のこり香 − 【1】

を、訪れた場所を、数え切ることは、そう簡単なことではなかろう。
 I氏は決して食通とは言えぬが、食道楽ではあった。
 値の高低には頓着がない。和、洋、中の別はもとより、飯でも蕎麦でも菓子でも酒でも、旨いと聞けば、躊躇なく口にした。珍しいと聞けば、予定を変更して脚を伸ばしもした。
 そういった訳であるから、街のちょっとした食物屋には、大抵はI氏の痕跡が残されている。
 壁にはサインの類が、飾られて久しく、黄色く変色している。書棚には手摺れのした単行本や文庫が、ぞろぞろと並べられてあった。
 M氏からすれば、そんな物は、
「見るも嫌だ」
 で、ある。
「そうさ、あの時だって、締め切りのことなど考えもせず、蕎麦を手繰りに来ようという迷惑な道程で、輪をかけて迷惑千万なことをしでかしたのだ。いや、そうに違いない。畜生、あのことの元となったような店などに、金輪際近づくものか」
 そういう理屈をこねつけて、自然とそれらのある小店には、たとえ昔馴染んだ、味の好みの合う店であっても、顔を出さなくなった。
 かくて、今では、街のどこの飯屋にも行けなくなっている。
 そうやって、努めてI氏の痕跡や「匂い」じみたものから遠ざかろう、距離を置こうとしているM氏ではあるが、それでも、ただ一つ、遠ざけがたいものがあった。
 それは、今まさに、M氏の目の前にいる。
 誰あろうか、細君その人であった。

 細君は、押し掛け女房である。
 M氏の父親が、急な病に倒れた折りに、大振りのトートバッグに数日分の着替えと、十冊余の文庫本だけを詰めて、ほとんど無理矢理に、この家へ上がり込んだ。
 ちなみに言えば、M氏の母親という人は、M氏が若い頃……特急列車での件と前後して……亡くなっていた。
 もともと、二人は幼なじみの間柄であって、年齢は大分に離れていたが、そのために、細君はM氏を、
「兄様」
 などと呼んでいて、今でもたまさかに、その呼び名が口をついて出ることがある。
 M氏と細君は、二人で父親を介護し、看取り、送り、そしてそのまま細君が、
「居着いて……」
 しまった。
 だから祝言じみたものは挙げていない。
 葬式と四十九日の法要が済んでから、茶色い紙切れに各々名前を書き、判をついて、役場へ提出した。
 ただそれだけだったが、それでも大切な記念の夜に、M氏は細君の顔をまじまじと見て、
「いいか、俺はIが嫌いなんだ」
 と言ったのが、初めてだった。
 細君の持ち込んだ僅かな「私物」のうちの、半分ほどは、I氏の著作であった。
 以来、細君はその数冊を、自分用にあてがわれた古ダンスの、あまり開け閉てのない引き出しの奥深くに、しまい込んでいる。
 これを捨ててしまうことは、出来なかった。

「いいか、俺はIが大嫌いなんだ」
 M氏は鼻の穴から煙を吹き出した。今日だけで同じことを十遍は言っている。
 リトルシガーの箱も、もう二つばかり空になっていた。
 M氏は煙草の空箱を乱暴に放って、ちらりと食卓の脇を見やった。
 立派な水引と、のし紙の付いた一升瓶が、桜色の風呂敷に包まれている。
 これを、届けねばならぬ。
 役人を辞め、亡父の小商いを嗣ぐことになったM氏が、迷惑をかけ、世話を受けた大恩人の所へ、行かねばならぬ。
 その人も、役人であった。
 現場主義の人で、出世は最初からあきらめていた風であった。
 それでも永年勤続だということもあったものか、定年を少しばかり前にして、栄転が決まった。
 この街で一番新しい、公営の観光施設の館長職である。
 I氏が急逝した後に、その遺品のいくつかの寄付を


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