小懸 ―真田源三郎の休日―【本編】 − 【5】

慶次郎殿が手ずから私の盃へ瓢の酒をお注ぎになりました。
 なみなみと注がれた酒の量と云ったら、徳利一つ分もありそうに見えました。
 私は盃を両手に戴き、大きく息を吐き出しますと、一息に酒を胃の腑へ流し込みました。
 腹の奥から湧き上がった酒精の臭気が、鼻を突き抜けて、脳天を揺さぶりました。
「私などには、まだ酒の味の違いは良く判りませんので」
 それでも何とか空にした盃を、慶次郎殿に差し出しました。
 慶次郎殿がそれを片手で受け取られたので、今度は私が瓢を取って、酒を注ぎました。
 不調法に酌をする私の手元を見て、慶次郎殿が、
「儂はお主があまりに面白い男であるから、すっかり大人だと思いこんでおったが、そう云えばまだ子供のような年であったな」
 と仰ったのを聞いて、私は無性に己が恥ずかしく、口惜しく、悲しくなりました。
 その上、私が両手でようやっと捧げていた大盃を慶次郎殿は片手で煽り、あっと言う間に干されてしまわれたとなっては、益々自分が情けなく思えてなりませんでした。
 慶次郎殿は今一度私に空の盃を差し出されました。私が受ければ、また酒をなみなみと注ぎます。注がれれば呑まねばなりません。
 今度は一息に、とは参りませんでした。何度か息を吐きながら、少しずつ胃の腑に酒を落とし込みました。
 その必死の最中に、慶次郎殿が、
「お主も、お主の親父殿も、大変だな」
 ぽつりと呟くように仰いました。
 あと一口の酒が、傾げた盃に残っておりました。私は盃の縁を噛んで、
「この世に大変でない人間などおりましょうか?」
 言いながら息を出し尽くし、その勢いで最後の一滴をすすり込んだのです。
 その直後、私の目の前から空の杯が消えました。顔を上げますと、慶次郎殿がそれを持っておられました。私が慌てて瓢を取ろうとしますと、慶次郎殿は首を横にして、
「ああ、そうだな」
 と微笑なさりながら、ご自身で酒を注がれたのです。
 慶次郎殿はあっと言う間に盃を白されました。そして今一杯、手酌で酒を注ごうとなさいました。
 この時、私は何を思ったか、そのお手から盃を奪うように取ったのです。それから瓢も同様に、少しばかり強引に取りました。
 私は瓢を盃の上で逆さにしました。
 傾けたのではありません。まるきり逆さにしたのです。
 ああいう口の小さな入れ物は、逆さにしたからといって、勢いよく酒が出てくる物ではありません。斜に傾げた方が出がよいように出来ておるのです。
 逆立ちした瓢の口からは、情けなく酒の雫が垂れるばかりです。私は無気になって、瓢を上下に激しく振りました。そうしたところで出が良くなるわけではありません。
 酒は杯へ落ちるのではなく、益々細かい雫となって、あちらこちらへ飛び散ってしまいました。
 勿体ないことです。折角の銘酒を、殆ど厩の土に呑ませてしまいました。ばかばかしいことこの上ありません。
 私はこの時、物の道理という物が判らなくなっておったのです。おそらく、強かに酔っていたに違いありません。
 ところが不思議となことに、前後不覚になった、と云う覚えがありません。酔いつぶれて記憶が失せるようなこともありませんでした。
 今でも時折思い出してしまいます。思い起こす度に、耳の先まで暑く赤くなります。
 出来れば忘れてしまいたいというのに、何故かこの日の出来事は、何年、何十年経った後になりましても、鮮やかに思い起こされるのです。
 ともあれ、情けない私は、酒の雫の出なくなった瓢を放り出しました。莫迦莫迦しい「手酌」の仕方のために、盃の酒は雨後の水溜まりのように、浅く


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