屈狸 − 本文 【1】

 オヤジ殿は「雷親父」という「前世紀の遺物」だ。
 三度の飯の支度も、洗い上がった下着も、何も言わぬうちに出てくるのは当然。「指示代名詞+もってこい」という呪文を唱えれば自分の希望する物体が目の前に差し出されるのが当たり前と思いこんでいる。
 その上、連れ合いを喰わせているのは自分で、女房は自分がいなければ生きて行けないものだと信じ切っているから質が悪い。
 現役の職人としてバリバリ働いていた頃ならいざ知らず、年金生活の今は、むしろパートに出ている奥さんの方が稼ぎが良いというのを理解していない。
 子供らが成人して、楽隠居暮らしができるようになったのだから、オフクロ様が熟年離婚を言い出してもおかしくない。自分ならそうする。それをしないオフクロ様もまた、「良妻賢母」という「前世紀の遺物」なのかもしれない。

 その日、電話口の義妹の口ぶりは要領を得なかった。早口で聞き取りづらい言葉の中から「倒れた」とか「救急車」とか「精密検査」とか「麻痺」といった単語を拾い、つなぎ合わせて、ようやく状況が把握できた。
 オフクロ様が病気になった。近所の診療所ではなく、遠方の総合病院に入院しなければならないような病気に。
 普段しっかり者の嫁がこんな状況なのだから、オヤジ殿の方は輪を掛けて聴牌テンパっているに違いない。取り乱す老人の様子を想像して、酷く不安になった。
 嫁ぎ先兼勤務先に頭を下げ、車をブッ飛ばしてきた娘は、病室中を開いたままの扉の陰からそっと覗き込んで、卒倒しかけた。
 いや、正確にはずっこけた。
 白とクリーム色しかない病室のほとんど真ん中に、毒々しいまでに真っ赤な色の、腹の丸い喜寿きじゅ爺ジジイが鎮座している。
 オヤジ殿はたぶん倅の「コレクション」の中から勝手に引っ張り出したのだろう派手派手しいアメコミ柄のTシャツを着込んでいた。臙脂えんじのジャージズボンはたぶん私が実家に置いてきた高校指定の運動着だ。丈も太さも足りないものを無理矢理はいているものだから、尻が半分出かかっている。広くなった額を隠すように猩々緋しょうじょうひのバンダナを巻いているが、こっちはオヤジ殿自身の趣味だ。
 派手派手しい発色のせいで、手前にいた義妹の姿にすぐには気付かなかった。
「おう、遅いかったな」
 オヤジ殿は、まるで自分の寝床のにいるようにくつろいだそぶりで、ひらひらと手を振る。
「ごま塩禿達磨め」
 喉まで出かかった言葉をどうにか飲み込めたのは、脇にオフクロ様がいたからだ。
 うす青の検査着を羽織り、車椅子に座っていた。顔色はさほど悪くないが、頬のあたりが酷く浮腫むくんでいる。
 元々小柄な人だったが、無節操に膨張色を着込んだオヤジ殿が側にいるモノだから、余計に小さく縮んでみえた。
「たいしたこと、はないのよ」
 ようやく口を動かして言う。短い言葉だが、聞き取るのに苦労した。
「これがね、入院するのに、要るの。揃うかしら?」
 病人はゆらゆら揺れる手先で、メモを一枚差し出した。赤いボールペンの文字は、胃痙攣を起こした沙蚕ゴカイの群れのようだった。
「慌ててたから、必要なモノが全然わからなくて。わかる分はお父さんに頼んだけども……」
 義妹が申し訳なさそうな顔をしている。頼まれた方がふんぞり返って、
「肌着だのタオルだのが何処にあるかなんて、男親おとこおやが知ってるワケがない」
 平然と言った。
「あんたはこの人の『親』じゃなくて『亭主』でしょうに」
 病人当人が書いた文字を解読しながら、聞こえないように呟いた。
「売店は何階だっけ?」
「二階、でも、何でも、高いのよ


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