小懸 ―真田源三郎の休日―【本編】 − 【3】

遠い』と申したまでです」
 私は空惚けて答えました。その土地が欲しいなどとは……例え淡い憧れのような思いはあったにせよ……一言も発していないのです。
 父は渋皮顔のまま、
「儂もなにがどう強欲とは言っておらぬぞ」
 口元だけ僅かに微笑させました。

 私と弟の源二郎、そして頼綱大叔父は、着いた翌日にはそれぞれ、岩櫃、木曽、沼田へと向かうこととなっておりました。
 於照は、滝川様が厩橋の御屋敷を整備している都合もあって、先方から迎えが来るまでは砥石に留まることになっています。恐らくは、於照を手放したくない父の「手回し」があったためでしょう。
 岩櫃の城には立派な作りの館がありました。と言うのも、父はここに武田勝頼公をお迎えする腹積もりでいたためです。結局、勝頼様は御自害あそばしてしまいましたので、岩櫃の真新しい居館は、暫くは主のない状態でした。

 私が岩櫃に入って三日ほど経った頃のことです。
 信濃巫《しなのみこ》であるとか、ノノウなどと呼ばれる「歩き巫女」の統帥である望月《もちづき》千代女《ちよめ》殿と、その弟子の娘達二十人ほどが訪ねてきました。
 巫女言っても、ノノウ達は特定の社寺に属しているわけではありません。ノノウはご神体を携えて各地を遊歴して、その土地土地で雨乞いや豊作を願う祈祷をしたり、あるいは死者や神仏の口寄せをしたりするのです。
 田楽を舞い、傀儡《くぐつ》を操って芸能をしてみせたりと、旅芸人に近い者達もいます。中には神仏に仕えるのではなく、男衆に一夜限りで仕えるような事をする者達もおりました。
 千代女殿は四十歳を少し過ぎた、白髪の多い、ふくよかなご婦人です。
 元は武田信玄公の外甥でもある望月盛時《もりとき》殿の奥方でしたが、盛時殿が八幡原の戦いでお亡くなりになって後、信玄公から「甲斐信濃二国巫女頭領」の任を与えられ、信濃小県禰津《ねづ》村でノノウの修練場を営んでおいでです。
 千代女殿の巫女道修練場には常時二〜三百の女衆が居り、巫女道の修練に励んでおります。その多くは、戦の続く世で親兄弟を失った若い娘御でした。
 私は本丸館の新しい床と新しい敷物の上に落ち尽きなく座って、女衆を迎えました。
 まだ十にも満たない童女から、三十に近いとおぼしき者まで、様々年頃の女がいました。
 女衆は、神社の巫女のような一重と袴といった出で立ちではなく、それぞれに様々な柄の、丈の短い小袖を着ております。
 足首辺りがちらりと見えるその出で立ちが、妙に艶めかしく思え、何やらじっと座っていることが出来ない気分になりました。私はその照れを隠そうと、
「新しい館というのは、居心地の良くないものですね。とにかく尻の座りが悪い」
 うわずった声で言いました。その様が無様であったのでしょう。若いノノウの幾人かが、口元も隠さずにクスクスと笑い出しました。
 千代女殿が気恥ずかしげに
「修行の足りない者ばかりで」
 と頭を下げると、流石に娘達は神妙な顔つきとなり、師匠に習って深く頭を下げたものです。
「いや、男の前で笑うて見せるのも、ノノウの役目で御座いましょう。若い娘の笑顔は、男の心を開かせる。心を開かせれば、こちらの聞きたい話を思うままに聞き出せるというものです。……今私も危うく余分なことを言いそうになった」
 私が言いますと、千代女殿は誇らしげに笑われました。
 甲賀望月氏は甲賀忍びの流れを組む家柄です。盛時殿はその甲賀望月氏の本流の当主でした。千代女殿がそのの妻となったのは、千代女殿自身の忍びの術が、すこぶる巧みであったためだと聞き及びます。
 その千代


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