり方は、小賢しいくらいキレた方法だろうよ」
 驚きに持ち上がったエル・クレールの顔の前で、彼は指を二本立ててみせる。
「第一に、領民が喜ぶ。第二に、帝都に偽報を流せる」
「どういう意味でしょう?」
「言論と芸術は締め付けすぎると暴発する。ある程度は大目に見ておけば、とりあえず領民が王様に不満を言うことはない。これが一つ目。適度に『取り締まらない』ことによって、対外的には『領内を統治し切れていない暗愚な殿様』を装える。こいつが二つ目だ」
「しかし、暗愚が過ぎれば、それは取りつぶしの格好の材料になりはませんか?」
 当然の疑問に対し、ブライトは少々見下すような笑みを浮かべた。
「その時結局はその興行、取りやめになりゃしなかったか? 親父さんの家臣の中でも頭の切れるヤツが、座頭に掛け合うか何かしただろう」
 小馬鹿にされていることに気付いたエルだったが、それに対する抗議はできなかった。
 記憶をたぐれば、確かに一座は芝居の演目を変えていたのだから。
「祐筆のレオンが父に何か進言したようです。詳しくは覚えていませんけれど」
「そうやって『殿様が抜けてても回りに優秀なのがいてもり立てていますから、下手に手出しをしない方が良策ですよ』ってアピールをした訳だ。計算ずくでな」
 ジオ三世に対して向けられているであろうブライトの笑みに、下卑た軽蔑は微塵もなかった。
 エル・クレールの顔は得心と安堵と、少しばかりの誇らしさに満ちた。
 が。
「ところでお前さん、何を唐突に『作り話のお定まり』の疑問を蒸し返したりしたんだ?」
 今度はブライト=ソードマンの顔の上に疑問の色が広がっていた。
 エル・クレールは童女のように微笑んだ。
「この祭りにも地回りの劇団が来ていて、時代物を上演すると聞いた物ですから」
 祭りの雰囲気は、通りすがりに過ぎない彼女の心をも浮つかせているらしい。
 ブライトは酷く驚いて、
「おいおい、まさか芝居見物がしたいなんて言うんじゃなかろうな? 普段ならお前さんの方が木戸銭を惜しがるんじゃないかね」
 エル・クレールは彼の的を射た嫌みに苦笑いしながら店の片隅を指さした。
 薄汚れた手書きのポスターが一枚、申し訳なさそうに壁に貼られていた。
 それは貼らない方がましかも知れないほど、何とも哀れな様相を呈している。
 なにしろ絵柄も画力もお世辞にも上手とは言えない。色遣いやデザインのセンスにも首を傾げたくなる。
 それを長い間大事に使い回しているのであろう。四隅と言わず鋲や釘の痕があり、その穴から裂け目が縦横に走ってい、それを裏紙で補修しているのが遠目にも判る。
「偶然ではあると思いますが、なんとも戯作者の名前が気になりまして……。何分、あれとよく似た名前の叔父がおりますので」
 ブライトは眉間にしわを寄せ、ゆがんだカリグラフをめねつけた。
『戦女神クラリス 作:フレキ=ゲー』
「目の良いことだ」
 彼は野犬のうなりのような声でつぶやき、後頭部を激しく掻きむしった。
 エル・クレールはその様子を、ある種の期待を持って見つめていた。
 エル・クレール=ノアール……というか、クレール=ハーン姫……が「叔父」と呼べる血縁は、父方にはいない。
 彼女の「叔父」に当るのは彼女の母方の縁者だけであり、それはつまりギュネイ帝室に繋がる人物と言うことになる。
「フレキ=ゲー」もやはり母方の縁者だった。
 本名をヨルムンガンド・フレキ=ギュネイという。
  ギュネイ初代皇帝ヨルムンガンド=ギュネイとその皇后との間に生まれ父親からファーストネームを受け継いだ彼は、それにもかかわらず帝位を継げなかった。
 父に、もう一人息子がいたためである。
 彼よりも僅かばかり早く生まれ、長子の権利を得たそのもう一人こそが、今上皇帝・フェンリルである。
 そのことを理由にしてか、あるいはもっと別の思うところがあるのか、ヨルムンガンド・フレキは自身を示すのにファーストネームを使わない。
 そればかりか姓までも名乗ることを憚る。
 どうしても姓名を名乗り、あるいは記名せねばならない場合は、ミドルネームと苗字の頭文字だけを用いるのだ。
 すなわち「フレキ=ゲー」と。
 ブライト=ソードマンはギュネイの帝室を嫌悪している。それは頭痛と吐き気を催し、時として正気を失うほどの激しい感情であるということを、エル・クレールはよく判っている。
 もっとも彼に限らず、今の支配者達を良く思っていない人物は少なからずいる。
 理由は各々様々だろう。
 前の王朝にへの忠誠心、宗教的な対立、政治思想の違い、成功者への嫉妬、権力者への反抗心、個人的(乃至は一族的)な憎悪、過去に対する憧憬……。
 ブライトがどの様な「理由」からその感情を抱いているのかは知れない。
 共に旅をする上では理解する必要性があるのやもしれぬが、エルにはそのつもりがない。
 直接的な血縁はないが、それでも縁の繋がる人々に対する彼の感情の悪さの由縁を、彼の口から聞かされたくないというのが、彼女の心情だった。
 彼はことさら「嫌いな人物」に対する嫌悪感を押さえることを知らない。
 よしんば、その顔が笑顔であり、声音が平静であったとしても、頭痛と狂気が変じた『尖った悪意』が皮膚を突き破ってにじみ出るのだ。
 周囲の者、あるいは彼自身が、その細く鋭い感情に気付いていないとしても、エル・クレールは感じ取ってしまう。その切っ先はギュネイと縁の深い彼女の胸を痛ませる。
 胸の痛みの上に耳からも言葉の毒を盛られてはたまらない。であるから、彼女は敢て訊ねることはない。
 ところが人間という生き物は複雑にできているらしく、触れれば痛いと判っている針の先に敢て指を添えることをしたがる。
 今もそうだ。
 目の前の風采の上がらない男が、悪態を吐くか、あるいは、苦虫を噛み潰したような顔で舌打ちするかするのを、彼女は待ちかまえている。
 己から敢て訊ねているのではない。相手が勝手にしゃべることだ。
 己の胸に言い訳を聞かせると、エル・クレールはまぶたを痙攣させながらポスターをにらみ付けている十五も年嵩の男の様子を、じっと見つめた。
『きっとこの人は、唾棄する筈。叔父……いいえ、多分叔父と同姓同名の戯作者か、あるいはその名前にこだわる私に対して』
 まるで剣山の上に手をかざしているかのようだ。それも針先が触れない程度の、しかし僅かな揺らぎを得れば指先が傷つく距離をもって。
 そして白い皮膚の中から己の赤い血潮がにじみ出ることを待ちかまえている。
 ところが、普段なら燐が突然炎を上げるように、瞬間的に悪態を吐き始めるはずのブライトが、口を真一文字に結んで黙り込み、痙攣する瞼を静かに閉ざしたのだ。
 ほんのひとときか、あるいは小半時か、エルが不安に駆られだした頃、彼は小さく言った。
「お前さんは、俺が怒り出してあの『意気地のない末成り瓢箪』の話をするのを期待してるんだろう?」
 ヨルムンガンド・フレキは背の高い痩せ男だという。その身体的特徴を揶揄してブライトは「末成り」と呼びつける。
 実際のフレキが「末成り」と呼べるような病的に痩せた体躯であるかどうか定かでない。
 ただ、しなやかな筋肉を鎧うた大柄なブライトからしてみれば、大概の男は痩せっぽちなのは確かではある。
 彼は瞼を閉じたまま、目玉をぐるりと動かした。……瞳が開かれれば、尖った眼光がエルの顔を射抜くに違いない。
 息を呑んで、しかし彼女は胸を張って答えた。
「フレキ叔父は私と親交のある親類です。親交といっても、父との間に幾通か書簡のやりとりがあった程度ですが……。それでも知った人のことです。多少ネガティヴな情報でももっと知りたいと思っては、いけませんか?」
「情報、ね。例えば、剣術はからっきしの先端恐怖症だとか、人前に出るのが嫌いな根暗だとか、役に立たねぇ本の蒐集癖が祟って床が抜けたとか、飯の種にもならねぇような駄文の書き飛ばしを連発しやがたったセイで帝都の紙価が倍に跳ね上ったとか、玉座をかっ攫われたってのにその相手に遠慮して山ンなかに引っ込んで隠者を気取り、その狭めぇ領地の切り盛りに失敗した政治的無能だとか、女嫌いで男として不能だとか。他にゃどんなことが聞きてぇンだ」
 ブライトは険と嫌味がたっぷり染みこんだ小声の早口を一息にまくし立てると、生意気な悪童が近所の娘……どうやら別の男に気があるらしい……に向けるような、卑屈で嫌らしく意地悪で不安げな笑みを口元に浮かべた。
 実のところ、彼のフレキ評はどれもこれも「ある程度は事実」だった。
 幼い頃から活発で武術好きな今上皇帝フェンリルから比べれば、学問と読書を好むフレキはおとなしい性格といえる。
 個人的な書庫として使っていた古い別荘の床板が腐って落ちたのも事実。
 集めた古い書物に注釈を付けた書籍を数冊編纂したのも事実。
 兄が帝位を次いだ後は宮殿を出、帝都から離れた領地ガップに住み暮らしているのも事実。
 そのガップはもとより痩せた土地故、税収が乏しいのも事実。
 そして女性との浮いた話がついぞ出ないと言うのも又事実。
 嘘ではないが確証もない悪態を瞑目したまま言い立てる彼に、エル・クレールはきっぱりと答えた。
「どんなことでも、あなたが知る限りを、ことごとく総て」
「どうしようもねぇな」
 妙に穏やかな声音で言い、ブライトは重たそうに瞼を持ち上げた。眼球が半分だけ露出する。瞼や頬にあった痙攣が、すっかり収まっていた。
「お怒りにならないんですか?」
 エル・クレールは残念でならないといった口ぶりで聞いた。
「ガキじゃあるめぇし、そうそう癇癪起こしてもいられねぇよ」
 ブライトはホンの一瞬ニタリと……自嘲ともとれる卑屈さで……笑った後、
「それにな、むしろあっちが気がかりだ。アレがハッタリじゃねぇとしたら、よっぽど度胸のある座長か、間抜けな興行主に違ぇねぇと思ったら、怒る気が失せらぁな」
 件のポスターを指さした。
「おっしゃっていることの、意味がわかりかねます」
 エル・クレールが唇を尖らせる。
 ブライトは、今度ははっきりと彼女を小馬鹿にしていると判る笑みを唇の端に浮かべて、指を三本立てた。
「あそこの紙切れに書いてある『フレキ=ゲー』なる人物が誰であるのか。考えられるパターンは三つだ」
ブライトは立てた指を薬指から順に折り数え上る。
「一つ。本名か筆名が偶然あの末成りと一緒だったに過ぎない悪意のない『別人』。二つ。あの末成りが普段使ってる名前を意識して名乗っている、乃至は、誰ぞが書き飛ばした台本に野郎の名前を接げて箔を付けさせようってぇ、浅はかな『大法螺吹き』。三つ。あの末成り『本人』」
 指が全部折りたたまれると、ブライトは一つ息を吐き、更に続けた。
「一つ目だとしたら、その戯作者はかなりうかつな奴だ。……仮にも今上の弟で、世が世なら皇帝陛下だって野郎の名前を、偶然だとはいえそのまンま名乗ってたら、憲兵に『皇帝に敬意を払わない不遜者』だと目を付けられるだろうし、下手すりゃ皇帝侮辱罪なんてくだらねぇ罪状をでっち上げられて、出世のネタにされかねねぇ」
 言いつつ、彼は左手で後頭部をなでさすっている。皇族がらみの話になって、ジクジクと頭痛がするらしい。
「二つ目なら、良くも悪くも知識人としては世界一有名な野郎の皮をかぶって、大博打を打ってるってぇことになる。
 洛陽の紙価を高めた『名前』につられて客が入るかも知らんが、バレたらそれこそ手鎖じゃすまねぇ。皇族を騙った大悪人てことで、間違いなく一座どころか三族そろって『こう』だ」
 左手が後頭部から首元に移動した。彼はそれで手刀を作り、水平に動かして見せる。
 エル・クレールは息を呑み込んだ。頭の片隅に、磔台の上で泣き叫ぶ子役の姿が浮かんだ。
 ブライトは無意識に萎縮した彼女の肩を見ると、小さくため息を吐いて再び瞑目した。
「末成りが書き留めた駄文を原作になんぞやろうってぇなら、お上の許可を得ない訳には行くめぇよ。もっとも、滅多な申請にゃ許可なんか下りんだろうがね。つまり、一枚っきりのポスターを後生大事に使い回すようなドサ回りが、錦の御旗を担いでいる筈もねぇってこった。だから三つ目だとすると、厚顔無恥にも野郎の著作を勝手に引っ張り出して、根性で無許可営業しているってぇことになる」
「それで、あなたはどれだとお思いなんですか?」
 エルが訊ねると、ブライトはふてくされた顔で、指を二本……いや遅れて薬指をゆっくり伸ばして、都合三本立てた。
「良くできた戯作者に書かせて肩書きだけ変えてるってのも考えられなかねぇが……。そうだとしても、ポスターがボロボロになるまで同じ演目を続ける前に、目の肥えた客に偽物だと気付かれる」
 ちらりと目を開けて、彼はエルの顔を見た。
 彼女はいたずらなまなざしで笑っている。
「……そんなに駄目叔父貴の話が聞けて嬉しいか?」
 僅かに苛立ち、相当呆れた口調で訊くブライトに、エル・クレールは大きくうなずきを返した。
「少なくとも、叔父の文学者としての才能は、あなたでも認めざるを得ない高みにある、と言うことがわかりましたから」
「けっ」
 汚れた床に唾を吐き捨てたブライトだったが、いきり立つとか、怒るとかいった激しい行動が続くことはなかった。
 むしろ彼は脱力したように椅子の背にもたれ、
「あの末成りの書いたモンに、あそこの演目と同じタイトルの馬鹿話がある。ヤツの封地のごく一部の集落で密やかに口伝されていた昔話が元ネタだがね。だがその内容が政治的にヤバイってンで、書いた本人ですら『そのままの形』で外に出すのを躊躇して、そうとう朱筆を入れてから発表した」
「よく事情をご存じですね」
 純粋に驚いたエルに、ブライトは苦笑いして、酷く陰鬱な声音で答えた。
「嫌な断片ほど脳味噌にこびり付くもンさ」
 彼は的を狙う射手のように眼を細めて、件のポスターを見た。
 ポスターの貼られた壁の前で、痩せた農夫らしい二人組が何か話し合っていた。
「娘ッコの出てくる芝居だ」
「娘ッコが刀なんぞを振り回すものか。これは恐ろしい戦女神の出てくる芝居だ」
「女神様だって女だろう。だからやっぱり娘ッコの出てくる芝居だ」
 充分な教育を受けていないに違いない。張り出された紙切れに何が書いてあるのかを、文字ではなく絵から推察しようとしている。
 彼らの背後から別の男が近づき、声を掛けた。
 男は小柄で、こざっぱりとした身形をしている。農民という風ではないが、商人という匂いもしない。
 どうやら農夫達とは面識がない様子だ。話しかけられた方が当惑して、無意識に半歩後ずさりし、男との距離を開けた。
「娘ッコでも女神様でもなくて、お姫様が出てくる芝居ですよ」
 小男は文字が読めるようだった。ポスターの上のタイトル文字を指で指し示して、読み上げる。
「いくさおとめくらりす、ってあるでしょう? 戦乙女っていうのは、女の侍のことですよ。クラリスって言うのは人の名前だ。スカディ女神の化身だという人もあるけれども、そうじゃあない。誰あろう慈母皇后様のことです。将軍皇帝ノアールの奥方様ですよ」
 丁寧な口調のその声は、別段大きすぎるというものではないのだが、妙に響きと通りが良く、ざわめく人々の間を抜けてエルとブライトの鼓膜を十二分に揺らした。
 二人は神経の八割方を耳に集中させた。
「慈母皇后様ぁ、とても綺麗で可憐な方だ。刀ぶん回すような跳ねっ返りじゃねぇ」
 農夫の一人が小柄な男の胸ぐらを掴んだ。
 もう一人が抑えなければ、恐らく男は二,三発殴られて、昏倒していたに違いない。
 国家の母として神格化されていると言っていい初代の皇后を、彼は純粋に崇拝しているのだ。
 小柄な男は頬を引きつらせて、硬い笑顔を作った。
「その通り、その通り。可憐で綺麗で、そして夫を良く助けた方ですよ。夫唱婦随というやつです。だから、皇帝と一心同体で闘い抜いた人という意味で、剣を持たせた絵で描いてあるんです」
 立て板に水のなめらかさで言う男を、農夫はしかし疑念の目で見ている。
「私《あたし》は嘘を吐いちゃいません。この話のスジは一から十まで全部知っているんですからね」
「じゃあ、ここで言ってみろや」
 農夫が強い口調で言う。声は響き、驚いた店中の視線が、彼と彼に関わっている人々に注がれた。
 彼を羽交い締めにしているもう一人が、顔を真っ赤にしてぺこぺこと頭を下げている。
「すいやせん、許してつかぁさい。コイツは酒を飲むと声が大きくなるんでさぁ」
 友人の恥ずかしがりように気付いていないのか、あるいは崇拝対象を侮辱されたという思いこみが強いのか、農夫は手足をばたつかせながら、「スジを言え、今すぐ言え」とわめき立てる。
「そりゃあできませんよ。そんなことをしたら、これから芝居を見ようって方の楽しみを殺いでしまう」
 小柄な男は店の中を見渡し、客の一人一人に、ニコリ、ニタリと笑いながら頭を下げる。
 その愛想の良さを見、エル・クレールは気付いた。
「芝居小屋の関係者」
 ブライトは肯定の返事の代りに、大仰な伸びをした。椅子から仰向けに倒れ落ちそうなほど大袈裟に背筋をそらしている。
 おかげで彼の目玉は彼の背後の様子をしっかりと見ることができた。
「あのチビ野郎の口車で、あの連中も言いくるめられれば良いがね」
 身体を戻しつつ言う彼の肩越しに、エル・クレールはその背後を見た。店の入り口に場違いに立派な身形の男達が数人立っている。
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