いにしえの【世界】 − 中断 【11】

った一言の事をよく憶えていてくださった。でもそんな名前は忘れてくださっても構わない。あの野郎なんざ禿で十分だ。いや、それでももったいない。これからは馬鹿助と呼んでくれる。ああ、先代は旦那も奥方もすばらしい人だったのに、どうしてあんなのが出来ちまったんだろう」
 床の上に座長の顔が浮かん見えたのだろう。戯作者は歯ぎしりし、地べたを激しく幾度も踏みつけた。
 国を興した英雄の衣裳を着込んだ男が、である。
 滑稽だった。
 笑いを押し殺しブライトが
「その馬鹿助殿が、あんたの腹づもりよりずいぶん早く、ヨハネス=グラーヴを連れて来ちまった、か?」
 水を向けると、マイヤーはまた小刻みに頷いた。
「日暮れまで引き留めとくって算段だったんですよ、本当はね。馬鹿助ときたら、それじゃぁっていうんで酒瓶抱えて行きましてね。それもしみったれたヤツをですよ。こんな辺鄙な田舎の安酒で、仮にも都のお貴族様を接待しようってのがそもそも間違ってますでしょう? ああいった人たちは、美味い物の味はよく知っていらっしゃるから。……中には『銘柄』が良ければ中身がお酢でも気分良く酔っぱらえるお方もいらっしゃいますけども……。そいつは兎も角。不味い酒でも話がおもしろけりゃ聞いてやろうと思っていただけたでしょうけれど、なにしろ出かけたのがあの学のない迂闊な馬鹿助ですからね。結果は解っちゃいたんですがね……。さりとて私《あたし》が稽古をおっ放り出して、お屋敷に行くわけにもゆかず」
 胸に溜まっていた事を一息に吐き出して、漸く、マイヤーは少しばかり気楽になったらしい。
「全くこちらの手落ちです。若様には本当に申し訳もありません」
 ぺこりと下げた頭が持ち上がったときには、力なくではあるが、面に笑みが浮かんでいた。
「で、どう落とし前をつけてくれるってンだ? うちの姫若さまは、自分だって貴族だっていうのに『オ貴族サマ』が大のお嫌いでね。できれば勅使殿の隣にゃ座りたくないって仰せなンだがね」
 からかい気味に言うブライトの言葉は、おそらく彼自身の本音でもあろうが、エル・クレールの本心も代弁してくれていた。
『どうにもあの方は苦手だ。どことなく緩く生温い物言いは、皮膚にまとわりつくようで心持ちが悪い。あれが都の気風であるならば……私は帝都に生まれなくて良かった』
 小さく息を吐いた。彼女にとっては安堵の息だったが、マイヤーには彼に対する不満の現れに見えた。
『なんてことだ、禿馬鹿の所為で若様のご機嫌を損ねちまうとは! すぐさま外へ案内すれば、これ以上ご不興を買うようなことはないだろうが』
 マイヤーはずぶ濡れの犬がするように総身をふるわせた。
 歴戦の剣士の強さがあって、直情的であるにもかかわらず、人見知りの激しいか弱い心根を持つ、姫君のように麗しい【美少年】が、自分から離れてゆくのは途方もなく惜しく、途轍もなく恐ろしい。
 求め求めてようやっと見つけた格好のモチーフだ。いや、もの書きに名声を運ぶという芸術神ポリヒムニアの化身だ。ここでみすみす逃がしてなるものか。
 留めておきたい、留めねばならぬ。
「裏からお出になってくださいな。ただし、街道は運悪く一本道ですから、今外に出てはかえってグラーヴ卿閣下の目につきます。ご不便でしょうが、暫し楽屋にお隠れを」
 エル・クレールの手を手ずから引いて案内したいのは山々だが、そんなことをしたら忠実な剣士に斬りつけられる。
 出しかけた手を引っ込めるた彼は、くるりと踵を返し、足早に舞台袖へ向かった。
「学習能力のあることだ」
 にたりと笑い、ブライトは彼の後に続


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