小懸 ―真田源三郎の休日―【本編】 − 【8】

武蔵殿の顔へと移しました。
 鬼は静かに笑っておりました。
「伊予殿は、証人《人質》として預けたお身内を武田四郎めに弑いられたとお聞きするが……?」 
 この言葉に、木曾昌義殿の心胆は凍り付いたことでしょう。
 岩松丸が「証人」にされてしまった。差し出すつもりも、無論差し出したつもりもないのに、すでに「証人」として扱われている。岩松丸の生殺与奪の権を鬼武蔵が握ってしまった――。
 そのことに気が付かぬほど木曾伊予守義昌が……己が一族を守るために妻の実家を「裏切る」ことの出来たほどの男が、鈍物であろう筈がありません。
 義昌殿は震えました。薄闇の中だというのに、傍から見た者がはっきりと気付くほどであったそうです。
「母上……於岩……千太郎……ッ!」
 歯の根の合わぬ口から、漸くその名を絞り出したかと思うと、直後、義昌殿は裏返った声で、叫んだのです。
「岩松丸が目出度い門出だ。酒を持て、肴を持て。さあ、誰ぞ踊れ、謡え!」
 夜を徹しての宴会が開かれました。
 死に物狂いの酒宴です。
 木曾勢にとっては、まさしく宴という名の戦でありました。それも、勝ちのないことが決まっている戦です。
 兵糧蔵が開けられ、食料と酒とが運び出されると、森殿配下の方々は牛飲馬食されました。それこそ、城内の蓄えを総て腹の中に流し込み、落とし込む勢いであったそうです。
 それでいて、その方々が心底楽しんでいるようには見えなかった、というのです。
 森長可殿は終始にこやかに笑っておられたのですが、配下の方々、ことに兵卒足軽の者共は、ただ飯を喰い、ただ酒を呑むばかりで、さながら餓鬼のようでありました。
 眼前の食物ばかりを睨み付けている者達の前に立ち、木曾殿配下の方々は、震えながら唄い、泣きながら舞いました。
 観ていたのは、森殿と、そのご近習が数名ばかりでした。
 ことに森武蔵殿は大層楽しんで居られるように見受けられました。手を打って、
「流石に旭将軍義仲公が嫡流のお家柄だけのことぞある。ご家中皆々芸達者であられることよ」
 褒められれば、返礼しないわけには参りません。義昌殿が奥歯を噛みつつ、
「お褒めに与り……」
 漸く形ばかりの返礼をしました。しかしその言葉尻も消えぬ間に、森武蔵殿は、
「しかし折角の舞い踊りも、こう暗くてはよう見えませぬな」
 何が「暗い」だ。今は真夜中だ。明るいはずが無いではないか。
 義昌殿は胸の奥底ではそのように思われたことでしょう。あるいはそれを思うほどの余裕は無かったかも知れませんが、あったとしても、それを口にするわけにはゆきません。
「……では明かりを増やしましょう」
 暗いのならば、灯明、燭台の類の数を増せば良い、というのが、常人の考えです。義昌殿は家人を呼び、城内の別の部屋にある灯明をこの場に集めさせようと考えられました。
 ところが、森長可という仁は流石に「鬼武蔵」であります。そのお考えは常ならぬものでありました。
「床に炉を開けて焚火をしましょうぞ。さすれば部屋は明るくなり、また酒を温め、米を炊き、魚も肉も焼くことが出来ますぞ」
 木曾のご家中の方が呼ばれるよりも早く、森の近従の方々が立ち上がりました。木曾方が何かを言うよりも早く、森方は動きました。
 床板を割り、剥ぎ取り――無論、床に張られた木材が、簡単に割れるものであったり、剥がれるものであったりするはずが有り得ませんから、造作もなくそれを行ったと云うことが、如何に「恐ろしい」ことであるのか知れるでしょう――見る間に「囲炉裏」のような大穴が開いたかと思えば、剥ぎ取られ割られた床板が炉


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まろやか連載小説 1.41
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