いにしえの【世界】 − 古傷 【6】 BACK | INDEX | NEXT 2015/02/16 update |
ブライト・ソードマンには自分自身についてかねて大いなる疑問を抱えていた。 それは彼の脳漿に「四年より以前の彼自身にまつわる記憶」がないことではない。 当たり前の感覚を持っている人間であればこれ以上の悩み事はないであろう。ところが、彼はそのことを深く思い悩むんでいないのだ。 頭の痛いことではある。昔の己を思い起こそうとすれば文字通りに頭痛に苛まれるのだ。 しかし彼はその原因を頭に傷を負ったからではないと考えていた。 おそらく心の奥底、自我の深層で、 『元の自分は自分自身を嫌っているのだろう』 というのが、彼の出した結論だった。 その上で、 『思い出すことに拒絶反応が出るほどに嫌っている「人物」のことをすっかり忘れてしまえているのなら、今の己の状況はむしろ喜ぶべきだ』 と、これを悩みと認識しないことにしている。 彼が悩んでいるのは別の事柄だ。 ブライトはまばらな無精ひげに覆われた頬桁をなでた。鏡もない路上では確認しようもないが、少しばかり赤みを帯びて腫れているだろう。 怪我などというご大層なものではないし、痛いとも思わない。 彼は頬桁に「美しい右ストレート」を見舞った張本人の顔をちらりと伺った。 エル・クレールは右手の甲をさすりながら、怒り、拗ね、呆れて、なにやら口の中で文句を言っている。 『これに限って、何で避けられンかね?』 確かに彼女は並の男どもから比べれば剣術の巧みではある。もちろん「人間でないモノ」を相手にしても後れをとることがない。 その腕前の半分、すなわち基本の部分は、天賦の才と幼い頃からのたしなみによる。そして残りの半分は、ブライトが実戦を交えながら教え込んだ結果である。 それゆえこの一点において、エル・クレールは彼のことを師も思い、尊敬している。 筋も憶え良いこの「弟子」は、しかしどれほど鍛えても「師匠」には敵わない。 彼女は永遠に彼にだけは勝てないだろうと悟っているが、それでも近づけるところまでは追いかけてやろうと励んでいる。 その一途さまじめさが、ブライトをも修行に駆り立てていることを、彼女は気づいていなかった。 彼は剣士としてのエル・クレールを女子供とあつかってなどいない。 弟子であるとも思っていない。 自分を脅かす存在ではないが、絶対に負けられない相手だと見ている。 彼女が一つ上達したなら、己も一つ腕を上げねばならないと考え、実際にそうしている。 師弟と言うよりはライバルの関係に近い。 兎も角。 剣術において、エル・クレールとブライトの技量には確乎歴然とした「差」があって、それ故ブライトがエルの打ち込みをかわせぬ筈はない。 もちろん、剣を使わぬ格闘術でも同様だ。 ブライトがエル・クレールに投げ飛ばされたり、締め落とされたり、殴りつけられたりすることなどありよう筈もない。……普段であれば。 ところが、彼が彼女の肉体に「愛情を持って(これは彼の言い分に過ぎないが)」触れたときに彼女が繰り出す攻撃に限っては、避けることも防ぐこともできず、朝方のように投げ飛ばされ、今のように頬を腫らせる結果となる。 このことに彼は悩んでいる。 避けられない不思議にではなく、避けない自分を訝しんでいると表現した方が正しい。 時折、自分が無意識に『殴られたいと望んでいる』か、あるいは『殴られること喜んでいる』のかもしれぬと考えが及ぶこともある。 好いた相手に殴られることを快楽と感じる人間がこの世にいるという話を、どこかで聞いた覚えがあった。 あるいは自分もそういった性癖を持っているのやもしれぬ。 であるとすれば 「変態か、俺は」 思い悩みが口をついて出た。あわてて口をつぐんだが、それを耳聡く聞きつけたエル・クレールは、一言、 「やっとご自覚なさったのですね」 うれしげに言った。 このときのブライトを表現するのに、 「体中の関節という関節がすべてはずれたような」 という比喩は決して大仰ないだろう。 彼は脱力しきった状態でようやく立っていた。 うつむいて、口の中で 「男の格好をしている娘の方が、世間様じゃよほど『変態』扱いされるってぇのに」 などという繰り言をモゾモゾとつぶやいている。 「自覚してますから、私は」 エル・クレールはくすりと笑った。 実際、彼女は自分が「妙な生き物」であると言うことを自覚している。 もし己が男であったとして、エル・クレール=ノアールという娘を妻にせよと言われたとしたら、 「後生だから勘弁してくれ」 と叫んで逃げ出すに違いない、と確信していた。 彼女にの持つ「婦人」の定義は、 『穏やかで従順で、ふんわりと柔らかな美しさを持った、我が母のような人』 だった。 従って、血の気が多くて強情な化粧気のない自分自身は 『女とも呼べぬ奇妙な生き物』 以外の何者でもない。 なにぶん彼女は封建社会の姫君である。その常識を覆すことはできない。 その常識を持っていながら、しかし、彼女は男装や剣術を止めてしまうことができない。 それは彼女の真面目な性格の故だろう。 女として生きるなら、己の思うところの「理想の女性(つまり母親のような良妻賢母)」であらねばならないと考えている。 しかし自身がその理想に近づくことは 『感情の起伏が激しくて、自己主張が強くて、背ばかり高くなるのに少しも大人と認めてもらえない己には、到底無理なこと』 に他ならなかった。 ブライトは恨めしそうな上目遣いをエル・クレールの含み笑いに向けた。 「耳がイイ上に性格もイイと来てやがる」 彼は幽鬼のごとく両肩をだらりと落とし、身をかがめて大通りへ歩き出た。 あからさまに様子が怪しいのだが、道行く人が彼に気を止める風はなかった。 人々には呑み食い屋が酒を只酒を振る舞っているという「事件」だけが見えている。仮に彼に目を止めた者がいたとしても「振舞酒を飲み過ぎた酔っぱらい」程度にしか見えないだろう。 確かにそう見て取っておかしくないふらふらとした足取りで進むブライトの後を、エル・クレールもまたゆっくりと付いて歩いた。 『この騒ぎに乗じて、村から出てゆくつもりでしょうね』 エル・クレールは少しばかり残念に思っていた。おそらくは本人のそれではないだろうが、好意を持っている叔父の名前が掲げられている演劇を、観てみたかった。 たとえブライトが拒んでも、無理矢理に芝居小屋に入ってしまえばいいと(そうすれば、彼は文句を言いながらも一緒に観劇してくれるだろうとも)考えていた。 それもこういう状況になっては無理だろう。 エル・クレールが思うに、ブライトはヨルムンガント・フレキ=ギュネイの名以上に、皇帝の勅使達のことを良く感じていない。 この男と来たら、元々ひどい役人嫌いだ。よく働く小吏は別として、虎の威を借る狐のごとく威張り散らすばかりの連中に対しては軽蔑以外の感情を抱くことはない。(だからこそ、そういった連中をからかっては面白がるのだが) 皇帝の勅使などという「特級品の虎の威」を借りているグラーヴ卿の一行と、一緒に芝居小屋の中に入ることなど、彼にとって「もってのほか」の筈だ。 エル・クレールはふらふらと進む男の背中に、小さなため息を投げかけた。 道は村の中心の広場に向かっている。そこは祭りのメイン会場であり、件の旅一座が芝居小屋を架けている場所でもある。 道がそこに向かうことは仕方のないことだ。この街道は村の真ん中、広場を横切って突き抜けて通る一本道なのだから。 脇道はいくらかあるが、くねくねとしたそれをたどってゆけば、結局はこの本通りに戻ってくる。畑の真ん中を突っ切るのでなければ、これを通らないことには村を抜けることができない。 逆を言えば、畑や他人の家屋敷の庭先を突っ切ってしまえば、この道を通る必要はないのだ。いつものブライトであれば、迷うことなくそういうイリーガルなルートを選ぶ。 当然、エル・クレールはこれを止めるが、これも普段通りの彼であれば無視して進むだろう。あるいは、抗議する彼女を無理矢理に抱え上げるなり担ぎ上げるなりして、あぜ道や畝の間を駆け抜けたに違いない。 ところが、今日に限って彼はそういう破天荒だが理にかなった道を進まなかった。 『本通りを最短ルートとみておられるのか』 少しばかり疑問におもいながら、エル・クレールは彼の後に従って歩いた。 道なりに進むと、やがて村の中央広場へたどり着いた。 村の人口規模には似合わぬが、田畑の面積などを合わせた広さを考えれば妥当な大きさをもつ円形の空間の真ん中に、岩に彫りつけた素朴な女神像が高々と立っている。 この村は前朝以来スカディ女神を村の守護者として祀っている。 彼女の縁日の祭りが近郷に比べてことさら盛大に行われるのも、村人達が時として女神と同一視される皇后クラリスに深い親愛の情を抱いているのも、それ故のことと考えれば頷ける。 そのまま像の前を通り抜け、広場を貫く街道を進んで村から出る……ものだとばかり思っていたブライトが、彼女の足下でぴたりと歩を止めたのに、エル・クレールは驚いた。 背中を丸めたまま、彼は広場をぐるりと見回した。 女神像が見下ろす場所に、芝居小屋が掛けられていた。円形広場の半分を占める大きさは立派だろうが、テントも旗指物もみなあちこちに継ぎを当てなければ使えない代物で、はっきり言えばみすぼらしい。 「こりゃ『末生り瓢箪《うらなりビョウタン》』から一筆もらっているようにゃ見えんな」 ブライトがつぶやいた。声音に安堵が混じっている、とエル・クレールは聞いた。 嫌悪し、唾棄する相手にかけられていた疑念が晴れたのを、彼はむしろ喜んでいるに違いない。 しかしそう指摘すれば、きっと 『それほどの才能があるくせに、兄貴に逆らうような度胸のある男ではないから、嫌いなのだ』 などと、もっともらしい言い訳をするだろう。 『つまり、この人はアンチという名の信奉者なのだ』 エル・クレールは彼が「フレキ叔父をある意味で信頼している」ことを嬉しく思ったが、それを隠して、 「そのことを確かめるために、わざわざ?」 その問いに対する返事はなかった。 彼はエル・クレールに背を向け、絡まった針金のように強情そうな髪の毛に覆われた後頭部を、ガリガリと掻いた。 「普段なら、おまえさんのそういう鈍さがたまらなくカワイイんだが、今日はそうも言ってられンね」 軽口のようにブライトは言うが、言葉の端になにやら重苦しいモノがあった。 「私が、何か『見落として』いる、と?」 エル・クレールは彼の左に並ぶよう一歩前へ出ると、彼の視線をなぞった。 背を丸め、うつむき加減で立つ彼の目は、地面に落ち込んでいる。 見える地面ではない。芝居小屋の薄汚れた「壁」を突き抜けた先の地面だ。 人間の視力では、そこに何かを「見る」ことなど無理なことだろう。ブライトの「目」とて、何かを「見ている」訳ではない。 だが、彼はそこに「何かある」と感じている。 心眼だとか勘だとか第六感だとか、そういう「能力」じみたモノが、そこにある何かの存在を感じ取らせている。 その手の「能力」の鋭さだけを言えば、実のところエル・クレールの方がブライトよりも優れている。 彼女のそれは、鋭く細く、そして力強い刃さながらに鋭敏だ。 無人の屋敷や戦禍の跡に息を潜め、姿を隠し、あるいは人間になりすましている魔物がいたとして、彼女はその存在を感じ取ることができる。場合によっては、それが「なんと名乗る物なのか」さえも見通すことができた。 ブライトは彼女の勘の鋭さに何度か助けられたし、その幻視の的確さは信用している。 だが彼は彼女の「能力」そのものは全く信頼していない。 なぜならそれは時として、見えている物にさえ気づかないほどの酷い「なまくら」になるからだ。 エル・クレールは自分の感覚が不安定なことを心苦しく思っている。 彼女はブライトが「何かを感じ取った」その場所をじっとにらんだ。 そこに何も発見できないことが情けなく、口惜しい。 「今日は特に間の抜け方が尋常じゃねぇな。……『末生り瓢箪』の名前にゃ、そんな役に立たない『御利益』があるのかね?」 ブライトがからかい半分に言う。 「あの方の所為ではありません……多分」 反論するエル・クレールの語尾は弱々しかった。 「多分? 他に何か……」 言いかけて、ブライトは口をつぐんだ。 エルの全身が粟立っていた。 見えてしまった……黒光りのする尖ったかぎ爪の影が。 件の芝居小屋の地面の下から、ぬっと突き出ている。 生白く細い、しかし妙に力強い腕の形が、彼女の夢の奥底に潜み、脳漿に焼き付いていた「男の腕」とぴたりと重なる。 黒い爪を持つ指先を極限まで開いた掌が、グンと一息に迫ってくる。 現実ではない。それは理解している。 だが、掌が顔面を覆う息苦しさ、爪がこめかみに食い込む苦痛、頭蓋を砕くかれる恐怖を、彼女は予感してしまった。 エル・クレールは己の体を己で抱きしめた。 小振りで丸い頭骨に、大きな掌が乗った「現実の感覚」に、彼女は息を詰まらせた。 大きく見開かれた双眸の前に、男の顔がぬっと現れた。 エル・クレールの肩は大きく揺れた。 半分ほどまぶたを閉ざした黄檗《きはだ》色の目。その向こう側に、澱んだ赤い目が、ぴたりと重なって見える。 思わず目を閉ざし、頭を振った。 再び目を開いたときには、黒い爪も赤い目も見えなくなっていた。 見えなくなったことに安堵した彼女は、ほっと息をついたが、直後、 「何故あのように見えた……?」 つぶやくのを聞いたブライトは、その言葉の意味を、 「普段と違った勘の働き方をした」 と受け取った。 「いくらか調子が戻ってきたか。めでてぇことだ」 言いつけを守った飼い犬にするような、乱暴さで彼女の頭をごしごしとなで回したのは、安堵の表れだ。 エル・クレールは「そうではない」と言いかけて言葉を飲んだ。 悪夢に見た鬼《オーガ》の幻と、鬼《オーガ》を退治する立場の、ハンターなど呼ばれもする人間とが「似て見えた」なとということを、当の本人に向かって言えるはずもない。 もっとも、それを言ったとして、ブライトは腹を立てたりはしないだろう。 いつだったか彼は「オーガとハンターは、突き詰めれば同類」であると言い切ったことがある。 共々、常人と掛け離れた力を手に入れた存在であるから、というのが彼の「考え」であるらしい。 二つのモノの違いは、望んで……場合によっては望んでいなかったのに……手に入れてた力に、飲み込まれてしまうか、制御できるか、その違いでしかない。 『酒呑みみてぇなもンだな。酔って暴れたがるやつと、そうでないやつとがいる。……白面《しらふ》のやつから見れば、両方ともひとくくりに「酔っぱらい」さ』 ブライトは「白面のやつ」の立場にいるかのごとき口ぶりで嘲笑する。嘲りの対象は、後者の酔っぱらいの一人である自分自身に他ならない。 そういう考えの持ち主であるから、エルが 「幻に見たオーガが貴方に似ていました」 など言ったとしても、 「ふぅん」 さも当たり前のことと言わんばかりに、鼻で笑うのみに決まっている。 それが嫌だった。 そちらの方面に関する彼の知識は、彼女の尊敬するところではあるが、このことのみは承伏しかねる。 エル・クレール=ノアールもハンターなのである。 ブライトの理論で言えば、彼女もまた「オーガと同類」ということになる。 すなわち、彼女の父の命を奪い、故国を壊滅させ、母をいずこかへ連れ去った、憎い仇敵の同類ということになるのだ。 それはだけは、認めたくない。 エル・クレールは口を真一文字に結んだ。 彼女が返事も反論もしないことを、ブライトは不審がらない。 筋のいい弟子で、負けられない好敵手で、可愛い妹分で、からかうとおもしろい玩具で、見込みの薄い片恋の相手で、信用する相棒である彼女の考えていることは、すべてお見通しのつもりでいる。 この「つもり」の半分ほどはどうやら的を射ているが、残りは過信であり見当違いだった。 ブライトはエル・クレールが 『見えなくなっていたものが、急に見えるようになった』 状態だと見ている。 『真っ暗闇に目隠しの状態を不安がっていたら、唐突に炎天下に突き出されて目がくらみ、困惑している』 ようなものだ、と思っている。 それならば放っておいても問題はない。直に目も慣れる。むしろ、喜ばしい。 「快気祝いに芝居にでも連れて行ってやろう」 ブライトはニタリと笑った。 「早々にこの村から立ち去るおつもりだと」 エル・クレールは小さな声を出した。 「最初はそのつもりだったがね……あんな処に妙なモノを見ちまったからには、そうもいくまいよ」 ブライトのあごが、芝居小屋の方を指した。 彼の立ち姿は、相変わらず疲れ果てた下男そのものだったが、しかし口ぶりには普段通りの力強さがあった。 この声音を聞いて漸くエル・クレールは、彼の「力ない足取り」が、落胆のためではなかったのだと気付いた。……かれは魯鈍な従者になりきっていたのだ。 そのことはしかし、エルには胴でも良いことと思えた。 「観劇なさるということは、あの勅使の方と同席すると言うことですよ?」 貴族嫌いのブライトに、エル・クレールは念を押す。 「連中が来るのは、宵の口になって『連中に見せるための芝居』の準備ができてからだろうよ。こっちは、その前に床下を覗いて、すぐにオサラバって段取りさ」 「つまり、お芝居は観ないと?」 エル・クレールは少々落胆した。同時に少しばかりの不安を感じた。 ブライトは「覗く」などと気軽に言ったが、おそらくその程度では済むまい。 グラーヴ卿の一行が「視察」に来るまでの間に 『事が済めばよいのだけれども』 それを口には出さず、彼女はブライトの顔をじっと見た。 すると、 「芝居に行くとは言いやしたが、観るとは言っちゃいませんぜ、姫若さま」 ブライトは急に口調を変え、恭しげにぺこりと頭を下げる。 その頭がわずかに動いた。彼女に背後を見るように促しているのだ。 エル・クレールは体ごとくるりと振り向いた。 背が低く、痩せた「大人の格好をした少年」が一人、立っていた。 |
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