煎り豆 − 【6】 BACK | INDEX | NEXT

2015/05/20 update
 薄ぼんやりとした赤い闇が、長者の回りに漂っております。形のあるものは何も見えません。それは、まるで光の中で目を閉じているような景色でした。
 村で一番の金持ち長者は、急に温かい春風吹き付けているように体が芯から暖まってきたような気がしました。
 それでいて、火で炙られたように体中が火照っている気もしました。
 その上、鋭いものや硬い物で突かれたり叩かれたりしたように体中が痛む気もいたしました。
 長者は慌てて目を開けました。
 薄ぼんやりとした赤い闇ばかりで、まるで光の中で目を閉じているような景色だと思えたのは、長者が本当に目を閉じていたからでした。
 村で一番の金持ち長者は、薄暗い場所にいました。
 自分の体からは酸っぱくて苦くて胸が悪くなるような臭いがいたしますし、まるで体中に何かが巻き付いているようで、手足の自由が利きません。
「ああ、わしは死んでしまった」
 長者は大声で言いました。
 遠くか近くか判らないところから、いろいろな音が聞こえました。
 カツンカツンと鉄を打つ音が聞こえます。
 ストンストンと肉を切る音が聞こえます。 グルングルンと輪を回す音が聞こえます。
 ゴロンゴロンと石を転がす音が聞こえます。
 パチンパチンと火が燃える音が聞こえます。
 ウワンウワンと声を揃えて歌うのが聞こえます。
 長者の目玉から涙が溢れ出ました。
「直に地獄の獄卒がやってきて、焼けた鉄ごてをわしの体に押しつけて、刀でわしの首を刎ね飛ばし、車輪でわしの体を轢きちぎり、石でわしの体を押し潰し、わしの体は地獄の竈にくべられて、焼かれてしまうに違いない」
 長者は泣きながら目を閉じました。
 目を閉じて震えておりますと、妙に耳が冴えるものです。
 鉄を打つ音はさっきよりもはっきり聞こえて、それが荷車の車輪の軸押さえを作る音だということが判るくらいです。
 肉を切る音はさっきよりもはっきり聞こえて、それがスープのだし汁を取るために塩漬け肉を切る音だということが判るくらいです。
 輪を回す音はさっきよりもはっきり聞こえて、それが赤ん坊の産着のための糸を紡ぐ音だということが判るくらいです。
 石を転がす音はさっきよりもはっきり聞こえて、それが年寄りのためのおかゆにする豆を荒く碾く音だということが判るくらいです。
 火が燃える音はさっきよりもはっきり聞こえて、それが病人の寝室を暖める暖炉にくべられた薪が燃える音だということが判るくらいです。
 声を揃えて歌う声もさっきよりもはっきり聞こえて、どんな言葉を言っているのかが判るくらいでした。
「よぼよぼのじいさんとよぼよぼの婆さんが、朝一番にでかけた。
 二人揃って杖を突いて、神殿まで歩いていった。
 空っぽのお財布のそっこから、銅貨を一つ捧げた。
 心を込めてお祈りしたら、天から御使いが降りてきて、
 じいさんとばあさんに子供ができると仰った。
 それから煎った豆を植えろと仰った。
 酸っぱい上澄みで育てろと仰った。
 言われたとおりに豆をまき、言われたとおりに上澄みをかけた。
 すると不思議、煎り豆から芽が出た。
 不思議不思議、あっという間に木になった。
 あっという間に花が咲き、あっという間に実がなった。
 それがその豆、たくさんの豆。
 夕べたらふく食べて、今朝たらふく食べてもまだ減らない。
 なんて幸せな煎り豆だろう」
「これはいったい何の歌だろう? わしは今までこんな歌を聴いたことがない」
 村一番の金持ち長者は薄暗闇の中で耳を凝らしました。
 不思議な歌は何度も繰り返しに聞こえます。
 楽しく話して聞かせるようで、よろこんで叫んでいるようで、幸せに踊っているような歌声でした。
 長者は目を開けました。
 すぐに、自分が新しい部屋の新しい寝台の上にいるのが判りました。真っ白で柔らかい夜具と、薬と血膿で汚れた包帯で体を覆われているのが見えました。
 不思議な歌は何度も繰り返しに聞こえます。
 長者は体を起こしました。
 立派な暖炉で火が燃えていて、立派な鉄の金具に立派な鍋がかかっていて、上等の塩肉でだしを取った柔らかいおかゆが煮えているのが見えました。
 不思議な歌は何度も繰り返しに聞こえます。
 長者は寝台の上で立ち上がりました。
 あの歌は、しっかり閉まったドアと、少しだけ開いた窓の僅かな隙間から、漏れて聞こえてまいります。
 何度も何度も聞く内に、長者の恐ろしがって真っ白だった顔が、少しずつ赤身を取り戻して行きました。
「これは不思議だ、なんだか元気が湧いてくる」
 なぜだか心がうきうきし、じっと横たわっていられなくなって、終いに長者は節に会わせて足を踏みならして踊っておりました。
 長者の脚は棒のようにかちこちですし、目は兎のように真っ赤でした。
 それでもお腹の中から力が湧き上がってきて、黙りこくってはおられないほど楽しい気持ちが体に満ちておりました。
 村一番の金持ち長者は踊りながら寝台から飛び降りて、踊りながらドアを開けて、踊りながら廊下に出て、踊りながら廊下を歩いて、踊りながら建物の外に出ました。
 外に出ますと、小さな川で小さな水車が回っているのが見えました。
 水車の軸は小さな小屋につながっております。小屋の中では小さな石臼が勢いよく回っております。小さな石臼からはたくさんの粉が溢れ出ております。細かい粒ぞろいの粉を大勢の人足たちが袋に詰めております。人足たちは大きな袋の隅と隅をしっかり合わせてと積み重ねております。
 袋は次から次へと重なり、粉は後から後からあふれ、石臼は止まることなく転がり、軸は休むことなく回転し、水車は止めどなく回っておりました。
 そうして、働いている人々はみな声を揃えて歌い踊っておりました。
「よぼよぼのじいさんとよぼよぼの婆さんが、朝一番にでかけた。
 二人揃って杖を突いて、神殿まで歩いていった。
 空っぽのお財布のそっこから、銅貨を一つ捧げた。
 心を込めてお祈りしたら、天から御使いが降りてきて、
 じいさんとばあさんに子供ができると仰った。
 それから煎った豆を植えろと仰った。
 酸っぱい上澄みで育てろと仰った。
 言われたとおりに豆をまき、言われたとおりに上澄みをかけた。
 すると不思議、煎り豆から芽が出た。
 不思議不思議、あっという間に木になった。
 あっという間に花が咲き、あっという間に実がなった。
 それがその豆、たくさんの豆。
 夕べたらふく食べて、今朝たらふく食べてもまだ減らない。
 なんて幸せな煎り豆だろう」
 村で一番の金持ち長者は黙っていられなくなり、歌と踊りと仕事の真ん中にいる人足頭に声を掛けました。
「これはいったい何の歌なんだ? わしは今までこんな歌を聴いたことがない」
 人足頭は手を止めて、不思議そうな顔で答えます。
「あっしらはずっとこの歌を歌っておりやすよ。あなたのところにいたときにも歌っておりやした。もっともあなたは、年寄りの話などどうでもよいと仰って、歌を止めさせましたけども」
 人足頭は頭をぺこりと下げますと、すぐに仕事に戻りました。
「そんなことは知らないぞ」
 村で一番の金持ち長者は小首をかしげてその場から離れました。
 しばらく行きますと、小さな川の中で豆の枝を腐らせて糸の元を取っているのが見えました。
 川のそばには小さな作業場が建っております。作業場の中では小さな糸車と小さな機織機が良い音を立てて動いております。小さな作業場からはたくさんの織物が運び出されております。美しく粒ぞろいの織物を大勢の織工たちが反物に巻いております。織工たちは巻かれた反物の隅と隅をしっかり揃えて積み重ねております。
 反物は次から次へと重なり、織物は後から後からあふれ、機織機は止まることなく動き、糸車は休むことなく回転し、川からは次々と糸の元が引き上げられております。
 そうして、働いている人々はみな声を揃えて歌い踊っておりました。
「よぼよぼのじいさんとよぼよぼの婆さんが、朝一番にでかけた。
 二人揃って杖を突いて、神殿まで歩いていった。
 空っぽのお財布のそっこから、銅貨を一つ捧げた。
 心を込めてお祈りしたら、天から御使いが降りてきて、
 じいさんとばあさんに子供ができると仰った。
 それから煎った豆を植えろと仰った。
 酸っぱい上澄みで育てろと仰った。
 言われたとおりに豆をまき、言われたとおりに上澄みをかけた。
 すると不思議、煎り豆から芽が出た。
 不思議不思議、あっという間に木になった。
 あっという間に花が咲き、あっという間に実がなった。
 それがその豆、たくさんの豆。
 夕べたらふく食べて、今朝たらふく食べてもまだ減らない。
 なんて幸せな煎り豆だろう」
 村で一番の金持ち長者は黙っていられなくなり、歌と踊りと仕事の真ん中にいる織工長に声を掛けました。
「これはいったい何の歌なんだ? わしは今までこんな歌を聴いたことがない」
 織工長は手を止めて、不思議そうな顔で答えます。
「私どもはずっとこの歌を歌っております。あなたのところにいたときにも歌っておりました。もっともあなたは、神殿の話などどうでもよいと仰って、歌を止めさせましたけども」
 織工長は頭をぺこりと下げますと、すぐに仕事に戻りました。
「そんなことは知らないぞ」
 村で一番の金持ち長者は小首をかしげてその場から離れました。
 しばらく行きますと、小さな川の岸辺で大きな鍋釜が洗われているのが見えました。
 川のそばには細い道があります。道を上った先の小さな小屋は、煙突からは良い香りのする煙がモクモクと立ち上っておりますので、厨房に違いありません。厨房からはたくさんの鍋釜や食器が運び出されております。立派で粒ぞろいの食器を大勢の料理人たちが洗い磨いております。料理人たちは鍋釜や食器の縁と縁とをしっかり揃えて積み重ねております。
 そうやって働いている人々は、みな声を揃えて歌い踊っておりました。
「よぼよぼのじいさんとよぼよぼの婆さんが、朝一番にでかけた。
 二人揃って杖を突いて、神殿まで歩いていった。
 空っぽのお財布のそっこから、銅貨を一つ捧げた。
 心を込めてお祈りしたら、天から御使いが降りてきて、
 じいさんとばあさんに子供ができると仰った。
 それから煎った豆を植えろと仰った。
 酸っぱい上澄みで育てろと仰った。
 言われたとおりに豆をまき、言われたとおりに上澄みをかけた。
 すると不思議、煎り豆から芽が出た。
 不思議不思議、あっという間に木になった。
 あっという間に花が咲き、あっという間に実がなった。
 それがその豆、たくさんの豆。
 夕べたらふく食べて、今朝たらふく食べてもまだ減らない。
 なんて幸せな煎り豆だろう」
 村で一番の金持ち長者は黙っていられなくなり、歌と踊りと仕事の真ん中にいる料理長に声を掛けました。
「これはいったい何の歌なんだ? わしは今までこんな歌を聴いたことがない」
 料理長は手を止めて、不思議そうな顔で答えます。
「私たちはずっとこの歌を歌っておりますよ。あなたのところにいたときにも歌っておりました。もっともあなたは、御使いの話などどうでもよいと仰って、歌を止めさせましたけども」
 料理長は頭をぺこりと下げますと、すぐに仕事に戻りました。
「そんなことは、知らないぞ……」
 村で一番の金持ち長者は小首をかしげてその場から離れました。
 しばらく行きますと、小さな川の岸辺に大きな家を幾件も建てているのが見えました。
 家々はみな見るからに素晴らしい材木で作られていました。家々が完成する先からやはり良い材木で作られた家具が運び込まれました。頑丈で粒ぞろいの家具を大勢の職人たちが作り上げております。職人たちは家具のの角と角とをしっかり揃えて積み重ねております。
 そうやって働いている人々は、みな声を揃えて歌い踊っておりました。
「よぼよぼのじいさんとよぼよぼの婆さんが、朝一番にでかけた。
 二人揃って杖を突いて、神殿まで歩いていった。
 空っぽのお財布のそっこから、銅貨を一つ捧げた。
 心を込めてお祈りしたら、天から御使いが降りてきて、
 じいさんとばあさんに子供ができると仰った。
 それから煎った豆を植えろと仰った。
 酸っぱい上澄みで育てろと仰った。
 言われたとおりに豆をまき、言われたとおりに上澄みをかけた。
 すると不思議、煎り豆から芽が出た。
 不思議不思議、あっという間に木になった。
 あっという間に花が咲き、あっという間に実がなった。
 それがその豆、たくさんの豆。
 夕べたらふく食べて、今朝たらふく食べてもまだ減らない。
 なんて幸せな煎り豆だろう」
 村で一番の金持ち長者は黙っていられなくなり、歌と踊りと仕事の真ん中にいる鍛冶屋に声を掛けました。
「これはいったい何の歌なんだ? わしは今までこんな歌を聴いたことがない」
 鍛冶屋は手を止めて、不思議そうな顔で答えます。
「私はずっとこの歌を歌っております。あなたのところに行ったときに、あなたの前で歌ったじゃあないですか。もっともあなたは、私の話をちゃんと聞き終わる前に、私たちをお屋敷から追い出されましたけれども」
 鍛冶屋は頭をぺこりと下げますと、すぐに仕事に戻りました。
「そんなことは知らない……」
 村で一番の金持ち長者は小首をかしげて言いかけましたが、
「いや、そうだったかも知れないぞ」
 口の中でぼそりと言い改めて、その場から離れました。
 しばらく行きますと、小さな川の岸辺で大きな水瓶に水を汲み上げている男の人の背中が見えました。
 男の人は腰をかがめて古いバケツで水を汲んでは、背を伸ばして大きな瓶に水を注いでおります。
 男の人の髪の毛は真っ白で、着ている物は長い間着たように古びておりました。
「はて、どこかで見たような年寄りだ」
 村で一番の金持ち長者は、腕を組んで考えましたが、さて何処で見かけた人なのかさっぱり思い出せませんでした。
 男の人は水を汲み上げる度に腰をかがめますが、なんどかがんでも
「よいしょ」
 とも言いません。
 水を注ぐ度に背を伸ばしますが、何度背を伸ばしても
「どっこらしょ」
 とも言いません。
 その代わりに、神殿の合唱隊が歌うような拍子で、歌のような物を口ずさんでおりました。
「よぼよぼのじいさんとよぼよぼの婆さんが、朝一番にでかけた。
 二人揃って杖を突いて、神殿まで歩いていった。
 空っぽのお財布のそっこから、銅貨を一つ捧げた。
 心を込めてお祈りしたら、天から御使いが降りてきて、
 じいさんとばあさんに子供ができると仰った。
 それから煎った豆を植えろと仰った。
 酸っぱい上澄みで育てろと仰った。
 言われたとおりに豆をまき、言われたとおりに上澄みをかけた。
 すると不思議、煎り豆から芽が出た。
 不思議不思議、あっという間に木になった。
 あっという間に花が咲き、あっという間に実がなった。
 それがその豆、たくさんの豆。
 夕べたらふく食べて、今朝たらふく食べてもまだ減らない。
 なんて幸せな煎り豆だろう」
「ああ、その歌だ、あの歌だ」
 村で一番の金持ち長者は思わず声を上げそうになりましたが、ようやく言葉を飲み込みました。
 男の人が歌を続けたからです。
「元気なじいさんと元気な婆さんが、朝一番にでかけた。
 毛玉牛に荷物を引かせて、一夜谷那まで歩いていった。
 空っぽの粉袋に、いるだけの粉を入れた。
 いるだけの粉をみんながとっても、荷車の粉はまだ減らない。
 元気なじいさんと元気な婆さんが、朝一番にでかけた。
 毛玉牛に荷物を引かせて、刺草丘まで歩いていった。
 空っぽの糸車に、いるだけの糸を巻いた。
 いるだけの糸をみんながとっても、荷車の糸はまだ減らない。
 元気なじいさんと元気な婆さんが、朝一番にでかけた。
 毛玉牛に荷物を引かせて、煙吹き山まで歩いていった。
 空っぽのパン籠に、いるだけのパンを入れた。
 いるだけのパンをみんながとっても、荷車のパンはまだ減らない。
 元気なじいさんと元気な婆さんが、朝一番にでかけた。
 毛玉牛に荷物を引かせて、石ころ川原まで歩いていった。
 空っぽの荷車に、乗るだけの人を乗せた。
 いるだけの人をみんな乗せても、荷車の隙間はまだ減らない。
 そしてその豆、たくさんの豆。
 夕べみんなで食べて、今朝みんなで食べてもまだ減らない。
 なんて幸せな煎り豆だろう」
 村で一番の金持ち長者は黙っていられなくなり、男の人に声をかけました。
「これはいったい何の歌なんだ? わしは今までこんな歌を聴いたことがない」
 男の人は手を止めて、くるりと振り向きました。
「おや長者さん、目が覚めましたかね? それは重畳、重畳」
 石の壁の小屋に住む老夫婦の、一夜で若者のようになった旦那さんでした。
 旦那さんの髪の毛は真っ白で、着ている物は長い間着たように古びておりましたが、顔は皺一つ無く、頬は紅色で、眼は光り輝いておりました。
「はて、どこかで見たような若者だ」
 長者は、腕を組んで考えましたが、さて何処で見かけた人なのかさっぱり思い出せませんでした。
 長者は、石の壁の小屋の夫婦とは同じ神殿の信徒で、同じ頃に宮参りをして、同じ頃に成人の祝いをして、同じ頃結婚式をして、同じ曜日に礼拝をしておりますから、顔を知らないではありません。
 でも背筋の伸びた、元気の良い、若者の顔をしたこの旦那さんが、腰の曲がった、よぼよぼの、しわしわ顔のおじいさんとは思えなかったのです。
 旦那さんはにこにこ笑って言いました。
「ほぅれよくごらん、石の壁の小屋の爺だよ」
 長者は旦那さんの顔をじっと見ました。確かに石の壁の小屋のおじいさんによく似ています。
「確かに石の壁の小屋の爺ィによく似ているが、あの爺ィはもっとずっといっそずいぶん年寄りの筈じゃないか」
 長者はびっくりして言いました。とてもとてもとてもとても信じられないからです。
「わけを話すと長くなるし、わしはこの水を急いで運ばないといけないんだよ。歩きながらにでもきいておくれ」
 そういいますと、旦那さんは水のたっぷり入った大きな瓶を、ひょいと抱えて、ひょいと背負いました。
 村で一番の金持ち長者が目を円くしてみておりますと、旦那さんは踊るような足取りで飛ぶような勢いで、どんどんずんずん歩き始めました。
 長者は慌ててついて行きました。
 若者のようなおじいさんの旦那さんは、しっかり前を向いたまま、歌うような節回しで話し始めました。
「よぼよぼのじいさんとよぼよぼの婆さんが、朝一番にでかけた。
 二人揃って杖を突いて、神殿まで歩いていった……」
「それは聞いた、何度も聞いた。それにみんなが歌っていたぞ」
 長者は大声で言いました。
 なにしろ旦那さんときたら、水のたっぷり入った瓶を軽々と背負って、石ころだらけの川原道を歩いているというのに、まるきり御使いが足で歩くことなく地面すれすれを飛んでいるような軽やかさで、ずんずんどんどん歩いてゆくのです。
 長者がどんなに急いでも、一歩歩くうちにに二歩半遅れ、二歩進むうちに五歩遅れてしまいます。
 ですから長者が旦那さんと話をするには、ぐんぐん前を進んでゆく若々しい背中に大声で呼びかけないといけないのです。
「そうかねそうかね」
 村で一番の金持ち長者の大声を聞いた旦那さんは、立ち止まらずに振り向いて、にっこり笑って答えました。
「全く年寄りというのは、同じ話を何度もしてしまう。聞いている者は困ってしまうだろうが、長者さん、どうか勘弁してください」
「いいやそうじゃない、そうじゃない」
 長者さんは急ぎ足で歩きながら言いました。
「爺さんから聞くのは初めてだ。粉碾き小屋の人足と、機織り小屋の職人と、台所の調理人と、普請場にいた連中が、口を揃えて歌い語っているんだ」
「そうかねそうかね」
 旦那さんはにこにこ笑いました。
「では長者さんはすっかりこの話を聞き飽きたかね?」
 旦那さんがやっぱり立ち止まらずに言いましたので、長者は早足で追いかけながら答えなければなりませんでした。
「その通り、その通り、確かにその通り」
 ぜぇぜぇ息を吐きながら長者は言いました。
「ではこの話は止めにしようかね」
 旦那さんが言いました。
 すると長者は、首を横に振りました。
「いや止めないでくれ、続けておくれ」
 長者の答えを聞きますと、旦那さんは立ち止まりませんでしたが、歩幅を狭くいたしました。
 村一番の金持ち長者は駆け足で追いかけて、ようやく旦那さんに追いつきました。
「どうにも不思議な話だし、どうにも不思議な歌だから、何度も聞いてみたくなる。それから何度も何度も歌いたくなる」
 旦那さんは、横に並んだ長者のげっそり痩ているけど薔薇色な頬と、ぐったり疲れているけど輝いた目玉をみますと、にこにこ笑いました。
「では話そうか。最初から、最後まで」
「では聞こうか。最初から、最後まで」
 旦那さんと長者は横に並んで歩きました。
「よぼよぼのじいさんとよぼよぼの婆さんが、朝一番にでかけた。
 二人揃って杖を突いて、神殿まで歩いていった。
 空っぽのお財布のそっこから、銅貨を一つ捧げた。
 心を込めてお祈りしたら、天から御使いが降りてきて、
 じいさんとばあさんに子供ができると仰った。
 それから煎った豆を植えろと仰った。
 酸っぱい上澄みで育てろと仰った。
 言われたとおりに豆をまき、言われたとおりに上澄みをかけた。
 すると不思議、煎り豆から芽が出た。
 不思議不思議、あっという間に木になった。
 あっという間に花が咲き、あっという間に実がなった。
 それがその豆、たくさんの豆。
 夕べたらふく食べて、今朝たらふく食べてもまだ減らない。
 なんて幸せな煎り豆だろう。
 元気なじいさんと元気な婆さんが、朝一番にでかけた。
 毛玉牛に荷物を引かせて、一夜谷那まで歩いていった。
 空っぽの粉袋に、いるだけの粉を入れた。
 いるだけの粉をみんながとっても、荷車の粉はまだ減らない。
 元気なじいさんと元気な婆さんが、朝一番にでかけた。
 毛玉牛に荷物を引かせて、刺草丘まで歩いていった。
 空っぽの糸車に、いるだけの糸を巻いた。
 いるだけの糸をみんながとっても、荷車の糸はまだ減らない。
 元気なじいさんと元気な婆さんが、朝一番にでかけた。
 毛玉牛に荷物を引かせて、煙吹き山まで歩いていった。
 空っぽのパン籠に、いるだけのパンを入れた。
 いるだけのパンをみんながとっても、荷車のパンはまだ減らない。
 元気なじいさんと元気な婆さんが、朝一番にでかけた。
 毛玉牛に荷物を引かせて、石ころ川原まで歩いていった。
 空っぽの荷車に、乗るだけの人を乗せた。
 いるだけの人をみんな乗せても、荷車の隙間はまだ減らない。
 そしてその豆、たくさんの豆。
 夕べみんなで食べて、今朝みんなで食べてもまだ減らない。
 なんて幸せな煎り豆だろう」
 石の壁の小屋に住む一夜で若者のようになった旦那さんが、歌うように話すのを聞いているうちに、長者の疲れてしなびた顔が、楽しそうで角の取れた表情になってゆきました。
「これは不思議だ、なんだか元気が湧いてくる」
 なぜだか心がうきうきし、普通に歩いてはいられなくなって、終いに長者は節に会わせて足を踏みならして踊るようにして走っておりました。
 しばらく行きますと、旦那さんが足を止めました。長者も足を止めました。
 旦那さんと長者の目の前には、古い石の壁の小さな家がありました。入り口には、古い板と新しい板が端切れの継ぎ接ぎのように組み合わさった、小さなドアが付いています。
「さあついた、さあついた」
 旦那さんは水のたっぷり入った瓶を抱えたまま、ドアの取っ手に手を伸ばしました。
 すると、瓶が傾いて、中の水がちゃぷんと小さくはねました。
 はねた水のしぶきは小さな固まりになって飛んで、旦那さんの顔をちょっと濡らしました。
「こりゃ冷たい、こりゃ冷たい」
 旦那さんは慌てて手を戻して、瓶をしっかり持ち直しました。あんまり慌てて抱えなおしましたので、中の水はざぶんと大きくはねました。
 はねた水のしぶきは大きな固まりになって飛んで、旦那さんの顔をびっしょり濡らしました。
「こりゃ大変だ、こりゃ大変だ」
 旦那さんは慌てて頭を振って、水を払おうとしました。あんまり慌てて頭を振りましたので、水瓶の水はばちゃんとたっぷりはねました。
 はねた水の飛沫はたくさんの固まりになって、旦那さんの頭と、長者の頭をぐっしょり濡らしました。
 村で一番の金持ち長者は大慌てになりました。
「一緒に持とうか? ドアを開けようか? いっそ一緒に持って、ドアを開けてやろう」
 長者は急いで片手で水瓶を支え、急いで片手をドアの取っ手に伸ばしました。
「いや有難い、やれ有難い」
 旦那さんはたいそう喜んで、にこにこ顔を一層にこにこさました。
 それを観ました長者は、なぜだか心がうきうきしました。じっと立っていられない気分でした。足を踏みならして踊りたくなるような心持ちになりました。
 でも長者は、本当に踊り出してしまいましたなら、益々水瓶が揺れて、益々水があふれてしまうと思いましたので、心の中のうきうきと、踊り出したいむずむずとを堪えることにいたしました。
「さあドアを開けたぞ、さあ水瓶を運ぶぞ。何処まで運ぼうか、何処へ置こうか」
 長者はとても大きな声で言いました。
 旦那さんは少し困ったような顔をしました。
「ああ済まない、ああ申し訳ない。どうか長者さん、手を放しておくれ」
 すると長者は言いました。
「いいや放さない、放せない。今手を放したら、水瓶は落ちて割れて、水は溢れて流れて、わしもお前もずぶ濡れになる」
 旦那さんは確かにその通りだと思いました。
 そこで旦那さんは言いました。
「台所の奥まで運んでおくれ。流しの脇に置いておくれ」
 長者は大きく頷きました。
「判った、判った。さあ運ぼう、さあ置こう」
 旦那さんと長者は歩幅を合わせて大きな水瓶を運びました。それから、息を合わせて大きな水瓶を床に置きました。
「いやありがとう、ありがとう。おかげでとっても助かった」
 旦那さんは笑いました。
「とんでもない、とんでもない。おかげでとても楽しかった」
 長者も笑いました。
 でも笑った後で、
「さて、いったい何が楽しかったのだろう」
 と首をかしげました。
 村一番の長者は楽しくなるようなことは一つだってしていないはずでした。
 すると旦那さんがいいました。
「歩いたり、走ったり、水に濡れたり、ドアを開けたり、瓶を運んだりしただろう?」
「歩いたり、走ったり、水に濡れたり、ドアを開けたり、瓶を運んだりしたところで、疲れるばかりで楽いことなどないだろうに」
 村で一番の金持ち長者は疲れることをするのが大嫌いでした。
 歩くのは足が疲れますから、普段はずっと座っています。
 走るのは腰が疲れますから、普段は馬車に乗ります。
 顔を洗うのだって手が疲れますから、水を被るなんてことはにしません。
 ドアの開け閉めだって腕が疲れますから、番頭や小僧にやらせます。
 もちろん、重たい水瓶を運ぶことなんて、体中が疲れ果てそうなことは、今までに一度だってやったことがありません。
「そりゃ長者さん、確かに動いて働けば疲れるばかりだが、家族や仲間や、それから友達と一緒なら、これほど楽しいことはないものさ」
 石の壁の小屋の旦那さんは、にこにこ顔を益々にこにこさせた上に、もっとにこにこ笑って言いました。
「長者さんはこの爺さんと一緒に歩いて走って水を浴びて、この爺さんのためにドアを開けて水瓶を運んでくれたんだ。友達と一緒に友達のために何かをするのは、この上なく楽しいことに決まっている」
「友達だって!」
 長者は頭のてっぺんから煙が吹き出すような勢いで叫びました。
 目玉の奥のずっと奥で、暗い神殿の祭壇の炎が揺れるのが見えた気がします。
 長者があんまり驚いたので、旦那さんはびっくりしました。
「ああ申し訳ない、申し訳ない。なにしろ同じ頃に生まれたし、おなじ神殿に参っていたものだから、なんだか他人とは思えなくて、勝手にそう思っていただけだ」
 旦那さんの困った声が、長者の耳に入ってきました。
 でもその耳の穴のずっと奥で、別の声も聞こえていました。村で一番の金持ち長者はブルブルッと身震いしました。
 長者がなんにも言いませんので、旦那さんは益々困ってしまいました。
「この爺さんが長者さんを友達扱いしてはいけなかった。申し訳ない、申し訳ない」
 旦那さんが頭を下げますと、長者はもう一遍ブルッと身震いをいたしました。そうして羽虫の羽音よりも小さな声で言いました。
「わしが屋敷に帰ると、食事の支度はあったのに、料理人も使用人もいなかった。反物はできあがっていたのに織工はおらず、粉は挽き上がっていたのに粉碾き職人はいなかった。田畑はあるのに耕す者がおらず、牧場はあるのに牧人はいない。種を蒔いても芽は出ずに、柵があるのに山犬が入ってくる。屋敷が火の海になっても消す者がいし、蔵は鼠の巣になっても追い出す者がいない」
 旦那さんも羽虫の羽音ほどの声で言いました。
「誰もいない理由は、長者さんが一番よく知っているだろうに」
 旦那さんの言うとおり、長者は理由を知っています。畑にいた者を追いだし、蔵にいた者を追い出し、工場にいた者を追いだし、厨房にいた者を追いだし、屋敷にいた者を全部追いだし、訪ねてきた鍛冶屋を追い出したのは、自分でしたから。
「ここに来る途中、粉碾き小屋に粉碾きの職人たちがいた。織物工場に織工たちがいた。厨房に料理人がいて、作業場に鍛冶屋と大工たちがいた」
「みんながいる理由は、長者さんが一番よく知っているだろうに」
 旦那さんの言うとおり、長者は理由を知っています。追い出された者は耕せる畑を探し、働ける作業場を探し、腕を振るえる場所を探し、雇ってくれる主人を捜す筈ですから。
 村で一番の金持ち長者だった老人は、ブルブルブルと身を震わせました。
「教会の祭壇に天から御使いが降りてきて、
 一人のじいさんに仰った。
 持っている物はなくなって、
 片掌の中に握っていられるだけになると仰った。
 大きな屋敷は燃えて落ち、
 大きな蔵は崩れて落ち、
 大きな工場は焼けて落ち、
 大きな畑は荒れ果てて、
 掌の中には何にもない」
 老人は、まるで神殿の合唱隊がお葬式の時に歌うような口ぶりで、ぼそぼそと言いました。
 村で一番の金持ち長者だった老人は、背中を丸め、肩を落とし、頭を下に向けました。
 老人の体は、まるで風に吹かれて雨に降られた枯れ木のように、がたがた震えてしずくを落としています。
 目玉から涙がじわりと溢れ出て、ほっぺたを涙がつるりと流れ出て、床の上に涙がぽとりと流れ落ちたのです。
 石の壁の小屋の旦那さんは、長者さんだった年寄りに言いました。
「光の御使いが言ったことは、その通りになるものさ。この爺さんと婆さんが言われたこともその通りになった。だから長者さんが言われたこともその通りになる」
「ああ、その通りだ。何もなくなった。何もなくなった」
 長者だった老人は益々震えて、益々泣きました。すると旦那さんは首を横に振って言いました。
「いいや何もなくなる訳がない。だって、光の人は仰ったのだろう? 片方の掌の中に握っていられるだけの財産、と。だから長者さんは全部なくしたんじゃあない。その証拠に、ほうれごらん」
 ガリガリのしわしわに痩せた老人の手を、ごつごつのつやつやに太い旦那さんの手が握りました。
「握り替えしてごらんなさい。そうすれば、長者さんの掌の中には、この爺さんの手があることになるだろう?」
 老人は旦那さんの手を握りました。
「これは不思議だ、なんだか元気が湧いてくる」
 長者だった老人の体から、ガタガタ震えが消えました。ぼろぼろ涙も消えました。背中がしゃんと伸び、肩がぴんと張り、頭がしゃっきり持ち上がりました。
 すっかり顔色の良くなった老人をみて、旦那さんは少し遠慮がちに言いました。
「もしものことけどね、長者さん。もしも長者さんが、この爺さんを友達だと言ってくれるなら、この爺さんは長者さんの手を放さずにいようと思うんだよ。そうすれば、長者さんの掌が空っぽになることはないだろう?」
「友達だって!」
 長者は頭のてっぺんから煙が吹き出すような勢いで叫びました。
 目玉の奥のずっと奥で、暗い神殿の祭壇の炎が揺れるのが見えた気がします。
「嫌ならいいんだよ。無理強いをして仲よくなっても、それは友達とは言わないものだ」
 旦那さんは残念そうに手を放そうといたしました。ところが手を放すことができません。長者だった老人が、力を込めて握り替えしているからです。
「何を言っているんだね。こんなに素晴らしい『財産』を手放すバカ者はこの世にいない。ああ、わしは全部を失って、全部を手に入れた!」
 元気の良い老人は、踊るような足取りで飛び跳ねました。そうして若い旦那さんの顔をじっと見て、言いました。
「これまでのこととこれからのこと、全部謝って、全部お礼を言おう。そして、もしこれからさきのずっと先まで、お前がわしを友達と呼んでくれるなら、わしはお前のためになんでもしてやろう」
「何でもしてくれるだって!?」
 今度は石の壁の小屋の旦那さんがびっくり声を上げました。
「ああ、なんでもするさ」
 老人は大きく頷きました。
 旦那さんはすぐさま言いました。
「ならば、早速お願いだ」
 すぐさま老人は答えました。
「よしきた、早速聞いてやろう」
「この爺さんと婆さんの子供らの名親になってはくれないか?」
 名親といえば本当の親も同然です。老人は少し躊躇しましたけれども、旦那さんがにこにこにこにこ微笑んで、ギュッと手を握って真っ直ぐに、自分を見つめていますので、心を決めて答えました。
「その役目をくれたこと、心の底からありがとう。早速子供らの顔を見せてはくれないか?」
 石の壁の小屋の旦那さんは、村一番の財産持ち長者の手を引いて歩きました。
 台所のドアを開け、今のドアを開け、寝室のドアを開け、暖炉のそばの寝台の上、若い奥さんの腕の中、すやすや眠る二人の子を長者に紹介いたしました。
「さて、なんて可愛い子供だろう。まあるいおでことまあるいホッペが、お日様色に輝いている。まるで光の御使いの子供のようだ」
 長者はポンと膝を打ち、旦那さんに言いました。
「キラキラのクレールとピカピカのクラリスと、名前を付けてはどうだろう?」
「それは良い、それは良い」
 旦那さんと奥さんがよろこんで弾けるように笑いますと、暖炉にかけた鉄鍋のなかでもうひとつ、煎った空豆がその皮を、ポンと弾かせ笑ったとさ。

 さて、このお話はこれでお終い。
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まろやか連載小説 1.41

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