いにしえの【世界】 − 黒い月 【14】

れどもね。だってこの子ったら、書類を読むときに眉間にこんなに皺を寄せていたのだもの」
 細い眉の形をした装飾の間に、【月】は三筋ばかりの溝を作って見せた。
「ああ、だからこうすると、アタシもあなたの顔が良く見えるのよ。横顔が……ちっともアタシを見てくれないつれない顔が」
 【月】の言葉の通り、ブライトは彼女(と表現して良いのか判然としないが)から完全に顔を背けていた。【月】から目を背けているというよりは、顔を向けた方角にいるエル・クレールを見つめていると表現した方が正しい。
 【月】はその存在すらも無視されている。
 【月】はこれを侮辱と受け止めた。耐え難い屈辱とも感じた。肉体的な苦痛を快楽と感じる彼女(?)だったが、精神的な苦痛は好まないらしい。
 掴んでいた幟旗の柄を投げた。
 刺繍で分厚く縫い上げられた重い錦の布きれが、風を叩く音を立てた。
 ブライト=ソードマンは上体を僅かに反らし、避けた。
 そうするだろうと【月】も考えていた。元より視界を遮るつもりで投げたのだ。
 こうすれば、投げつけられた側は少なくとも反射的に目を閉じるはずだ。
 その瞬きの僅かな間は「エル坊や」から視線が外れる。
 武芸者ならば、無意識に攻撃が発せられた方向を向くだろう。
「さあ、こちらを見なさい」
 雑音混じりの声を【月】が上げた。が、直後、【月】は自分の淡い期待が見事に裏切られたことを知った。
 彼は目の前を猛烈な勢いで横切ろうとする棒きれを、そこに置いてあるもののように掴んでいた。
 瞬きをすることもなく、攻撃者を確認することも全くなかった。
「人間サマの皇帝に対する敬意は、まるでナシ、か。ま、コッチもヒトのことを言えた義理じゃねぇが」
 ブライトは掴んだ竿を乱暴に振り、剣先形の飾りが付いた竿頭を下にして床に突いた。床にだらしなく広がった「錦の御旗」を、草臥れた革靴が踏みつけにした。
 この、まさに瞬きするほどの間、彼の黄味の強い茶の瞳は、視線を送る方向を変えていた。
 【月】に目を転じたのではない。
 彼はずっとエル・クレールから視線を外さずにいる。見つめる対象が動いた、その走る軌跡を忠実に追っていた。
 伸縮自在な蝕肢をかわしたエル・クレール=ノアールは、蜻蛉を切って身を立て直していた。彼女はアーム【正義《ラ・ジュスティス》】の抜き身をひっさげたままつむじ風の勢いで舞台から飛び降りた。
 打ち合わせを重ねた殺陣を演じているかの如く、滑らかな動作だった。
 客席の椅子を飛び越えて向かった先には、二人ばかりの男が震えて立ちつくしている。
 勅使グラーヴ卿の家臣達だ。
 目の前で主が得体の知れぬ化け物に変じ、それによって同僚が無惨な亡骸とされたことに、彼らは恐怖している。互いに寄り添い、抱き合うようにしてようやく立っている。
 一人の男はなめし革の鎧の上にギュネイ皇帝の旗印を縫いつけた上着を羽織り、長い剣を下げている。剣術の稽古で潰れたらしい耳朶に、赤い石の嵌った耳輪を付けている。衛兵のような役目を負っていたらしい。
 もう一人は体の幅の厚い男で、緑色のベストを着、鵞鳥の白い羽根が付いた赤いフェルト帽を片手に握りしめている。短く切りそろえたあごひげの下から、首に巻き付けられた短い首輪の赤い石の装飾が見える。これは勅書や触書を読み上げる伝令官であろう。
 エル・クレールの緑色の目が衛兵らしい男を睨め付けている。
 男は身を縮め、目を固く閉じた。
 エル・クレールは駆けながら無言で剣を振った。下からすくい上げられた切っ先が、衛兵の男の耳を刎ね飛ばした。
 べたりと


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まろやか連載小説 1.41
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