【銭王《ドゥニエ・デ・ロワ》】 − 【2】

 エル=クレール・ノアールは停止した。
 立ったまま気を失ったと云っても良い。
 旧街道を上り詰め、今まさに下りだそうというその場所で、彼女の脚は一歩も動かなくなっている。
 眼下には小規模だが美しい大釜山地が広がっていた。
 外輪山が円を描いて丸い盆地を取り囲む。中心に小規模な大釜湖があり、その真ん中に小さな島が浮かぶ。湖から放射線状に道筋が十二本、外輪山の山裾に向けてまっすぐに伸びる。湖は轂さながらであり、道は輻のようであった。
 道筋には町や村が点在し、その先にはそれぞれに古めかしい建物が建っていた。
 建物のない平地はほとんどが耕作地となっている様子で、植物の葉や花や実が様々な色を発している。
 町々、村々の家屋の煙突からは盛んに煙が上がっていた。それは人々が住まい、生きている証である。
 山に杣人がおり、湖水に漁師がおり、田畑に農民がおり、町に工人がおり、街道に商人がおり、屋敷に貴人がおり、神殿に聖人がいる。
 大釜山地の底に、生きた人間達がうごめき、ざわめいている。
 エル=クレール・ノアールはこの景色を見たことがある。厳密に言うと、これに相似して倍ほども大きい大釜山地をよく見知っている。
 その土地は今眼下に広がる風景の、幾倍も美しく光り輝いて、彼女の心の奥底に焼け付いている。
 エル=クレール・ノアールは……いや、クレール・ハーンは、前のめりに倒れかけた。ブライト・ソードマンが襟頸を掴んで引き上げなければ、下り坂を麓まで一息に転げ落ちていただろう。
 拾われた猫のように持ち上げられている彼女の、蒼白となった額には脂汗がにじみ、暗い紫を唇は小刻みに振るえていた。
 ブライトもこれとよく似た景色を見たことがあった。
 ただし彼が実際に目にしたのは、色のない世界だった。
 焦げ臭く、土臭く、硫黄臭い空気が充満し、この世のあらゆる物の残骸をざらついた火山灰が覆い尽くす、精気の無い場所だった。
 彼の土地の名はミッド。
先の皇帝にして、その地位を臣下に禅譲した大公ジオ=エル・ハーンが捨て扶持として与えられた土地。
 ジオ=エルと若い後妻ヒルデガルトとの間に公女クレールが誕生し、十三歳まで暮らした場所。
 数年前に灰の下に埋もれ去り、永遠に失われてしまった、彼女の故郷。
 実のところ、ブライトはパンパ山とその大釜の底の盆地パンパリアについて、わずかながら予備知識を持っていた。もっとも、それを得たのは昨夜の事ではあったが。
 麓の宿屋の亭主から、外輪山を縦走する古い登山道は特に人気が少ないことと、パンパリア盆地は存外人口が多いこと、そのために盆地の中抜ける旧街道は人通りが多いのだが、
「でもねぇ旦那。もし本当に人目を避けたいって仰るならね、木の葉を隠すなら森の中、人を隠すなら人混みの中、てぇヤリカタもあると思うんですよ。なにしろあすこは今、祭りの盛りですからね」
 という、如何にもな言葉を引き出すのにエール三杯分の無駄金を使ってしまっている。
 パンパ山がその胎内に丸い盆地を有する古い火山である事は、亭主の口の端に掛かっていたのだ。
 それをエル=クレールに内密にしたつもりはない。言う必要を感じなかっただけだ。
 その判断は、間違っていたようだ。
『地形だけじゃなく、街の造りに至るまで、これほど相似形だとは思わなかった。こんな物を急に見せつけられたら、俺がこいつの立場でも失神する』
 ブライトは心中で舌打ちをした。
 エル=クレールがその白い顔をわずかに持ち上げて、眉間にしわを刻む彼を見上げ、微笑した。
「ちょっと意外だったので、驚いてしまって


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まろやか連載小説 1.41
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