夏休みの前から夏休みの終わりまでの話。 − 【46】 BACK | INDEX | NEXT 2015/10/05 update |
龍はぎゅっと目をつぶった。きっと母親の手の上から父親の怒声が降って来るに違いない。 でも、父親の声の前にシィお兄さんが優しい声を出した。どうやら龍の代わりに事情を説明してくれているらしい。 受け答えしている父親は、龍のすぐ側にいるはずなのに、声はものすごく遠くから聞こえた。 その日から数日間、龍は店先のピンク電話の前をうろつくことが多かった。 もちろん夏休みだから、やらなければならないことはたくさんある。 ラジオ体操も、宿題のドリルも、それから店の手伝いも、ちゃんとやっている。どれも全部上の空で、何一つ集中出来ないのだけれど、やらなきゃいけないことはこなしていた。 兎も角、龍は「やらなきゃいけないこと」が無くなると、電話の前でうろうろし始める。 電話をしようか悩んでいる。 ……だれに? 電話が来るのを待っている。 ……だれから? 答えはどっちも「トラ」だ。 借りた服を洗って返さないといけないからとか、助けてくれたお礼をちゃんと言ってないからとか、そういう「ちゃんとした理由」もあるけれど、それ以上にタダなんとなく声が聞きたいような気がする。 彼女に直接遭いに行くには、Y先生の家はちょっと遠い。それに、先生の家までの「正しい」道を龍は知らない。 川を遡ってたどり着いたのは、はっきり言って偶然だ。大体、川は道じゃない。 帰りだってシィお兄さんの車に乗っかって来ただけだ。大体、お兄さんの話に聞き入っていたものだから、道順なんか憶えていられなかった。 だから、遭いには行けない。 龍は自分にそう言い聞かせた。 でも本当は、全然違った。 彼女の顔を見るのが怖い。 幽霊を見ているようで怖い。 暗い穴の中にいるようで怖い。 暗い穴の中に閉じこめられた彼女を想像してしまいそうで怖い。 苦しんでいる彼女のことを想像してしまいそうで怖い。 彼女がこの世の者でなくなってしまう瞬間を見てしまいそうで怖い。 龍は電話機の前で立ちすくんだ。背筋に氷が這ったような気がして、震えながら自分の身体を抱いた。 あんまり怖くなったので、龍は大きな声を出した。 「電話、掛かってこい」 声は店中に響いた。 直後、龍の背中で金物が落ちる大きな音がした。慌てて振り向くと、龍の父親が床の上に散らばった新製品の缶ケース入り色鉛筆を拾い集めていた。 「やかましい、商売の邪魔だ。用がないなら中にいろ!」 父親が顔を真っ赤にし、拳を握って怒鳴るので、龍は大あわてで家の中に逃げ込んだ。 居間で母親がくすくすと笑っている。龍は唇を尖らせて、どすんと座った。 目の前に、冷えた麦茶のコップが出された。 琥珀色の液体の中で、氷がころころと音を立てた。 「自分から電話すればいいのに」 母親は龍の正面に座って、ものすごく簡単なことだと言う。 「まず先生に『お借りした服の洗濯ができました。いつ返したらいいですか』って聞いて、そのお返事をもらうの。そのあとで、お友達の……ヒメコさんだっけ?……その子に代わってくれって頼めばいいじゃない」 「ヤだよ」 龍は小さな声で言った。 そして、もし理由を聞かれたら、正直に「怖いから」とは言いづらいと思い、聞かれる前になんとか誤魔化そうと考えて、 「女の子に電話するなんて、恥ずかしい」 と付け加えた。 「そう」 母親はにこにこと笑い、 「夏休みが終わったら、嫌でも学校で先生に会うのだものね。それからでも遅くは無いけれど」 すっと席を立った。 お盆の上に麦茶のグラスが2つ乗っている。お店に持っていって夫と二人で飲むのだろう。 そうやって龍を一人きりにして、自分独りで「一番良い方法」考えさせる算段だ。 親の心子知らずというヤツで、龍には母親の考えなんかちっとも解らない。 なんとなく放り出されたような、匙を投げられたような、見捨てられたような気がして、酷く寂しくなった。 狭苦しい居間の真ん中で、コップの中の氷はどんどん溶けて小さくなってゆく。 |
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