フレキ=ゲー編によるガップ民話集
歴史

ハーン帝国末期からギュネイ帝国初期にかけて、大陸各地に伝わる民謡や民話に「文学としての価値の再発見」が叫ばれた。その結果、様々な民話集類が発行されたが、その大半は編者による「政治的に正しい」改作を受けており、原話とはほど遠いものとされていた。
そのため、当時皇太子(皇太弟)であったヨルムンガント・フレキは資料性を求めて独自に童話の原話の収集を始めた。
父親であるヨルムンガント一世存命中は、帝都にあって資料の収集を行っていた。436年、ヨルムンガント一世崩御に伴い、所領であるガップに赴いて以降は、その地の古老から聞き取りを行うなどして、原話の収集を始める。

437年頃、ヨルムンガント・フレキによる民話収集を知った兄である二世皇帝フェンリルの命により、草稿が帝都に献じられる。
当時の宮廷学者らが「草稿」をもとに「フレキ=ゲー編によるガップ民話集」としてまとめ、440年に初版が発行された。


民話研究の論点から

ガップ民話集は長い間「ガップ地方の非識字者の老婆から聞き取りをして、改変せずに収録し、出版されたもの」と信じられてきた。しかし今日では、後世の研究により、「収録、あるいは出版に際して、相当な改編があった」とされるのが、通説になりつつある。
その理由は以下の通りである。

ヨルムンガント・フレキがガップに封じられてから出版までの期間が短い。
従って「草稿」に収録されていた物語の多くは、帝都にいた頃に収集されたものである公算が高い。
「草稿」が献上されてから実際に出版されるまでの間に、宮廷学者のグループによる‘不自然に長い’編集作業が行われている。
この編集作業では「性的・暴力的な部分の改訂」や、「(非識字の老婆の語りに起因する)稚拙な文章の修正」がなされたとされている。
この際に「政治的な改編」あるいは「物語そのものの削除」が行われた可能性を排除できない
「ヨルムンガント・フレキによる草稿」そのものが、出版される以前に所在不明となっている。
実際にこの「草稿」を目にしたとされるのはフェンリル皇帝と数人の宮廷学者のグループのみである。
そのため、「草稿」の存在そのものを疑う研究者もいる。

以上のように様々な疑念がある作品集ではあるが、民話研究者にとっては引き続き見逃すことのできない貴重な資料であることには間違いない。

【本編】

煎り豆
  1 / 2 / 3 / 4 / 5 / 6 /

慌て者の黒騎士の話
  1 /

フレキ=ゲー編によるガップ民話集 序文
  1 /

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