「死体」 − 無題(「クレール」シリーズの番外編?) 【1】

 充満した空気は目を開けていられないほどの臭気を湛えている。
 足を踏み入れると、床板が悲鳴を上げた。
 エルは思わず、踏み込み足に掛けていた重心を後ろに戻した。
 そのわずかな動きに応じるように、壁際で重いものが倒れた。
 湿った臭気の動きが、床の上の埃と、羽虫が羽根を得る前にまとっていた外骨格のかけらとを巻き上げる。
 途端、
「アア」
 そのため息は、確かに壁際から聞こえた。
 羽虫の羽ばたきと自分たちの足音の他には、なんの音もないはずの部屋だった。
 エルの踏み込み足が、重心の乗せられたもう一本よりも後ろに下がった。
 その踵が、何かに触れた。
 暗がりを見つめていたエルの瞳は、弾かれたように真後ろに向けられた。
 驚きと、少々の軽蔑と、わずかな得心の入り交じった、見知った顔がそこにあった。
「おまえさんでも、『中途に土に還りし者』を怖がるンだな」
 ブライトは悪戯な少年のように言い、エルの肩を叩いた。
 臭気も闇も気にすることなく中に入ってゆく彼の後を、エルは慌てて追った。
「いけませんか?」
「いや」
 ブライトは小さく首を振り、壁際の床に横たわる肉塊を足先で突いた。
 黄変した皮膚と、茶色く変色した衣服をまとった、かつては人だったモノは、何の反応も返さない。
「しゃべりました。だから驚いたのです。動かなければ、怖くなどありません」
 言い訳じみている……エルは唇を噛んだ。
「倒れた拍子に腹の中のガスが抜けて、喉を揺らしたんだろうよ」
 振り向いたブライトは、ニコリと笑っていた。
「疑心暗鬼を生ずる、ってな。怖ぇえって思えば、枯れ草でも魔物に見える」
 エルは紫色の唇を奮わせた。
「それは逆に、過信すれば魔物も人に見えると言うことですか?」
「違ぇねえや」
 ブライトの笑顔が、自嘲に変わった。
 そして彼は、足を大きく振り上げ、全身の力を踵に込めて振り下ろす。
 半固形で、半液体の塊が、しぶきを上げて潰れた。
 土に還りかけながら、還るのを拒んでいたモノの残骸は、羽虫たち命の糧へと昇華された。



2014/09/20update

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