義清殿ですが、その一年後にはこの城を負われました。
真田幸隆の調略によって、です。
祖父は砥石城の中にあった一族縁者に内応させて城を乗っ取ったのです。
どのような調略が有ったのか、私は知りません。
父によれば、祖父はその話を三男であった父には直接口伝することがなかったというのです。それ故父は、何も教えてやることができぬ、と言います。
あるいは話を伝え聞いていたやもしれぬ父の兄たち、すなわち信綱《のぶつな》伯父、昌輝《まさてる》伯父も、私が十になる前に長篠の戦で討ち死にしています。
調略された側でもある頼綱大叔父に聞けば委細が判りそうなものですが、
「なに、ちぃと兄者に唆《そそのか》されての。まあ、いくらか味方につくものを集めて、あとは少し戦らしいことをしたまでのことだわい」
程度にしか話してくれぬのです。
大叔父が「戦らしいこと」と言うと、それが文字通りの小規模な戦闘だとは思えないのが不可思議ではあります。
経緯はともあれ、祖父は砥石城を奪い取りました。そしてその褒美として信玄公は、砥石城をそのまま祖父に与えたのです。
以降祖父はここを居城としました。あるいは本城と考えたのでしょう。
後年、真田の庄に新たに作った館ではなく、ここの山城で最期を迎えたのは、恐らくそんな理由からだと、私には思えるのです。
我が父・昌幸はここで生まれ、七つで証人(人質)として甲府へ送られるまで暮らしました。
父にとってはここが故郷そのものなのです。だからこの度も、どうしてもここへ戻ってきたかった。
新たな主に仕えるに当たって、初心のある場所に戻りたかった。
父は私などに心中を悟らせてはくれませんが、私が父のような生い立ちであれば、恐らくそうしたでしょう。
ところで、「父のように」ではなく、私として生まれ育った今の私は、父のように「生まれ育った所」に戻りたいとは思っていません。
甲府は懐かしい場所です。帰りたいと思うこともあります。ですが今、あの場所からやり直したい、とは思えません。
全く我ながら不思議なものです。
砥石の城櫓に立てば、南には上田平を、北東には真田の郷を一望できます。南東の方角に目を転ずれば、北佐久の土地を眺めることも出来ます。
西を流れる神川《かんがわ》が南に進んで千曲川《ちくまがわ》と合流している様子が見えます。
私が四方を見回していると、
「手狭、であろう」
背後から声をかけたのは、父でした。
「兵も馬も武器も兵糧も水も、止め置ける領が少ない。山城はそこが不便だ。源三郎は、いかが思うか?」
父は私の顔ではなく、眼下に広がる景色を遠く眺めておりました。
「私は不便というよりは、この城は位置が悪いと思います」
私は父の、色黒で皺の深い、年相応以上に老けた顔を見ました。栗の渋皮が石塊になったような、固い顔つきをしています。
「そうか?」
「上田の平には近く、塩田の平が遠う御座います。あるいは、真田の庄に近く、川中島には遠い。沼田はまだしも、甲州、振り返って信府、さらに申しませば諏訪、木曽、あるいは、京の都には遠い遠い」
私が地名を言うごとに、父の顔が歪んでゆきました。頬の辺りがひくひくと攣れ、奥歯でギリギリと音をたてています。そして、目尻がじわじわと下がってゆくのです。
京の都、の辺りになると、父は堪えきれずに、弾けるように息を吐き出して、山が崩れるのではないかと言うくらい、大きく大きく笑いました。
腹を抱えてひとしきり笑い終えると、また渋皮顔に戻って、
「さても、源三郎は強欲よ」
「はて、私はただ『