のこり香 − 【1】

顔を見た。
 十年も昔になるだろうか。初めてこの話をされた時に、細君は、
「本当にI先生だったんですか?」
 と尋ねた。
 M氏は不機嫌に、
「他にそんな物書き紛いがいるかよ」
 と吐き捨てるように言ったものだ。
 Iというのは、それよりも更に十年以上も昔、つまりは二十数年前にこの世を去った、小説家であった。
 大変な流行作家であり、直木賞やら菊池寛賞やらを頂戴し、紫綬褒章まで賜っている。
 この先生、お江戸の生まれであるのだが、何故かM氏の故郷での人気が大変に高い。
 それというのも、土地を舞台にした作品が、テレビの連続ドラマとなったからであろう。
 件のドラマは、今でも時折、CS放送のチャンネルで放映されるものだから、I氏の死後に生まれたような若者でも、知っている者が多い。
 特に、土地のケーブルテレビなどは、盆暮れや、米や秋蕎麦の収穫が済んで、農家が一息を吐く頃になると、必ずこの作品の再放送をやるから、老若男女、知らぬ者はいないに違いあるまい。
 実に、そういった再放送が、大変に良い視聴率を出すそうな。
 つまりは、掛け小屋で言うところの忠臣蔵のような、独参湯の役をなさしめているのであろう。
「聖地巡礼」
 などという言葉が流行りになったのは、つい最近のことのようだが、その言葉に、そういった意味が与えられる以前から、読み物や芝居の舞台を、
「訪れたい……」
 という、熱心な読者や観客は、少なからずいた。
 半世紀前までは、崩れかけた古城しかない、寂しい山奥の田舎であったこの街が、大変な観光名所になったのは、まさしくそのような熱心な読者の御陰であり、作品とそれを生み出したI氏よりの賜物なのであった。
 こうなると、街も予算を付ける。
 古城は修復され、小説とドラマを題材にしたまつりが始まり、観光会館が建ち、博物館は収蔵品が増やされた。
 金を掛けたところに人が訪れ、掛けた以上の金を落として行く。
 こうなると、街は、I氏を恩人のように扱うようになる。
 そうなれば、I氏自身もこれを捨て置くことが出来なくなる。
 公的に呼ばれて来ることもあったが、私的に訪れることもしばしばであった。いや、その方が多いかも知れぬ。
 どちらにせよ、I氏は何度もお江戸とこの田舎町とを往復していることになる訳であるから、あの時、M氏と同じ特急に乗り合わせたとしても、
「何も可笑しくはない」
 のであった。
「あれも、そうやってタダ飯を喰った上に、講演料とかいう小銭をせしめようという道すがらだったに違いない」
 M氏はそう信じて疑わぬ。
「他に、こんな田舎止まりの、椅子の硬い、おんぼろ特急に乗るような、物好きな、俺の知らない有名な物書きセンセイがいる訳がない」
 これがM氏の言い分である。
 細君は苦笑した。

 これほどにI氏を嫌う夫を持つ細君が、それでも彼の人のことを「I先生」と呼ぶのは、土地の者がみな、そのように、必ず尊称付きで呼ぶがゆえであった。
 つまりはそれほどのほどの人気者であったのだ。よって、「嫌いだ」などと言いでもしたものなら、どのような目に遭うことか。
「俺も、いい年齢だ。そこまで馬鹿じゃぁない」
 一度火を圧し消した、八割ほども燃え残っているリトルシガーを、吸い殻の山から引っ張り出して、M氏は再び火を点けた。
「あいつの名前が出そうな所へは、近づかないようにしている」
 その名を聞いたなら、嫌いだと言いたくなる。いや、もとより、名など聞きたくもない。
 しかしI氏は頻繁に訪れていたのだ。二十数年前に突然この世を去るまで、I氏がこの田舎を訪れた回数


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