泥酔者の千鳥足に似た足取りが、後退から前進に転じた。
【月】は上半身を倒れたエル・クレールのそれに重ねるように身を投げ出した。額の半球をエル・クレールの額に打ち付けようとしている。
半球は【月】のアームだ。死した人間の魂の結晶だ。ヨハネス、いや、ヨハンナ=グラーヴの怨念だ。
生きた人間の体に取り憑けば、生まれ変われると信じる、死人の執念だ。
無機質な黒い顔が、エル・クレールに迫った。赤い半球が彼女の額に重ねられようとした。
耳障りな音がした。
重い物が地面に倒れ込んで壊れる音だ。
エル・クレールは音のした方へ顔を向けた。
イーヴァンもそちらを向いた。
椅子の残骸が散乱する空間に、男が立っていた。赤い剣を両手に一振ずつ持っている。一振は肩に担うように、もう一振は切っ先が足下を指していた。
赤い剣が指し示す先の古びた敷物の上には、女の下半身の形をした石像が転がっていた。
「さっき言ったろう? 一匹相手に二人掛かりは不平等だってな。こっちも片一方が怪我人になった訳だから、腰抜けでも員数合わせになろうってもンだ」
ブライト=ソードマンは釣り上げた唇の端から尖った犬歯を覗かせた。
「あ」
イーヴァンの顔が一層蒼白になった。彼はしがみつくようにして押さえていたエル・クレールの腕を放した。立ち上がろうとするも、膝が立たない。
もし彼が立ち上がれたところで、時間も力量も間に合いはしなかったろう。
ブライトは赤い幅広の刀の切っ先を、石像の臍下へ突き立てた。
エル・クレールに覆い被さっていた【月】が、弾かれたように人の背丈ほども飛び上がった。そのまま墜落した上半身は、悲鳴を上げてのたうち回った。音に表せず、文字にできない、不気味で恐ろしく、哀しい悲鳴だった。
彼女の二つに分かれた体は、おのおの、小刻みにそして不自然に振動した。
初めは筋肉の痙攣のようだった。ビクビクと伸び縮みするだけで、倒れ込んだその場から動くことはなかった。
だが振幅は次第に大きくなった。
下半身は両足をてんでに動かして暴れまわった。上半身も肩と言わず首と言わず、総ての関節がバラバラの方向を向いて、激しく振り回された。
さながら、操り手を失った傀儡《くぐつ》人形のさまだった。
やがて下半身は収縮を始めた。暴れは根回りながら縮み、縮みながら人の脚の形を失ってゆく。
上半身も同様だった。縮んでゆく体から、他人から奪った腕が落ち、目玉が落ち、頭蓋が落ちた。
だが、額の赤い半球は、まだ赤々と禍々しい光を発している。
「誰も彼も、皆アタシの邪魔をする。アタシが、醜いから。醜いアタシが嫌いだから……。そうでしょう? 美しければ、皆アタシを愛してくれる……」
自由の利かない体を揺すり、彼女は未だ倒れたままのエル・クレールに襲いかかった。
「その顔を、お寄越し!」
エル・クレールは何も言わず、左手を前に差し出した。
握っていた【正義】のアームが見る間に光を失い、消えた。
アームの意志ではない。【月】による妨害でもない。エル・クレール自身の意思で矛を収めたのだ。
「あなたは……あなたの心は、あなたが愛した人を討ったとき、もう死んでいた。それは多分、【月】のアームに魅入られるずっと以前。あなたは『鬼《オーガ》』に堕ちる以前に、もうこの世の人ではなかった」
「小娘が、利いた風な口を!」
【月】は噛み付かんばかりに叫んだ。だがヨハンナ=グラーヴの体はぴたりと動くことを止めていた。
磨かれていない鏡のような彼女の顔に、ボンヤリとした人影が映り込んでいた。
目の