いにしえの【世界】 − 現世《うつしよ》 【16】

前にいるのはエル・クレールだ。彼女以外の誰の姿も映るはずがない。
 しかし、ヨハンナ=グラーヴには違うように思えた。
 昔の自分、古い知己、忘れたい人、思い出せぬ顔、知らぬ他人。
 全く別の誰かが、自分を見つめている気がした。
「お前の顔を寄越せ。お前の……顔を、わたしの顔を……」
 【月】の叫びは、小さく弱くなり、そして消えた。
「汝の今あるべき所へ戻れ。汝の今いるべき世界へ還れ」
 呪文のように呟くと、エル・クレールは【月】の、いやヨハンナ=グラーヴの頬にそっと触れた。掌が熱を帯びているのを、彼女もヨハンナも感じた。
 【月】の……いや、ヨハネスと呼ばれ自身もそう称していたヨハンナ=グラーヴの顔の凹凸が、風雨にさらされた石像のように、薄く滑らかに減り始めた。
 尖った顔立ちが、次第に丸く穏やかなものに変じていった。
「ヨハンナ様っ! ヨハンナ様っ!」
 ようやく身を起こしたイーヴァンは、目鼻も判らなくなった石の柱に抱きついた。
「僕を見限らないでください。置いてゆかないでください。独りにしないで下さい。お願いです、お願いです」
 狂乱し、泣き叫ぶ。
 石の柱は細く短く姿を変容させていった。
 イーヴァンの膝が折れた。地面にしゃがみ込む彼の腕の中から、赤く硬い半球の塊がするりと落ちた。
 半球は埃だらけの敷物の上を滑るように転がった。
 追おうとしたイーヴァンだったが、今の彼にその余力はなかった。体は一寸も動かない。彼は目玉をどうにか動かして、ようやく赤い石くれの動きを追いかけた。
 半球はイーヴァンから遠く離れてゆこうという意思を持っているかのように転がったすえ、彼が動けないことに気付いたかのようにぴたりと停まった。
「ああ、あんなに遠くへ……。ヨハンナ様はとうとう僕を見限られた……」
 若者は顔から倒れこんだ。腕にも背骨にも自身の体を支えかばう力が残っていなかった。
「そうでは、ないと思います」
 エル・クレール=ノアールが小さく言った。
 すっかり気力を失っていたイーヴァンは顔を上げることもできず、かすかな声が振ってくるのを待った。
「あの方は……君に力がないから離れた。君の心があまりに弱いから……」
 事実だ。反論ができない。イーヴァンは瞼をきつく閉じた。眼球の上に満ちていた熱い液体が押し出され、溢れた。
「だから……君のご主君が君から離れたのは、君が死人に魅入られて、鬼《オーガ》に……人でない物に……堕ちて仕舞わぬように願ったからです……。君に自分の二の舞を演じて欲しくなかった……」
「僕は、それでも構わない。苦しくてもあの人と一つになれるなら」
 イーヴァンは両腕に力を込めてどうにか身を起こし、顔を上げた。
 暗がりの中に線の細い若者が立っている。
 肩で息をしていた。だが鋭い目をイーヴァンに向けている。
「あの方に……また大切な人を殺させるのですか……」
 エル・クレールの声は徐々に弱々しく、最後は聞き取れぬほどに細くなり、消えた。
 語尾とほとんど同時に、彼女の体は大きく揺れ、後ろへ倒れた。
 倒れ込む方向には、ブライト=ソードマンの広い胸があった。


[1]
2015/02/16update

[4]BACK [0]INDEX [5]NEXT
[6]WEB拍手
[#]TOP
まろやか連載小説 1.41
Copyright Shinkouj Kawori(Gin_oh Megumi)/OhimesamaClub/ All Rights Reserved
このサイト内の文章と画像を許可無く複製・再配布することは、著作権法で禁じられています。