【覚醒編】 − 胎動の【皇帝(ジ・エンペラー)】 【6】

 ぬるい鉄サビの臭いと生暖かい腐肉の臭気が、大理石の床の上で淀んでいる。
 さながら、時間など思慮の外にあるかのような空間だった。
 精気のまるで感じられない影が、無数にたむろしている。
 それらは皆、一つの方向に顔を向けていた。
 玉座がある。
 その主がいる。
 影どもはざわついているが、玉座の主に言葉はない。ただ無言で、掌の上で一つの赤い珠を玩んでいる。
 遠目には人に見えた。
 中肉だが堂々とした体躯、きらびやかで品のある衣装、威厳ある険しい顔立ち。
 そして頭上に冠するのは……二本の鋭利な角。
 玉座の主は美しく切りそろえた頬髭をなでながら、彼にかしずく者達を睥睨していた。
 丸で動きの無かった空気が、ドアのきしむ音と同時にわずかな風となった。
 影どもの視線が乱れ、ざわめきが増した。
 玉座の主はゆっくりとまぶたを開き、闇の中に四角く切り取られた外界との接点をにらんだ。
 それも遠目には人に見えた。
 細身だががっしりとした体躯、古めかしいが上品な衣装、威厳ある柔和な顔立ち。
 そして頭上にはやはり……二本の鋭利な角。
 床を埋め尽くしていた無数の影どもが、この外から来た者のために道を開けた。
「珍しいことよな、【愚者(ザ・フール)】。卿がここに来るとはな」
 玉座の主の声が、荘厳に響いた。
「【皇帝(エンペラー)】陛下にお聞きしたいことがありましてね」
 外から来た者が静かに答えた。
 彼は玉座の前に片膝を付き、頭を下げた。
「よい。朕は弟である卿に、宮殿内で帯刀することと、朕に対して敬礼しないことを許可している」
 【皇帝】は笑顔を浮かべた。尖った犬歯が唇の端からのぞいた。
 顔を上げた【愚者】の口元からも、やはり牙が見える。
「して、弟よ。朕に訊ねたいこととは?」
「まず第一。何故、ユミルに手を出されました?」
 【皇帝】の笑顔が凍った。【愚者】は続ける。
「陛下は私に彼の地の女王を我が陣営に取り込め、と命ぜられた。それ故私は彼の地におもむき、その内情を密かに探っていた」
「確かに朕は卿にギネビア=ラ=ユミレーヌを籠絡せよと命じた」
「では何故、ユミルにオーガを2匹も使わされましたか?」
「弟よ、それはユミルに対する派兵ではない。ミッドに対する宣戦布告だ」
 ユミルは大陸の東端の地、ミッドは中央であり、二国は遠く離れている。
「御意が、はかりかねます」
「ミッドの使節がユミルに赴いたでな。そやつを抹殺したまでのことだ」
「高々うらなりの官僚一人のために、マジュスケェルを2匹も……ですか」
「アーム文字の研究者だったセイン=クミンの倅だ。我らの『秘密』を知っているやもしれぬ」
「用心深いことで」
 【愚者】は吐き捨てるように言い、口元を歪めた。
 【皇帝】の目が険しく光った。
「何が、可笑しい?」
「陛下が派遣した2匹のマジュスケェル・オーガ……。そのセイン=クミンの倅、レオン=クミンに屠られましたよ。至極、あっさりとね」
「何!」
 驚愕のざわめきが空間に満ち、【皇帝】は玉座から立ち上がった。
「当然アーム……【節制(テンペランス)】と【死神(ザ・デス)】は彼の物となりました」
「たわけたことを言うな! そのような、莫迦なことが……」
「私が陛下に対して偽証したことが、今までありましたか?」
 落ち着き払った【愚者】の声に、【皇帝】は納得せざるを得なかった。
「それで、陛下。第二の疑問にお答え願いましでしょうか」
 【皇帝】はこめかみの皮膚の下で血管を痙攣させながら玉座に座り直した。
「申せ」
「ミッドは、殲滅させるご予定ですか


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