いにしえの【世界】 − 黒い月 【14】

湿った音を立てて地面に落ちたものは、初めは耳朶の形をしていたが、すぐに溶解しはじめ、やがて腐汁となって流れ出した。
 悲鳴が上がった。衛兵の喉からではなく、化け物と化した彼の主の口からだ。狂喜と歓喜にうちふるえる雄叫びだった。
 ほとんど同時に、他の叫び声も上がった。
 読み上げ係の伝令官だ。
 彼はしかし、同僚が斬りつけられたことに驚いて声を出したのではなかった。
 急に胸が焼けるように熱くなった。
 思わず掻きむしった指先に妙に柔らかい触感があった。
 己の手をまじまじと見た読み上げ係の伝令官は、腐った蕃茄《トマト》を握りつぶしたような赤と、融けた乾酪《チーズ》のような薄黄色が、指と言わず掌と言わず、べっとりまとわりついているのを見た。
 それらが元は己の血肉であり脂肪でああったことを、彼は理解できなかった。物事を考える余裕がなかったのだ。
 首輪が首を締めつけている。
 主から直々に賜った装飾品だった。
 赤い飾りの石が脈打つように蠢いているのは、彼には見えなかった。外そうと足掻いたその時には、もう呼吸ができなくなっていた。
「意識を保て!」
 エル・クレールは叫び、アームを振り下ろした。
 顎から胸までの肉ごと、この男を浸食し始めた【月】の汚れたアームの欠片をえぐり取るつもりだ。
 深紅の剣先は、はじき返された。
 勅書の中身を言葉として発させるのが「役目」であった伝令官の喉元から、別のモノ、見覚えのある蝕肢が突き出ていた。
「そうやって……己のアームを分け与えた他人の体を媒体にして……移動するのかっ!」
 間髪を入れず、真っ直ぐに己に向かってくる蝕肢をかわしつつ叫ぶエル・クレールに、
「ちょっと当たっていて、ちょっと違うわね」
 伝令官の喉の奥から、男のそれとは思えない声が発せられた。
「アタシは鏡。鏡はいろいろなモノを写す。例え小さな欠片でも、周囲をその表面に映し出す。アタシはそれを見る。それを聞く。そしてアタシ自身の肉体に投影する」
 グラーヴ卿の声ではなかった。柔らかく、優しげでいて、粘り着くように甘いその声は、しかし【月】の声に違いなかった。ただし先ほどまでのざらついた雑音が消えている。
 ブライトの耳には、聞き馴染んだ声に似て聞こえた。
 彼ははほんの一瞬【月】の本体のある場所に片方の目玉を向けた。
『姿だけでなく声まで真似られると来たか』
 エル・クレール=ノアールをモデルに匠が黒御影で性愛女神《アシュテレト》を彫り上げたなら……そしてそれが数百年の時を経たなら……おそらくこのような裸像ができるであろう物体があった。
『対象物を長く見、詳細に写し込むほどに、本物と虚像の差が縮まる……らしいな』
 【月】にとって不幸であったのは、この一瞬間、彼女が「よそ見」をしていたことだった。
 戦闘の相手を、衛兵や伝令に授けた小さな破片からのぞき見るのではなく、我が目で見、鏡本体、すなわち自分の体の表面に写し込もうとするあまり、彼女は邪恋の相手がこちらを見てくれたことに気付かなかった。
 ニセモノの横顔に浮かぶような恍惚の色が本物のエル・クレールの顔に広がった所を、少なくともブライトは見たことがない。それでも彼女がその表情を浮かべたとしたなら、それはこの石像もどきと同じ顔になるに違いなかった。
 本物が行っているところを直接映さずとも、本物と同様のことができる、ということらしい。
『この分だと、おそらく「能力」まで写し盗りやがるな。やれやれ、厄介な鏡の化け物め』
 ブライトの目玉はすぐに元の位置に戻った。
 直後、彼の眉間には深い縦皺が刻


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