いにしえの【世界】 − 剣とペン 【4】 BACK | INDEX | NEXT

2015/02/16 update

 先頭は細身で洒落者の四十男だ。大きな羽根飾りを付けた帽子をかぶり、金糸で縁を縫い取った赤い外套を羽織っている。
 帽子の下の顔は青白く、薄い唇は妙に赤い。眼窩は黒く沈んだ色に染まっており、頬にも顎にも髭はない。
 その半歩後ろに肩幅の広い若者がいる。
 ぴったりとしたタイツに丈の短いジャケットを合わせ、宝石で柄と鞘を飾った長剣をぶら下げている。
 赤ら顔は少年のように幼い。それを気にしているのだろう。少しでも男ぶりを上げようと、頬から顎にかけて髭を生やしている。
 もっとも、その髭は産毛のように柔らかで、長さも生え方も不揃いなものだから、逆に子供の背伸びのように見えている。
 彼らの左右と背後には、折り目正しい服を着た従者達が五人ほど、背筋を伸ばして経っている。
 貴族であることは明白だ。
 それも暇をもてあました田舎の貧乏貴族ではない。中央か、あるいは地方であっても、かなり重要な役職に就いている実力者であろう。
 そうでなければ殿軍の従者が皇帝の紋を縫い取った「錦の御旗」を掲げて歩くことなどできはしない。
 身動きできないほど混雑していた店内に、ざわつきを伴った一筋の道ができあがった。終点は言うまでも無くポスターの貼られた壁際である。
 騒ぎ、暴れていた二人の農夫は、人々が発するただならぬ空気に怯え、這うようにしてその場を離れた。
 残された小柄な男は、むしろ胸を張り、予期しなかったであろう訪問者に笑みを投げかけている。
 客たちの視線は立派な貴族と小柄な男の間を泳いでいる。
 エルの瞳もまたその二組の間を往復したが、最終的には彼女の連れの顔の上で止まった。
 彼の顔には、落とし穴を掘り終えた悪童の笑みが浮かんでいる。
「頭痛はしないのですか?」
 ギュネイの紋章を目の当たりにして……と、呆れ声で訊ねる彼女に、ブライトは
「するさ。反吐が出そうだ」
 笑んだまま答える。
「また何ぞ企んでいらっしゃるのですね」
「人聞きの悪いことを言うな、何も考えちゃいねぇよ。今ンところは、な」
 尖った犬歯の先が唇の端に顔を出した。底意地の悪い笑顔のまま、彼は例の小柄な男の側に眼をやった。
「あの小賢しそうな小僧が『お貴族様』をどうあしらうか『拝見』してからでも遅かねぇだろうよ」
「お気の毒だこと」
 エル・クレールは貴族達のほうを見てつぶやいた。
 あの小男はおそらく田舎劇団の宣伝や交渉事の担当だろう。
『ブライトの言うように、長い間フレキ叔父の名を騙って興行を続けて来たとするなら、嘘がばれぬように策を巡らせることができる要領の良い者が団員の中にいるはず』
 ふと、脳裏に父の祐筆の顔が浮かんだ。
 レオン=クミンは父の学友の子であり、幼いクレール姫にとっては兄のような存在だった。
 普段は寡黙だが、必要な時には例え相手が己より遙かに年上であっても反意の嘴を夾むことを許さぬほどに雄弁になる。
 痩せて背の高い彼は、額の広い落ち着いた顔立ちからか、実の年齢よりも十、下手をすると二十も年上に見られることがあった。
 物静かで、知恵が回り、筆が立つ彼は、忠実な仕事ぶりが主君に愛され、重用されていた。
 エル・クレールは件の小柄な男の顔をちらりと見、その隣に、レオンの生真面目な顔を思い浮かべた。
 男は人当たりの良さそうな笑みを満面に浮かべ、手揉みしながら貴族達を待ちかまえている。
 男の脂ぎった作り笑顔と、懐かしい生真面目な顔つきとに、重なり合うところは一点もない。
 視線をさらに動かすと、ブライトの顔が見えた。日に焼けた無精髭の中に「一触即発に巻き込まれたくないと願う匹夫のような不安げな表情」を作っている。
『やっぱり良くないことを考えている』
 連れの男装娘があきれ顔で自分を見ていることに気付いた彼は、大袈裟に肩をすくめてみせた。
「くわばらくわばら」
 大柄な、どこからどう見ても「腕っ節は良いが素行の悪そうなフリーランスか浪人」という風体で、実際腕の立つ剣士でもあるブライトが、小心な振る舞いをするのは……回りの者にはどう見えるか知れぬが……エルには随分と不自然なポーズに見えた。
 とはいうものの、こうした不自然をこの男は平気でするということを、彼女はまた十分理解している。
 良くないこと、つまり、人をからかったりおちょくったり、あるいは人でないモノを騙し討ちにしようと言うときに、この男はこういった「振り」をするのだ。
 つまりブライト=ソードマンという剣客は、時として自分の力量を隠したがる「悪癖」を持っているのである。
 おかげで相手は油断して掛かり、結果としてからかい倒されて散々な目に遭うか、あっけなく肉体を四散させられることとなる。
 彼は背中を丸め、大きな体をテーブルの上に身を縮めると、指先でエルに耳を貸せと合図を送る。
 彼女は身を乗り出させて、彼の口元に耳を近づけた。
「アレは食わせ者だぜ。後学の為に近くに寄って見物した方がいい」
 周囲をせわしなく見回しながら、彼は小声で言った。端から見れば、小心者がうわさ話をしているように見えただろう。
「酷い人。あの男も、あの貴族も、両方をからかうおつもりなのですね」
 エル・クレールは断定的に言う。ブライトは一瞬だけ唇の端に図星の笑みを浮かべると、すぐさま作り物の怯え顔に戻った。
「おまえさん、俺をどれだけ性悪だと思ってるンだ?」
「あなた自身が気に入らない者に対しては、この世で一番の悪党になりうる方だと信じて疑いません」
「お褒めにあずかり恐悦至極」
 彼は目の奥に悪戯な光を光らせた。そっと立ち上がると、背中を丸めて争乱の中心に向かって忍び足を進める。
「何が楽しくてああやって人をからかうまねをしたがるのだろう」
 エルも立ち上がった。ただし、ブライトのようにこそこそした「振り」はしない。
 むしろ、いざとなればもめ事の仲裁に入ろうかという、いかにも騎士道的で士大夫然とした様の血気盛んな若者の風に、胸を張って歩いた。
 さて。
 人垣の向こう側の人々はどうしているであろうか。
 何か騒ぎが起きるだろう、良くないことが起きるに違いない……周囲の人々は興味と無関心の綯い交ぜになった視線を、件の男と貴族達に投げかけている。
 髭のない帽子の貴族は赤い唇を笑みの形にしてはいるが、落ちくぼんだ暗い瞳の中にはそれがない。
 一方若い貴族の目は、試合開始の銅鑼を待つ決闘士さながらの火を噴くような鋭さで男を睨め付け、刀の柄を握りしめている。
 小柄ではしっこそうな男は、客受けの良さそうな笑顔を崩すことなく、むしろ大きくふくらませている。
 彼は喝采を浴びるソリストのように大きく両手を広げ上げた。
「閣下、ようこそおいで下さりました。ああ、大変申し訳ないことです。まさか本日お着きとはつゆほども知らずにおりました。あらかじめこちらから伺おうといたしておりましたのですが」
「何の話だ!」
 大声を出したのは若い貴族の方だった。
 今にも飛びかかりそうな彼を、帽子の貴族は指一つ動かしただけで制止する。
「卿は、我らを知っていると申すかえ?」
 赤い唇が甲高くざらついた声を出した。小柄な男はあくまでもにこやかに大きくうなずく。
「存じ上げておりますとも。恐れ多くも畏くも、皇帝陛下勅令巡視大使閣下で在らせられる、ヨハネス=グラーヴ様でございましょう?」
 広げていた両腕を振り下ろしながら、男は身体を二つに折り曲げて礼をする。
 所作の一つ一つは総じて大きく、芝居がかっていた。……芝居小屋の関係者であるなら、それも当然かも知れない。が、その大袈裟な身振り口ぶりを、若い貴族はどうにも気に食わない様子で、声を張り上げる。
「それを知っているならば、我々が何を言いたいか、判るな!」
 男は腰を曲げたまま、顔だけをひょこりと持ち上げた。
「さぁて、手前にはさっぱり判りかねます。もしや、ご挨拶が遅れたことをご叱責でありましょうか?」
 飄々と言い、首を傾げてみせる。
 若い貴族は益々苛立ち、鯉口を切って半歩踏み出した。
「とぼけたことを言いおって!」
 喚きながら、しかし彼は、実際に剣を抜くことと、それを振り回してかの男を叩き斬ることはしなかった。帽子の貴族、すなわちヨハネス=グラーヴが、今度は大きく右腕を上げて彼を制するからである。
「よい子だからお下がり、可愛いイーヴァン」
 仔猫をあやすようにグラーヴが言うと、イーヴァンと呼ばれた若い貴族は奥歯をギリギリと軋ませ、元の立ち位置へと半歩退いた。
 イーヴァンの不満げな顔に小さな笑みを投げると、グラーヴ卿は小男にも同じように笑顔を向けた。
 冷たく尖った、しかし美しい微笑だった。
「フレイドマルの一座の者かえ?」
「ハイ、閣下。マイヤー=マイヨールと申します。お見知りおきを」
 小男マイヨールは再度深々と頭を下げた。
「そう、お前がマイヨールなのね。聞いたわよ、ずいぶん面白い台本《ホン》を書くそうじゃないの」
 甲高く、鼻に掛かった、ざらついた音のするグラーヴ卿の言葉を聞き、マイヨールは頭を下げたまま口角だけをひくりと持ち上げた。
「光栄です、閣下」
 社交辞令に対する返答は、少しばかりこもった声だった。
「でもこれは良くないわね」
 グラーヴ卿は筋張った細長い指で壁を指した。
「良くありませんか?」
 マイヨールは下げた頭を少しばかり後方にひねり、グラーヴ卿の指の先にあるポスターをちらりと見る。
 グラーヴ卿はクスリと笑った。
「勘違いおしでないよ、マイヨール。お前の書いたもののできが良くないという意味ではないからね。だいたいアタシはまだ舞台を観た訳ではない。大筋は聞かされたがね。……お前の所の座長には困ったものだよ。観る前の客にネタをばらしてしまうのだから……。ともかく、あらすじだけでは脚本の良し悪しは言えたものではないものね。ただ……」
「お題がマズイ、とおっしゃる?」
 マイヨールの頭がまたひょこりと持ち上がる。満面の笑みが、自嘲かあるいは自信か、それとも胡乱の故なのか、彼自身以外には図りかねた。
「お前、判っていて演っているのかえ?」
「手前は理解しているつもりでございますよ。今の天子様のことも、前の天子様のことも、お芝居にするには、充分、十二分の注意が必要でございます。座長がどう思っているのかは存じませんが」
「確かにあの男は理解力が足りなそうね」
 頭を掻きながらニヤリと笑うマイヨールに、グラーヴ卿は冷たい微笑を返し、続ける。
「でもお前の理解力も知れたものではないわ。『判っていて演っている』と言うのなら、尚更よ。アタシたちの言いたいことがお解り?」
 マイヨールの顔からにやけた笑いが消えた。彼は折り曲げていた腰をすっと伸ばした。
「天子様からの許可証が降りていない、とおっしゃるのでしょう?」
 彼は悪びれもせず、むしろ胸を張っている。
 グラーヴ卿はその堂々たる態度にどうやら嘆息した様子だが、腹を立てた者もいる。
「判っているだと!? 判っていて罪を犯そうとは、この愚かな確信犯めが!」
 イーヴァンは上半身のみを前に突き出して喚いた。剣も抜かず、飛びかかりもせぬのは、相変わらずグラーヴ卿が腕一本で制止命令を出しているからである。
「確信犯、ね」
 マイヨールは吹き出した。無知なるものへの蔑みに満ちた目で、彼はイーヴァンの真っ赤な顔を見据える。
 イーヴァンの脳天から湯気が噴き出した。もっとも、どうやら彼は自分が戯作者風情に小馬鹿にされているらしいということは判ったようだが、なぜあざ笑われているのかまでは理解できていないようだ。
 反論する術もない様子で、ただ頬の肉を痙攣させている彼に、マイヨールは恭しく頭を下げ、慇懃無礼に言う。
「イーヴァン様とおっしゃいましたか。殿下がどういうおつもりで私《あたし》をそうお呼びになるのかは存じませぬが……。ええ、確かに手前は確信犯でございましょう。こうすることが良いことであると、むしろこうせねばならぬと確信して行動しているのです。このことが世間で罪と呼ばれるかどうかまでは考え及びませぬが、もしそうであれば、正しい意味で確信犯でございますよ」
 周囲がざわめいた。
 人々は若い貴族の言葉の何処に揚げ足を取られる隙があったのか判らないのだ。
 教育機関らしいものがほとんどない田舎町で、マイヨールが言うことを理解できるほど学のある者はほとんどいない。
 いや、それ以前に、他愛のない田舎芝居に貴族達が文句を付けに来たわけそのものすらも、彼らは理解できていないのかもしれない。
 マイヨールは人垣をぐるりと見回すと、腹の底まで息を吸い込んだ。
「皆の衆、皆の衆。閣下は手前共の舞台がお上のお定めから外れているのではないかと案じておいでになったのですぞ。天上の方のお許しを得ていない芝居なのではないかと、人の心を惑わす間違った芝居なのではないかと、心を痛めておいでになったのですぞ。何と有難いことであろう。閣下は民草が悪いものを見聞きしないように心を配っておられるのだ」
 狭い舞台の真ん中で、マイヤー=マイヨールはここが一番肝心とばかりに大声で「台詞」を吐き出した。
 彼が息継ぎをしたとき、ざわめきは一層大きくなったが、彼は気にも止めずにしゃべり続ける。
「確かに手前も悪かった。手前の書いたこの芝居、都の天子様からの許可証は出ていない。そのことで閣下にいらぬ心配をかけさせたのだ。我ながら申し訳ないことをしたものだ。だが皆の衆、聞いておくれ。心配はいらない。閣下のご心配は杞憂なのです。天子様から直接のご許可を得ることはできなかったこの芝居、しかし有難いことにお許しを下さった方がいらっしゃるのですから」
 マイヨールが言い切ると、聴衆は水を打ったように静まりかえった。彼は確かな手応えを得た。
 ……人々の心は己の弁に引き寄せられている。そして彼らは最後の台詞を待っている……。
 彼の頬が弛む。しかし身体はこわばった。瞳は昂揚し、輝く。
『とどめの一押し』
 クライマックスを迎えた「役者」は、喉に軽い引きつりを感じ、唾を飲み込んだ。
 彼の口元に集中した人々の視線が熱を帯びる。
 マイヨールはその唇を小さく振るわせた。
「皇弟殿下です」
 凪の海に突如として大波が立った。
 歓声、感嘆、驚愕、疑問、疑惑。
 聴衆の吐き出す叫びとつぶやきが、マイヨールの周囲で渦を巻く。
「馬鹿な話だ!」
 一際大きな波を生み出したのは、やはりイーヴァンだった。
「ふざけたことを抜かしおって!!」
 若者はついに剣を抜いた。
 幅広の、いかにも重たそうなブロードを、相変わらず解除されない腕一本の規制線の外側で、身を乗り出しつつ振りかざす。
 マイヨールは顔色を変えない。
「ふざけも間抜けもありません。確かに手前の台本はヨルムンガンド・フレキ殿下のお墨付きにございますれば」
「殿下が、お前に許可を出したというのかえ?」
 グラーヴ卿はいかにも合点がいかぬといった声音で、しかし表情は一切変えることなく、問うた。
「左様で」
 マイヨールは胸を張って答えた。
 グラーヴ卿は大きく息を吐き出した。
「殿下が兄君のご意向に反して、そのようなことをなさるものかしらん? アタシには、皇帝陛下のお許しの出そうにないものを、あの方が自分勝手に許すとは思えない」
 落ちくぼんだ眼窩の奥で、灰色の瞳がぎらりと光った。
「よくお聞き、マイヨール。お前が嘘を吐いているのなら、お前はあの方の徳を汚しているということになる。そしてお前の言うことが本当であるのなら、それは前例のないこと……これから先もあってはならぬこと。すなわち、あの方の忠孝は不義で穢れているということになりかねない。良くないわね」
 頸を左右に振り、肩を落とす。
 若い貴族を引き留めていた右腕が、ゆっくりと下がった。
「この無礼者!」
 イーヴァンは嬉々として雄叫びを上げながら踏み出した。
 見るからに重い長剣が、袈裟懸けに振り下ろされる。
 マイヤー・マイヨールの足は、その場から一歩も動かなかった。
 ただ上半身だけが後ろにそらされる。
 イーヴァンの腕と剣の長さからして、そうすればどうにか避けられると判じたからだ。一張羅のシャツか、あるいは胸の薄皮が一枚切り裂かれるかもしれないが、それは仕方のないことだと、彼はその瞬間まで高をくくっていた。
 が。
 イーヴァンの技量は、マイヨールの考えていたよりも少しばかり高かったのだ。
 彼のつま先はマイヨールが思っていたよりも半歩先の床板を踏み抜かんばかりに捕らえていた。
 当然その剣の切っ先も半歩手前を通過するだろう。
 その単純な計算を瞬時にはじき出したマイヨールの脳味噌は、それによって採るべき動作の修正を五体に命ずる所までは考えついたが、同時にそれが不可能であることも悟っていた。
 後ろに飛び退くことも、左右に身をかわすことも、上半身を後ろにそらした今の不安定な体勢からは難しい。
『逃げられない』
 と悟った瞬間、マイヨールは妙に冷静になった。
 胸板を斜に斬られるのは間違いない。
 肋骨が砕けて、肺が裂かれて、心の臓が破られるだろう。
 もしかしたら胴を輪切りにされるかも知れない。そうなれば、
『下半身と今生の別れか』
 迫ってくる長剣の鈍い輝きも、他人事に見えた。
『だから、止まって見える』
 マイヨールは自嘲気味に笑った。
 避けられることを前提とした体勢である。剣が通り過ぎた後、役者らしく蜻蛉でも切って「華麗に」立ち上がろうと考えていた。
 予定の「次の動作」が急に取り消しになり、しかも逃げることをすっかり諦めきってしまった今となっては、バランスを取ることも、立て直すこともできない。
 マイヨールはしりもちをつく格好で、力無く倒れ込んだ。
 尾骨から脳天にかけてしびれるような痛みが走る。ところが、それ以外に痛みを感じる場所はない。
 上半身と下半身は繋がっている。
 肋骨が砕けた様子もない。
 筋肉も皮膚も、服すらも裂け目一つなく彼の体を覆っている。
 マイヨールは顔を上げた。
 空中に長剣の切っ先があった。
 それは小刻みに痙攣してはいたが、その場所から小指の先ほども移動できずにいる。
 刃に沿って視線を移すと、鞘に収まった一振りの細身の剣が見えた。イーヴァンの太い剣と垂直に交わった形にあてがわれている。
 その細身の剣を細い腕が支えているのも見えた。それも、左腕一つで。
 細い腕は小さな肩に繋がってい、肩からは細い首が伸び、その上に小さな頭が乗っている。
 ほっそりとしたそのシルエットの向こう側に、イーヴァンの姿があった。
 渾身の一撃を邪魔されたことへの怒りと、渾身の一撃を止められたことへの驚愕とが入り交じった顔は赤く染まり、湯気と脂汗が噴き出している。
「小僧、退け!」
 渇いた喉の奥から絞り出したイーヴァンの言葉に、「小僧」と呼ばれた細身の人物……エル・クレール=ノアールは従わなかった。
「そちらが退きなさい。さもなければ私も抜かざるを得ない」
 小さく、鋭くいうと、右手を己が細い剣の柄に添えて彼をにらみ返した。
 イーヴァンは確かに短気な男ではあるが、一端の剣士である。対峙する者を観る眼力がまるきりない訳ではない。
 小柄な剣士は総じて身が軽い。
 この「小僧」もあっという間に己の懐の内に飛び込んで来るに違いない。
 しかもこの「小僧」は腕一つで己の一撃を押さえ込んだ力量を持っている。
 イーヴァンの脳裏に、抜き払われた細身の剣が、しなりながら弧を描く様が浮かんだ。
 彼は彼の主君の顔色を窺った。
 グラーヴ卿の暗い眼差しは、突然現れた見知らぬ人物に注がれている。
「柔よく剛を制すなんてコトバ、今まで信じていなかったけれども、実際にあることなのね。感心だわ、坊や」
 赤い唇の端が、少しばかり持ち上がった。
「でも、あまり面白くはないわね。だってそうでしょう? 坊やは不敬な輩をかばっているのだもの」
「害成す虫とて、ただ踏みつぶしてよいとは限りません。断末魔に穢れた飛沫をまき散らし、お召し物を汚されては、閣下もますます面白くないでしょう」
 エル・クレールは視線を一瞬だけ尻餅を突いている男の顔に落とした。
 見られたマイヨールには、その眼差しがまるで二つの濡れ光る翡翠の珠のように見え、思わず生唾を飲んだ。
 グラーヴ卿もやはり一瞬彼を見た。
 こちらの眼は小さなヘム石の鏡に思え、マイヨールは何故か寒気を憶えた。
「一理あるわね」
 視線をエルに戻したグラーヴ卿は薄く笑い、
「けれども、アタシには身に穢れが降りかかろうとも、毒虫を踏み潰さねばならない義務があるのよね」
 小さく頸を傾けた。頭の横に双頭の蛇を縫い取った、重そうな旗指物が揺れている。
「坊やにはそれを止めるだけの権限があって?」
「それは……」
 言葉に詰まったエル・クレールは、直後、金属がふれあう小さな音を聞き、同時に己の尻に何か硬さのあるモノが触れてもぞりと動くのを感じた。
 そして、そのもぞりと動いたモノが大声を出した。
「ハイ、旦那様。どうもオレっちの姫若様は血気の盛んなもので、ええ。こんなに綺麗な顔をしているってぇのに……それですから姫若様なんて呼ばれるンですけれど」
 大柄な男が一人、卑屈に頭を下げながら、腕を振り上げていた。
 ブライト=ソードマンである。
 満面に人当たりの良さそうな笑みを浮かべた彼は、広い肩幅を窮屈に縮ませ、高い上背を無理矢理に丸めて、不自然に身を小さくしている。
「兎も角、オレっちの姫若様は、事の後先を考えずに飛び出すのが悪い癖で、後を始末して歩くのが、そりゃもう苦労で苦労で」
 節くれ立った手の中に、金属の塊が一つあった。平べったい台座は銀色で、表面に緻密で豪華な意匠が彫り込まれている。
 その意匠はグラーヴ卿の頭の後ろで揺れる「錦の御旗」に描かれた紋章とよく似たデザインだった。
 いや、よく似てはいるが、しかしよく見ると大きく違う。
 卿の持つそれは双頭の蛇を描いているが、ブライトの持つそれは双頭の龍……蜥蜴じみたそれではなく、鬣《たてがみ》と手足を持つ蛇のような……を描いている。
 グラーヴ卿は頬骨を覆う皮膚をひくりと痙攣させた。しかし、
「ご同業?」
 訪ねる声音に動揺らしきものは感じられない。
 エル・クレールは小さく
「そんなところです」
 と答え、その傍らでブライトは、道化人形のような笑顔のまま二度三度うなずいた。
「ふぅん……」
 グラーヴ卿は、下ろしていた右腕を宣誓式の儀礼作法のように持ち上げた。
 それを合図に、イーヴァンはゆっくりと剣を退いた。苦々しげに舌打ちすることを忘れててはいない。
 エル・クレールも剣を退いた。ただし、すぐさま抜刀できると示すため、剣をイーヴァンの視線の中に置いている。
「お名前を伺おうかしら? アタシはアタシ達と別行動をとらされているお仲間の情勢には、疎いのよね」
『エル・クレール=ノアール』
 と、エルが名乗ろうとするのを、ブライト・ソードマンの大声が遮った。
「ガップのエル=クレールさまでさぁ」
 彼はことさら『ガップの』を強調して言う。
 周囲がざわめいた。
 さすがにその地名を聞けば、グラーヴ卿も驚きの表情を浮かべざるを得ない。
 マイヨールはぽかりと口を開けて、瞬きを繰り返しながらエル・クレールを見上げた。
 しかし、一番驚愕しているのはその彼女であった。
「ブライト、それは……」
 違うと言いかけるのを、また彼は大声で遮る。
「ウチの姫若さまは、あちらでは随分と古い古い家柄の姫若さまで。どのくらい古いかってぇと、ガップのお殿様よりも古くからで。そんな訳ですから、ガップのお殿様にもよくして頂いておりやした。だからね、ガップのお殿様がどんなモノをお書きになったかもよく知っておりやすよ。……大丈夫、大丈夫。あのお殿様はそれほど馬鹿者ではありませんて。グラーヴの旦那を怒らせるような書きものを外に出す訳がない」
 鈍な愚者さながらの要領を得ない物言いをする彼に、エル・クレールは呆れのため息を吐いた。
『ああ、やっぱりとんでもない悪戯をしようとしている。あんな大法螺を吹いた上に、役者の前で大袈裟に演技までして……』
 もっとも、回りの者にはそのため息の真意は知れないだろう。ただ「魯鈍な従者に呆れている」ぐらいに見ているだけだ。
 エル・クレールはしかし、呆れながらもある種の期待を持ってブライトの「芝居」を眺めていた。
 それは、彼女の目にグラーヴ卿が、勅使を拝命するだけのことはありそうな逸材であることに間違いはないと映っているからだ。
『確かに居高で、物言いには棘はあるけれども……。言っていることは理に叶っている』
 その口ぶりが妙なほど優しげな事に薄気味の悪さを感じることもまた事実であるが、それでも『ただ者でない』のは間違いなかろう。
 ブライトがそれをどの様に言いくるめるつもりなのか知りたい。
『きっと、嘘でないけれども真実でもないことを並べ立てるのだろうけれども』
 エル・クレールは再度ため息を吐いた。
 同時にグラーヴ卿も息を吐き出した。
「つまりあなたは何を言いたいのかしら?」
 もっと要領よく説明なさい、と言い、薄い唇に薄い弧を描かせる。
「つまりですね」
 ブライトは少しばかり首を傾げた。よくよく考えているという「振り」だろう。
「もしガップの殿様の書いたものなら、そんなに酷い話のハズがない。ガップの殿様の書いたものでなくても、殿様のお墨付きが本当なら、やっぱり酷いものであるはずがない。で、ガップの殿様が書いたものでもお墨付きを下さったものでもないってぇのなら、困ったことになるってことでやしょう? でも今ここには何もないんですよ、旦那。ガップの殿様のお墨付きも、お墨付きでないっていう証拠も、どっちもない。だからここで結論を出すことはできない」
 ブライトは自信に満ちてはいるが小さい笑顔を頬の上に浮かべ、ちらりとエル・クレールを見た。
 エル・クレールは渋々うなずく。
 それは、「主人の心中を代弁している『つもり』の従者が、自分の話しぶりに不安を感じたので確認したところ、主人は従者の愚鈍さに呆れながらも間違いがないことを認めた」といったやりとりに見えた。
 そのように思わせようという演技であり、現に回りの者たちはそのように受け取ったが、実際はむしろ逆といえよう。
『任せておけ、口を出すな、同意しろ』
 これがブライトの笑顔が示すものであり
『勝手にどうぞ、言葉もありません、本当に困ったヒト』
 というのがエルのうなずきの意味だ。
 その奥には、
『止めたところで無駄なこと。あの人は私ことなど子供扱いで、意見しても聞き入れてくれないのだから』
 という諦めじみたものが隠れている。
 不承不承ではあるが同意を得たブライトは、笑みを大きくしてグラーヴ卿へ向き直った。
「結論をお言いなさい」
 卿は相変わらず冷たく微笑している。
「中身を確認してからにしたらどうでやしょう?」
「あらすじは聞いているわよ?」
「それそれ、そこが難しいところでさぁ。芝居というのは、実際演じてみないことにはわからないモンだっていいますよ」
 ブライトは真面目ぶった顔つきになって、
「例えば台本《ホン》に『愛おしげに微笑む』ってぇト書きがあったとしやしょう。それを十人の役者に演じさせても、みんな同じように笑ったりやしないもンです。嬉しそうに微笑むヤツもいるだろうし、ちょぴっと涙を浮かべるとか、とろけるような色っぽさで笑うヤツもいる」
 ちらり、と、戯作者の顔色を窺う。マイヤー=マイヨールは小刻みに震えるような肯きを返した。同意が得られたブライトはニンマリ笑い、続ける。
「つまりね、旦那。芝居ってぇのは台本だけで判断しちゃぁいけないモノなんで。実際に幕が上がってから締まるまで、通しで見ないとホントウの事が見えてこない代物なんですよ。
 ましてや、葉っぱも根っこも取っ払ったあらすじだけじゃ、何も判りゃしない」
「つまり、アタシは何も理解していないってこと? 言ってくれるわねぇ」
 グラーヴ卿は鼻先で笑った。
 ブライトは大仰にうなずく。
「旦那だけじゃありあせん。オレっちも、ウチの姫若様も、ここの三文役者が悪いかどうかさっぱり判っていない。だから悪いってのを確かめてから、踏みつぶすなら踏みつぶしてしまえばいかがですか、ということで」
「正論だわね」
 グラーヴ卿は冷ややかな視線をマイヨールに突き立てた。
 尻餅を突いたままの彼は、生唾を飲んで言葉を待った。
「それではマイヨール、あなた達のお芝居を一幕から終幕まで観ることにしましょう。……もちろん、客は入れない状態で、よ」
 マイヨールの白い顔に、さっと赤みが差した。
「それはもう、最初から特別席で見て頂こうと思っていた訳ですから」
「アタシは忙しいのよ、マイヨール。今すぐ幕を開けろと言いはしないけれど……できるだけ早く結論を出したいの。お解り?」
「それはもう! すぐに一座の者に言いつけて、舞台をしっかりくみ上げさせます。そうすれば明日の朝一番には……」
 腰を浮かせたマイヨールに、グラーヴ卿は、
「遅い」
 と一言投げつけた。
「忙しいと言っているのが聞こえなかったかしら? お前の言う明日の朝一番には出立しないといけないの……帝都に向けてね」
「では……」
 マイヨールは一瞬うつむいたが、しかしすぐさま飛び上がって、グラーヴ卿の足下にちょんと跪いた。
「今夕。夕餉の終わるころにお迎えに上がります」
 それだけ言うと、彼は鞠が弾むかのような勢いで立ち上がり、駆け出し、出て行った。 
 マイヨールの姿が見えなくなると、グラーヴ卿は改めて目の前の二人連れを注視した。
「エル=クレール、と言ったわね。随分お若いこと……まあ、若くても有能な者はいるし、年経ても使えない者もいるけれどもねぇ」
 グラーヴ卿の言葉は、感心しているようにも侮蔑しているようにも取れた。エル・クレールはどう返答すれば良いものか判らず、言葉に窮した。
 それを気まずい沈黙と感じたのは、彼女だけだった。グラーヴ卿が言い終わるとすぐにブライトが、
「先年、大殿様が亡くなられまして、名跡をお継ぎになられたばかりで」
 大袈裟な身振りを交えて言ったからだ。
「ではその『特別な銀のお守り』は、親の代からのものかしらん? それを世襲させて良いというハナシを、アタシは聞いていないのだけれども」
 グラーヴ卿の細長い指が、ブライトの手の中の大ぶりなメダルをさしている。
 この質問にもエル・クレールは答えられなかった。彼女が言葉を選んでいる間にブライトが勝手にしゃべり出すからだ。
「いえいえ、旦那。これは姫若様が頂いたものですよ。ゲニックとかいう、軍隊のエライ方が……」
「その准将閣下は、もうご勇退なされたはずでしょう?」
 グラーヴ卿の言葉には、明らかな疑念があった。しかしブライトの口調には変化が見られない。
「三年、いやもう四年くらい経ちますかね。末の息子さんの婚礼の席で、中風だか何だかはっきりしないンですが、とにかく身動きが取れなくなるような病気で、お倒れになられたんですよ。ええ、それはもう、大変な騒ぎになりました」
「その場に居たの?」
「はい、居りやした。ウチの姫若様と、そのお偉いさんの末の息子……えっと、姫若、あの方はなんて言いましたかね?」
 ブライトは悪戯心に満ちた顔でニタリと笑いかける。
『調子を合わせろ』
 と言うことなのだろうと理解したエル・クレールは、必要最低限の言葉のみを返した。
「カリスト殿」
 官位とプライドばかり高い閑職の父親の四角く脂ぎった顔に似ず、温厚そうでふくよかな若い貴族のはにかんだ笑顔が脳裏に浮かんだ。
「そう、確かそんなお名前でした。そのカリスト坊ちゃんと、ウチの姫若様はご縁がありまして」
 ゲニック准将の末息子カリストは、七,八年前に当時十歳になるかならぬかであったハーンのクレール姫に、縁談を持ちかけた人物だった。
 もっともその縁談というのは、彼の家に「クレール姫の肖像画」なるものを持ち込んだ絵描きが、芸術家としては兎も角、肖像画描きとしては問題のある腕前で、姫を実年齢よりもずっと年嵩に描いていた、という笑えないハナシから来る「間違い」であった。そのため「最初からなかったこと」にされたといういきさつがある。
 その後カリストには別の田舎貴族の入り婿の口が決まった。
「それでその何とか准将様の御前で姫若様は『剣術の稽古』の様子を見て頂くことになりまして……それでこの御符を頂戴することに」
 ブライトは「剣術の稽古」という言葉を、かなり不明瞭に言った。エル・クレールはそれが「わざと」であることは悟ったが、なぜわざとそのように口淀んでみせるのか、までは判らなかった。
 グラーヴ卿も彼の口籠り方を不審に思った様子だった。ただし不審を感じたのは『剣術の稽古』という言葉の意味に、であった。
「相当派手な『稽古』をやった様子ね」
 鼻先で軽く笑う。
「ご明察」
 ブライトは気恥ずかしそうに
「お付きの猛者をこれほど」
 と、指を四本立てた左手をがっくりと前に倒す仕草をした。
 直後、再び悪戯な笑顔がエルに向けられる。
 この時彼女は先ほどの奇妙な言いよどみが、
『言わないことで悟らせる話術。……この場合は間違った方向に誘導させることを含めて』
 であることに気付いた。
 エル・クレール(とブライト=ソードマン)が、カリストの婚礼の席でゲニック准将の「お付きの猛者」を四人倒したのは事実だったし、そのすさまじい戦い振りを見た准将が卒倒したのも真実に違いはない。
 ただそのことは准将と軍部にとっては大変な不祥事であり、従って公にはされていない。
「なにしろ姫若様はまっすぐなお方ですから、子供と侮られるのが大嫌いで」
「そのようね」
 うふふ、と、グラーヴ卿は玩具でも眺めているかのように笑った。
「おかげでアタシ達も特等席でお芝居を観られることになった訳だけれども」
 グラーヴ卿はエルをじっと見て言う。その視線を見れば、その「アタシ達」の中にエルが含まれているのだということは、容易に知れる。
「私どもに同席せよとお命じですか?」
「まさか。確かに爵位だとか官位だとかを引っ張り出せば、アタシは坊やに命令出来る立場だと言えなくもない。でも『双龍のタリスマン』を出されたら絶対に敵わないわ。どの関所でも止められることなく、いかなる場合にも法的拘束を受けない。通行御免、斬捨御免のフリーパス……恐ろしいこと」
 グラーヴ卿の口ぶりは、むしろ楽しげであった。
「だからね、エル坊や。これは命令じゃないわ。招待よ。一緒にお芝居を観に行きましょう。そして意見をして欲しいの。十人の役者がいれば十通りのお芝居ができるように、十人の観客がいれば十通りの解釈が生まれるハズだもの。あなたがマイヨールのお芝居を観て感じたことを、アタシに教えて頂戴な」
 否も応もない。
 言い終わるか終わらぬかの内に、グラーヴ卿はきびすを返す。
 イーヴァンは鼻の頭に深い皺を寄せ、歯ぎしりしながらエル・クレールをにらみ付けたが、すぐに主人の後を追った。
 こうして皇帝陛下勅令巡視大使の一団は去っていった。
 嵐が去った後、というのは、恐らくこのような状態を指す言葉であろう。
 狭い飲み食い屋の真ん中にぽかりと空いた丸い空間と、役者兼任の戯作者と貴族連が去っていった出口とを見比べながら、人々は自分が何をすれば良いのかを考えることもできず、ただただざわめき立っていた。
 一番困った顔をしているのは、最初にポスターの前でマイヨールと口論になった農夫達だった。
 彼らはどうやら自分たちが騒ぎの発端であろうということは理解できているらしい。
 そして恐らく自分たちが騒ぎを起こしたことによって、見たこともない高貴な方々が、見たこともない立派な刀で斬り合いをすることになったのであろうということも、見当が付いているらしい。
 さらには多分自分たちが騒ぎを起こしたことによって、役者兼戯作者の男が死刑にされかねない状況に追い込まれたのではなかろうかということも、想像できた様子だった。
 二人は鼠の子供のごとく肩を寄せ合い、店の隅にで固まっていた。
『まずは彼らを安堵させないと』
 思ったエル・クレールだが、実際にどうしてやれば良いのかはとんと思いつかない。
 困り顔で彼らを見ていると、見られている方は余計に恐縮して、終いにはがたがたと震えだした。
「あんたら、心配しなさんな」
 声をかけたのはブライトだった。彼は農夫達の方に顔を向けつつ、不自然な……と見たのはエルだけだが……がに股で、店奥へ進む。
 背の低い、しかし横幅の広い中年の女と、その倅らしい若いのが、厨房らしいところのドアから顔を出して様子を窺っている。
 どうやら彼らがこの店の主らしい。
 その二人に向かって、ブライトは笑いかけた。
「騒ぎを起こしちまって申し訳ねぇが、どうやら向こう様もこの場は退いてくださったようだから、多分店やあすこの兄さん達には悪いことは起こらないでしょうよ。心配にゃ及ばない」
 愛想良く笑いながら、ブライトは女将の手に何かを握らせた。
 手の中を見た女将の丸いほっぺたの上に、ちらりと金色の光が跳ね返った。
 田舎の飯屋では滅多に見られない「重たい金貨」が、手荒れの酷い掌の中でぶつかり合って澄んだ金属音を立てる。
「旦那、こりゃ一体?」
 女将は驚くと同時に、商売人らしい欲気の混じった感謝の笑顔を浮かべた。
「ウチの姫若様からだよ。それとも、ここにいる衆みんなに一杯ずつ飲ませるには、これじゃ足りないかね?」
「いいえ旦那方。これだけあればうちの酒樽が二回は空っぽになる」
 ニコニコと笑った女将は、もらった金貨を胸に押し抱いて、そのまま奥の厨房へ駆け込んだ。
 程なく彼女と倅はもてるだけのマグに安酒を満たして戻ってきた。
 歓声を上げたのは件の農夫達だけではない。店にいた客の総てと、店の外で見物と決め込んでいた通りがかりとが、どっと駆け寄る。
「旦那方、ご馳になります」「若様ありがとう」などと言いながら、あるいは何も言わずに只酒に殺到する人々の流れに逆らって、エル・クレール=ノアールはブライト=ソードマンに引きずられる格好で、漸く店から出た。
 通りに出てからしばらくの間、ブライトは「愛想の良い従者」の顔のままがに股で歩いた。背丈が普段より頭一つ分ほど小さく見える。
 仕方なくエル・クレールは「気の強い田舎貴族」の体で、背伸びをしつつ後を付いてゆく。
 人並みがとぎれたと見るや、ブライトはひょいと細小路に曲り込む。同じように角を折れて入ったエルの目の前で、彼は背筋と膝をグンと伸ばし、背丈を元来の大男のそれに戻した。
「やれやれトンだ無駄遣いをしたもンだ」
 大きく伸びをしてみせる彼の鼻先に、エルの掌が突き出された。
「出費をさせられたのは私の方です」
 女の手としては骨太だが、剣士としてはほっそりとした指が、きっちりとそろえられている。
「あなたが掏摸《スリ》の真似事をなさるとは存じ上げませんでした」
 彼女が真顔で言うので、怒っているやら、あるいは感心しているのやら判別ができない。
「貧乏人丸出しの俺の尻からアレが出てくるよりも、同じ貧乏そうな形でもお貴族様に見えるお前さんが持っているものって具合に見せた方が、それらしく見えるってもンだろう?」
 ある種の正論をブライトは半笑いしながら言う。エル・クレールの表情は変わらない。
 ただ、彼が「掏摸《スリ》取った」彼女の物入れを返して欲しいと主張している事は確かだ。そろえられた指が掌が反り返るほどピンと伸びる。
 ブライトがその上に小振りな革袋を乗せると、エル・クレールは中を見ることもなく腰帯に結びつけた。
「……言うことがあるンじゃないのか?」
 無言を通す彼女に、ブライトは少々意地悪そうな声を掛ける。
「状況を打開してくださったことには感謝しています」
 あの時、田舎者の従者のフリをしたブライトが、「姫若様は事の後先を考えずに飛び出すのが悪い癖」と言ったが、それは
『間違ってはいない』
 と彼女自身が感じていることでもあった。そしてそれは
『おそらく、この人の本音だろう』
 とも思っている。
 エルには件の「身分証」を出して相手を引かせる等という手段は、思いも寄らないことだった。よしんばそれを思いついたとしても、あの体勢ではイーヴァンの剣を押さえ込むのが精一杯で、腰袋から物を取り出す余裕はなかったのだ。
 だから彼の機転には感謝している。
 知恵の回り方が羨ましいとも思う。
 その方面の思慮が足りない自分が情けなくもある。
 それを彼に見透かされ、いつまでも子供扱いされるのが口惜しい。
 だからこそ、そんな風に考えていることを悟られるのは恥ずかしい。
 エル・クレールはクチを真一文字に引き結び、ブライトの顔を睨むように見た。
 彼女の「自己嫌悪」の深さに、ブライトは気付いていなかった。ある程度「反省」はしているだろうと思ってはいるが、彼からしてみれば悩むようなことではないからだ。
 彼女が先走れば自分が始末する。それは彼にとって当たり前のことだった。
 特にああいった「事件の場」では、彼女の直情的な行動が良い「作戦」にもなるから、むしろ焚付けるような真似もする。
 だからブライトは軽い調子で、
「じゃあ、それで無駄遣いは、チャラ、ってことで」
「私は無駄とは思っておりません。あの騒ぎを収拾するには、幾ばくか金子を出すのが一番良いことでしょうから」
「俺の飲代は渋るくせに」
 茶化すように言いながら、ブライトは感心していた。
『大分世間慣れしてきた』
 少し惜しい気もする。世間知らずのオヒメサマは世間知らずのまま自分の掌中にしまっておきたい。
「それこそ無駄遣いです――それより」
 顔を上げたエル・クレールは、にこやかに笑んでいた。ブライトの背筋に、何やら冷たい物が走る。
「私のお尻《おいど》に何やら硬い物が当りましたが、あれは一体何だったのでしょうね?」
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まろやか連載小説 1.41

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