失樂園物語:新潮社版


底本:世界文學全集(5),新潮社,昭和四年十二月十五日印刷,昭和四年十二月廿五日發行。


失樂園物語

繁野天來 (1874-1933) 述

目次


(一)大謀叛

太古、日月がまだ形を成さなかつた頃に、造化の大神《おほかみ》俄かに思し立たれた一大事があつて、 八百萬の天使逹をば天津高御座《あまつたかみくら》の御前に呼び集められた。 召に應じて、或は百、或は千、或は萬、隊を組み、列を整へ、色さま〜゛の旗押し立てゝ、天馬の嘶《いなゝき》いさましく、 雲のごとく、星のごとくに群つて來た。やがて、仰ぐ目ばゆい光明の裡《うち》から尊い御聲が聞えると、 一同威儀を正して拜聽した。大御言《おほみこと》はかうであつた。

「朕《われ》、此度、一子を設けて、諸神の首位に置き、天國の政《まつりごと》を攝《たす》けしめる。 その命に背く者は、朕《わ》が命に背く者と同じく、天罰立ちどころに下つて、暗黒な底知らぬ奈落に墜ちるであらう。」

一同天意をかしこみ、今日の佳い日を祝ふ爲めに、妙なる樂の調《しらべ》に連れて、羽衣輕く舞ひ、歌ひ、 仙桃に飽き、靈酒に醉つて、歡聲笑語は天空を撼《ゆる》がした。

八百萬の天使逹、いづれ神ならぬはないが、こゝに神の中の神として、大神のおぼえ優れてめでたく、 神通自在なる七天使の隨一に數へられて、權勢、至尊にも劣らなかつた大天使、後の名を神敵《セータン》といふのがあつた。 かねて神寵の比《たぐ》ひなきを恃《たの》み、自尊の羽袖を擴げて、心も空に思ひあがつてゐる折柄、 想ひも寄らぬ此度の大御言《おほみこと》を聞いて、窃かに不快の念を抱き、日の暮れ、夜の更けるのを待つて、 部下の重鎭たるビヱルゼバブに向つて言つた、

「眠つてゐるのか、友よ、眠られはすまい。君の心はいつも自分の心と通つてゐるのだ。だから、今、 君の夢は自分の夢と相通ずる所があるに相違ない。此度新に下つた嚴命は我々を促して新に覺悟する所あらしめる。 此處で彼此いふのは都合が惡い。片時も早く部下に命じて、夜の暗雲の消えないうちに、我々の領地へと急がせることにしよう。」

かう言つて、ビヱルゼバブの胸に惡氣を吹込むと、彼忽ちその氣に感じ、直に部下の重だつた諸神を招いて、 巧みに毒舌を弄し、大野心の氣も見せないで、首尾よく彼等を欺き、 かの權勢、至尊にも劣らない大天使の御心のまゝに進退することを誓はせる。 セータンが非望は既に半ば成つた。八百萬と號する天使の群れの三分の一は、 百川の朝日の登る方に向つて奔《はし》るがごとく、大天使の旗の下に集り、天上界のかぐはしい夜風に羽音を忍ばせて、 明方の空に聲もなく失せてゆく銀河の如く、北の方、セータンが領地の、青雲の低く伏す果《はて》に消え去つた。

北方にあるセータンが宮所《みやどころ》は、小高い山の頂きにあつて、黄金《こがね》、白金、夜光る玉を以て疉みあげた大堂塔、 山の上にある山のやうに聳え立つてゐた。この雄壯なる宮所の高座《たかくら》に登り、 夕雲のやうな羽袖を振つて、今しも彼は諸神に向つて見るも恐ろしい僞長廣舌《えせちやうくわうぜつ》を吐いた。

「諸神、諸神のなほ諸神の實があるなら、諸神と呼ぶのもよからうが、諸神の實權は此度新に寶冠を戴いた者の爲めに奪はれ、 諸神の名聲はその爲めにひどく傷つけられた。彼が戴冠披露の爲め鳳輦《ほうれん》を廻《めぐ》らしてこの地に來るのも遠くはない。 我々が夜の黒雲を蹈んで飛ぶ鳥のごとくこの地に急いで歸つたのは、神敕?默《もだ》しがたく、 その光榮ある珍客を待ち受けて、膝を折り、腰を屈《かゞ》め、我々の力にも餘る饗應《もてなし》に心を碎いて、 彼が歡心を買はむが爲めである。膝を折り、腰を屈めるのは、最早我々はその煩はしさに堪へない。 あゝ、我々を救つて、この首枷を脱がせるものはないか?淺間しいこの首枷に頸をまかせて、喜んで膝を折り腰を屈めるのは、 諸神の忍び得ないことであらう。諸神は皆神通自在なる鬼神であつて、勢こそ少しは弱く、 光こそ聊か薄くはあるが、その自由自在なる點に於ては、かの光榮ある輩に露ほども劣る所はない。 且、本來自由を有する者に向つては、法度も律令も無用である。 何者の僭上ぞ、同輩の身を以て同輩の頭上に法令の雨を降らさうといふのは!」

嵐に荒れる烈火のやうなこの大膽不敵の論弁に氣を奪はれて、一同?屏息《へいそく》の體《てい》であつたが、 かねて道念磐石のやうな好天使、その名はアブディエルといふのが、單身猛然として反對の氣焔を揚げた。

「これはまた何といふ不敬だらう!大君のおぼえ優れてめでたい汝の口から、かういふ不敬の言葉を聞かうとは想はなかつた。 大御言《おほみこと》によつて御位に即《つ》かせられた我君に向つて、膝を折り腰を屈めるのを恥辱《はぢ》と心得ものはあるまい。 我々には自由の天權があるから、同輩の法令に驅使せられる理由《いはれ》はないと、汝は言つた。 想ふに、八百萬の神々に命を與へ、さういふ汝が唇をも造らせ給ふた造化の大神と張り合つて、 自由とやらを爭ふ所存なのであらう。然し、經驗の教へる所によると、我が大神の惠《めぐみ》の深さは、 底知れぬ海のやうで、常に我々を幸福にしようとばかり考へて居られる。よし、同輩の法令に驅使せられる理由はなくても、 同輩でない大君の法令を守るのに、何の不思議があらう。新に御位に即《つ》かせられた我が君は、 諸相圓滿、八百萬の神々の力を汝の一身に萃《あつ》める日があらうとも、 それでも汝を倒すのに手間暇はかゝらないといふことを思つてみるがよい。 さういふ大威力に對《むか》つて毒矢を放つのは、無謀もまた甚だしいと言はなければならない。 不敬の言葉を吐いた舌の根を噛んで、疾く疾く悔い改めよ、この大外道奴!」

多數に傚《なら》はず、先例を問はず、守るべき操を固く守つて、恐れず、迷はず、單身正道を説いて一歩も曲げない、 その勇、その膽、その氣魄、さながら天空を呑吐する概がある。けれども、好天使の熱誠は徒に滿座の嘲笑を招き、 大外道の侫弁《ねいべん》は意外にも衆心を動かして、喝采の聲?巨浪《おほなみ》の湧くがごとく、 大勢が既に定まつたと見えたので、微塵の不淨もゆるさぬ好天使は、雪のやうな純白な羽袖を振ひながら、 飄々と、雲を蹴つて魔宮を去つた。

天津高御座《あまつたかみくら》の御前には七基の無盡燈があつて、その光、明月よりもさやかに、 遍《あまね》く十方を照らしてゐる。齡《よはひ》を問へば白髮三千丈にも餘るべき造化の大神、朦朧たる老眼を半ば眠つて、 九重の雲霧深い奧の奧に埀れこめおはすといふのは他目《よそめ》で、 奈落の果《はて》の果に音なく落ちる朽葉《くちは》の影までも、 手に取る如く見透し給ふといふことだ。セータンが此度の企圖《くはだて》は、 天象《てんしやう》にも異變を起さうとする天上界未曾有の大事なので、 大神早くもその成行を未然に案じて、急いで出師《すゐし》の令を神軍の諸隊に傳へさせた。 それで、好天使アブディエルが凶報を齎らして天都に歸參した頃には、 野に山に充ち滿ちてゐる旗指物《はたさしもの》は森のごとく、林のごとく、神軍幾百萬、明智の大天使マイケルを大將軍とし、 勇武の大天使ゲーブリエルを副將軍として、隊伍肅々、進軍の令下るのを待つてゐた。 この勇しい、頼母しい有樣を見て、獨り心の中で大神の先見の明をたゝへながら、 闕下《けつか》に伏して、魔宮で起つたことども、落ちなく聞えあげると、御氣色殊の外麗しく、 ありがたい賞美の大御言《おほみこと》があつて、光榮《はえ》ある遠征軍の大將に任ぜられた。 誠に好天使の此度の勳功《いさを》は、孤劍衆魔を征服したのにも優り、全軍?擧《こぞ》つてその徳を仰ぎつゝ、 門出よい戰《いくさ》の場《には》に向つて、塒《ねぐら》に急ぐ夕べの鶴の數知られぬ群のやうに、 羽音を競つて天翔つて行つた。

(二)激戰

セータンが率ゐる不敵の魔軍は、不意に神の都を襲つて、驚き慌てる宮人の群を蹴散らし、一擧に王座を覆さうと、 天馬に鞭つて長驅、神領に迫らうとする。然るに、進軍まだ幾程もないのに、思ひもかけぬ彼方の川岸、 此方の山の岨《そば》に早や神軍が待ち構へてゐて、一時に鬨の聲を揚げたので、 さしも逸りに逸つた衆魔軍も案に相違の面持で、しばし呆れて佇んだのである。斯くと見て取り、 神軍の先頭に立つたアブディエルが一隊、矢叫び高く押寄せると、此方も烈しく矢聲を合はした。 天上界未曾有の大活劇は、こゝにその血醒《ちなまぐさ》い序幕を開いたのである。

大外道のこの日の扮裝《いでたち》は、夜光の玉で作つた無敵の鎧に身を固め、不動の利劍を右手に握り、 金色《こんじき》の楯を夕日のごとく左手にかざしつゝ、大威力の御輦《みくるま》に擬した大四輪車に打乘り、 威風堂々、山のごとくにゆるぎ出でた。短氣一轍のアブディエル、遙かに彼の姿を認めて、疾風のごとくに驅け來り、 彼が不遜を詰ると見せて、突然眞甲目がけて切りつける、電光石火の鉾先を避ける暇もなく、 深手を負つて脆くも高慢の角を挫《ひし》がれた大外道、またも山のごとく崩れ退いた。 神軍これに氣を得て、百千の瀧より激しく落しかゝれば、此方も逆卷く海嘯《つなみ》の勢おそろしく、 寄せてはかへす大動亂!火の矢の暴風雨《あらし》の荒れる中に、劍の光、鎧のひゞき、矛裂け、楯破れ、 兵車《ひやうしや》の碎け飛ぶ音、矢聲、矢叫び、鬨の聲に、天空?撼《ゆら》いで天柱折れ、 地獄震へて地維も碎けるかとばかり。恥辱《はぢ》を知るといふ下界の武夫《ものゝふ》に譬へるのも烏滸《をこ》ながら、 一騎一隊にも敵すべき神魔兩軍幾?千萬《ちよろず》の神々が、義を天津高山《あまつたかやま》の重きに比し、 命を羽衣の輕きに寄せて、傍目も振らぬ奮撃突戰に、あはや極樂の名もなつかしい天國も、未來永劫、 修羅の巷となり果てようとした。

眞先に敵に背後《うしろ》を見せたのは不覺であつたが、その不覺の爲めに勵まされて、 眞甲に受けた重傷《おもで》を物ともせずに、大魔王の形相物凄く、不動の利劍を揮つて、千軍萬軍を叱咤しつゝ、 縱横無盡に神兵隊を蹂躙しゆくセータン、好い敵はゐないかと見廻はす彼方に、珍らしや大將軍、 智ありといはれる大天使マイケルが、恩賜の神刀を振りかざして不思議のはたらき、小賢しい彼の目に美しい物見せてやらうと、 虚空を鳴らして挑みかゝれば、願ふてもない好い敵と、彼方も微笑を洩らしながら、大地を搖つて寄せ來る。 今こそ神魔の差別があるが、昔は共に大天使、いづれ劣らぬ神力の底測りがたく、例へば星の世界に變災があつて、 二大遊星の衝突でもした時のやうに、どんなおそろしい大激動の餘波が來るかと、兩軍遠く彼方此方に軍を開き、 呼吸《いき》を殺して見物する。忽ち電光一撃、神刀閃き、魔劍二つに折れて虚空に聲があつた。 あはやと思ふ間もなく、二の太刀閃いて、颯と立つ血煙は、セータンの右脇から火を噴くやうであつた。 大王の生死、味方の運命、マイケルが三の太刀の一閃によつて決すべく見えたので、 前後から鬨を作つて群り寄する魔軍の援兵、一手は神兵と入り亂れ、不退轉の勇を鼓して、 こゝを先途と防ぎ戰ひ、一手は二度の深手に惱むセータンを助けて、遠く陣後に引き下つた。

傲慢不遜、大威力をも物ともしないセータン、戰へば必ず勝つとばかり思つてゐたのが、 日頃眼下に見馴れたマイケルやケーブリエルの輩に、どんな神明の冥助があるにしても、 こんなに見苦しく打懲らされようとは想ひも寄らなかつたのに、存外の不覺!意外の大敗北! 我が威信の墜ちるのも口惜しいが、何より氣遣はしいのは味方の軍氣、こゝ我が命の瀬戸際と、奮起一躍、 夜深き闇に乘じて敗兵を驅り集め、捲土重來の謀議を凝らした。

こゝに不思議なのは、セータンにせよ、モーロックにせよ、致死の大打撃を受けながら、 その刹那の間こそ血が出たり痛みも感じたが、やがてその傷拭ふがごとく癒えて、 竒怪の夢の名殘なく覺めたやうな心地!さては、劍も、太刀も、矢も、その他天國にありとあらゆる兵噐一切、 その害を受けた神々に刹那の苦しみを與へるに過ぎないらしい。斯くては、幾度破れても恐るゝに足らなかつたのではなく、 全く武噐の鈍かつた爲めだから、今一層精鋭にして、かのマイケルが神刀にも優るほどの利噐を案出しなくては、 最期の勝利を得るのは覺束ない。あゝ、誰がさやうな靈妙不思議の利噐を案出し得るであらうか?

奸智に長けたセータン、遂に一妙案を得た。それは轍で造つた、長い、太い筒のやうなものに大きな彈丸《たま》を込め、 地下から掘り取つた不思議な粉をしかけ置き、これに火を點《つ》けて、轟然爆發せしめる趣向で、 この猛烈無雙の兇噐はマイケルの神刀をも碎くべく、又造化の大神が唯一の武噐たる神雷をも挫《ひし》ぐに足るであらう。 さう聞いた魔衆の喜びは、奈落の底に沈んでゐて大慈大悲の御光を仰ぎ見でもした時のやうであつた。 一同躍り勇みつゝ大王の指揮の下にいそしみ働いて、一夜の中に造り出した飛道具の數は數へ切れぬほどであつた。

總敗軍の辛い目を見た魔軍にさうした深い計画《たくらみ》のあらうとも知らない神軍の斥候《ものみ》の一手は、 明くる朝の光のほのめく小山に登つて、敵は何處に逃げ延びて、何處に宿つてゐるだらうと、遠く彼方を見渡すと、 思ひもかけない此方の廣野を蔽ふ旗指物、朝露踏みしだく歩みも堂々と、魚鱗の陣形正しく、騷がず、迫らず、 決死を示して押寄する體《てい》、侮りがたく見えたので、神速無比の飛天使ゾーフェイルをして急を本營に傳へしめた。 勝つて冑の緒を緊《し》めてゐた神々、心得たと得物々々をおつ取つて、速くもつくる鶴翼の陣形、 群る魔兵を一包につゝみ撃たうと、羽袖を擴げてかけ向つた。兩軍間近になつた頃、魔軍の魚鱗俄かに散りはじめて、 忽ち左右に開く大鶴翼のあはひから、青龍の横はり伏すとも見える大圓柱の一列現はれいでゝ、 一齊に吐く黒烟と共に億萬の神雷の一時にはためくよりも凄じく、轟々爆々、隕石のやうな巨丸の數は、 雨霰と落ちて來る。義を天津高山の重きに比して磐石のごとくに踏み固めた神兵の足なみも、 この意外の大打撃にたじろいで、倒れては立ち、立ちては倒れ、小天使、大天使の差別なく、隊又隊、 將棊倒《しやうぎだぶし》となつて、昨日の魔軍よりも他目《よそめ》更に苦しい大敗北に了らうと見えた。 實にこの猛烈無雙の兇噐はマイケルが神刀を碎き得たので、この上はかの神雷をも挫《ひし》いで、 一擧に玉座を覆へさうと、勝に乘つた不敵の魔兵、倒れる神兵を踏み越へ〜、何處までもと突進した。

神兵には神力がある。危い場合には、文字通りに、拔山の勇を現はすことが出來る。見よ、倒れたのは起ち、 起つたのは飛び立つて、彼方の峰に急ぎ、此方の麓に翔けゆき、掛聲勇しく力を合せて、森、谿《たに》、巖《いはほ》、 風にうそぶく樹々をそのまゝに拔き取る山々を、盾のやうに肩に乘せて、敵前近くゆるぎ寄り、 力足どゞろ〜と踏み鳴らしつゝ、魔砲の青龍微塵になれと投げかけた。竒想天外より落ちるこの礫《つぶて》に、 魔砲も、魔衆も、打たれ、ひしがれ、埋められて、大地震《おほなゐ》に潰された冬の蛇のごとく、 蟇《ひき》のごとく、うめき苦しむ音も立てない。しかし、魔兵にはまた魔力がある。 死物狂ひとなつては、またよく拔山の勇を現はすことが出來る。小賢しい神兵、よい得物を我に教へたと、 此方も劣らず同じ礫を投げかける。山と山との飛びちがひ、裂け、碎け、落ちる音、 大千世界の果《はて》の果まで轟き渡つて、混亂、紛擾、渾沌界の昔もかうあつたらうと疑はれた。

大神遙かにこの樣を御覽になつて、傍《かたはら》に控へてゐる大御子に向ひ、大御言?宣《の》らせられた。

「こんな風では何時《いつ》果てるか分らない。朕《われ》、汝に神雷を授けよう。 行つて、醜類を天外の奈落に沈めるがよい。」

御子は大命を承つて、暫時《しばし》の御暇を賜はり、出陣の扮裝《いでたち》花々しく、 四天使王の護衞してゐる御輦《ぎよれん》に乘り、諸神が歡呼の聲に送られて、颶《つむじ》のうづまくやうに、 飛行の跡に火花を放ちながら、戰場さして急がせられた。

神子、やがて神軍の陣所に着御あつて、先づ喜び勇む神々に叡旨を傳へ、 次に四邊《あたり》に散り亂れた山々に御言をかけて前の姿に復《かへ》らせると、わか〜しい樹々の花、 清らなる溪《たに》の水、さりげなく笑みを含んで、君が出御《いでまし》を迎へる風情! これを遠い衆魔は聞き傳へ、近いのは目にも見て、不可思議の大威力に恐怖《おそれ》をなしつゝ、 嫉ましく、羨しく、勝利の望全く絶えて、落膽の餘り、死物狂となり、手負豬の群のごとく、荒れに荒れて押寄せ來る。 神子?赫《くわつ》として怒り、奮然出でゝ醜類に向へば、四天使王の鵬翼は青空の雲と擴がり、 御輦《ぎよれん》の響は北海の水の一時に覆るかとも疑はれた。右の御手から落ちる萬雷は、鳴りに鳴りはためいて、 矛を挫き、盾を裂き、弓を折り、矢を燒き、冑をくだいて、不敵の衆魔をして、逃げるに途なく、 避けるに蔭なく、魂消え、膽破れて、再び山々の下に埋められる方が却つて勝手がよいと思はせた。 今、この醜類を全滅させるのは、賤が軒端の蚊柱を倒すよりも容易《たやす》いけれども、 彼等をして長く天外の苦界《くがい》に恐ろしい罪業の應報を受けさせようといふ大御心であるから、 しばらく神雷の火口を塞ぎ、野分《のわき》の跡の枯草のやうに這ひ伏してゐる彼等を呼び起して、 猛虎の群羊を追ふよりも烈しく、長驅、御輦《みくるま》を天涯に急がせた。

天の一角には天門がある。扉を開いて見下せば、曠漠無邊の大渾沌界!その奧の奧、底の底こそ、 セータン一味の神敵が永く天罰の苦を嘗め知るべき大奈落である。

(三)奈落

神雷に驅られて奈落の底に沈んだ大天使、並に一味の神々は、火焔地獄の火の荒海に浮んで、九日が間、 埀死の態《さま》で、燒藻のやうに漂つてゐた。さすがに神の中の神であつたセータン、 衆に先立つて我にかへり重たい首《かうべ》を擡《もた》げて、おづ〜四邊《あたり》を見廻はすと、黒い火、 黒い焔、黒い煙の渦に卷かれて、身は正しく、平和なく、安息なく、悲、哀、痛、苦、 あらゆる酸味を集めた絶望の淵の只中にあつた。

「淺間しい、この光景《ありさま》!かつて天津御國の常世《とこよ》の春に、光榮《はえ》ある羽衣を着飾つて、 八百萬の神々の光を奪つた身の、さても〜變り果てたこの姿は何事であらう?今にして知る大威力、 その大神の御前に慴伏《ひれふ》し、前非を悔いて、大慈大悲の眼尻《まなじり》を埀れさせ給へと哀願すべきであらうか? それは、大膽にも高御座《たかみくら》をゆるがした大天使が、どのやうな苦しい夢の夢にも想ひ寄らないことである。 戰に勝たなければ、負けるばかりだ。不拔の意志と、不易の怨念と、不屈不撓の勇氣と、不倶戴天の復讐心さへあるならば、 敗れても、敗れ了つたのではない。膝を折り、腰を屈めるのは、大きな恥辱で、奈落の糞土を甜《な》めるのよりも汚い。 それに、此度の變があつてから、衆天使の五體は斬られても切れず、燒かれても燒けない、 不死の靈質から成つてゐることが分つたではないか。されば、この神體が粉と碎け飛ぶ時が來たら、 かの大敵と和議を講ずることもあらう。彼が善を勸めたら、我は惡を勸めよう。 彼が惡を懲らすなら、我は善を懲らさう。彼の善は我の惡だ。かうして彼を苦しめ、彼を痛めるのも一興だ。 さあ、彼處に見える燒野に上つて、徐《おもむ》ろに再擧を圖ることにしよう。」

不敵の所在に臍を固めて、ふと傍をかへりみれば、我が腹心の兇魔ビエルゼバブが焔の嵐に咽びつゝ、 うめき苦しむ體《てい》であるから、聲を勵まして彼を呼びさまし、決心の程を語り聞かせ、 やおら北海の大魚に似た五體を起すと、火の巨濤《おほなみ》左右に泡立ち退《の》いて、しばらく後にけうとい溪間を殘した。 やがて、夕雲のやうなその羽袖に風を呼びつゝ、彼方の陸に急いで上れば、ビエルゼバブも焔を蹴立てゝ跟《つ》いて來た。

彼方の陸といふのは名ばかりで、何方《どちら》を見ても同じ火の山、火の川、金砂を敷きつめた天上界には比ぶべくもない。

「淺間しい、この光景《ありさま》!これが我が里、これが我が住家《すみか》か?さらばぞよ、天津國。 さあ來いよ、おそろしい火の御國。彼處には不自由の枷があるが、此處には自由の風が吹き競ふ。 心さへ天であつたら、奈落にも厭ふにも及ぶまい。天の奴僕《ぬぼく》であるよりは、奈落の王となる方がよい。 さあ、これから、配下の神々を火の池から起して、徐《おもむ》ろに再擧を圖らう。」

大旗艦の帆柱にする爲めに、霧深いノルウエイの山の奧から伐下《きりおろ》した大木にもまがふ眞矛を杖につき、 火を踏む足元たど〜しく、焔逆卷く岸の岩角から、滿月の盾をかざしつゝ、秋、ワ゛ロムブローサの溪を埋める落葉のごとく、 夏、紅海の風に搖られるメムフイス軍幾萬の亡骸のごとく、今なほ埀死の態《さま》で火の波間に漂ふ神々を、 荒海遙かに望み見て、奈落もゆるぐばかり吼え叫んだ。

「諸神、天國の花であつた諸神、諸神の血迷つたその態《さま》を見ると、天國は正しく失はれてしまつた。 諸神はこんな荒海を樂しい故里《ふるさと》の溪と見て、戰に倦んだその羽袖をやすめようといふのか。 否、こんな醜い態を示して、憎い大威力の勝利をたゝへようといふのか。あの天門に陣取つてゐる追手の奴原がこれを見たら、 好い機會《をり》だと落して來て、腹匍ひしてゐる諸神を蹴散らし、踏み散らし、この荒海の底の岩根に縛り止めて、 またと浮ぶ瀬の無いやうにするであらう。起きよ、起きよ、さもなければ永遠に荒海の藻屑となるがよい。」

埀死の態《さま》でうめいてゐた神々、大魔王の一喝に驚いて、かへりみればいかにもその態の恥かしく、 堪へがたい五體の苦惱をも忘れて、破れ羽衣の音さわがしく、 かのモーゼが鞭の一揮《ひとふり》にナイルの河邊を蔽うた蝗《いなご》の雲のやうに、先を爭つて彼方の陸に翔け上つた。 やがて、嚠喨《りうりやう》たる軍笛一聲闇を破つて、高くかゝげられた大天使旗は、 さながら流星の飛ぶがごとく、それに續いて彼處に此處に閃き閃く旗指物《はたさしもの》は、火花の散るがごとく、 忽ち矛の林をめぐらし、盾の山を築いて、敗後ながらも魔軍百萬、古ドーリス流の軍樂に火を踏む歩調《あしなみ》、 亂れず、騷がず、列を正して、大王が檢閲の了るを待つてゐた。

諸神が天國の花であつたとすれば、その花の中の花であつたセータン、今は昔の光榮《はえ》こそないが、 例へば、青白い月の背後《うしろ》から薄氣味惡い光を放ち、天災の兆を下界に示して、一天萬乘の帝王の心膽を寒からしめる、 かの日蝕の姿けうとく、賤《しづ》が伏屋に臨んだ高塔のやうに諸神の前にそゝり立つて、徐《おもむ》ろに各隊の數を調べ、 その軍裝を閲し了つて、敗餘ながらも勇しい全軍の威勢頼母しく、且つは我ゆゑに奈落の果《はて》に墜ちたのを怨みもしないで、 なほ飽くまでも忠勤を勵まうとするその意氣、破れ羽衣の見苦しさを見るにつけ、鬼の目からも冷たい涙の雹《ひさめ》が降つた。

「諸神、誠に此度の戰は恐ろしい結果を生じた。しかし、諸神の奮戰は決して徒勞ではなかつた。 天國を傾け盡したこの大衆、よしや敗餘の微力を以てしても、なほよく登天の再擧を圖るには足るであらう。 誰が、このやうな大軍のこのやうな大敗北に了ることを預期し得たであらうか? 諸神普《あまね》く照覽あれ、我、軍機を誤つてこの不覺を取つたか、我危險を避けてこの失敗を招いたか。 我の弱かつたのではなく、彼が想ひの外に強かつたのだから致方がない。 この新天族が花々しく其處に据ゑ置かれるであらうと。我々の永住地には適しないこの穢土に久しく羽袖を休めるよりは、 先づ彼處に遠征を試みるのも一興であらう。諸神はもとより降伏を肯《がへ》んじない。 平和は永遠に破れ去つた。堂々の陣を張らうか、苦肉の祕計を工夫しようか、 これこそは諸神の審議を煩はさなければならない目下の大問題である。」

大王の高見に贊成の意を表する爲めに一齊に拔き放つた劒の光すさまじく、一同蒼穹に向つて毒唾を吐き飛ばしつゝ、 盾を叩いて喚き叫んだ。

此等墮落天使の中に、マムモンと云つて、建築に名を得た惡神があつた。天にゐた頃から、 いつも俯向《うつむ》いて歩き、敷石の黄金を何よりの寶と見たその目で、 今この奈落の穢土にもなつかしい黄金の氣があるのを見てひどく喜び、それを捻《ひね》くつて、 衆議を開くべき一堂を建立すべく、數隊を指揮して彼方の山路に急ぎ、鋤鍬忙がしく、 岩を掘り鑛《あらがね》を溶かすと見る間程なく、忽ち空中に築き出す大蜃氣樓ではない大魔宮! バビロンの高樓を階下に瞰《のぞ》み、メムフイスの巨塔を廊下に呑みもしようといふ宏大無邊、 これこそは衆魔殿《パンデモーニアム》といつて、後の世の下界の果《はて》にまでその名は傳へられた。

(四)衆魔會

天の奴僕《ぬぼく》となるよりは奈落の王とならうと願つたセータン、今やその望を逹して、 光明赫燿たる王座の高きに登りながら、更に高い天上界を圖らうとする念《こゝろ》抑へがたく、 衆魔を衆魔殿に驅り集めて、こゝに一大會議を開いた。

「天井の諸神、朕《われ》、諸卿を呼ぶに敢てこの名を以てする。いかにも諸卿は奈落の底に落ちてゐる。 けれども、このやうな穢土の永く神靈を宿すに足らないのは明々白々である。朕《われ》は、 天國が我々の所有《もの》であることを知つてはゐても、天國が既に失はれたとは信ずることが出來ない。 失敗は成功をして光榮《はえ》あらしめる。墮獄の呻吟は、登天の凱歌を高める低音に他ならない。 勉めよや、諸神。朕《われ》、今、天權により、諸神の推擧によりて、この高座《たかくら》に登つた。 朕《われ》、この地位の鞏固《きようこ》にして、何者の指彈をもゆるさないことを信ずる。蓋《けだし》、 天國にゐて地位の低いのを厭ふのは、自分の享ける福祿の多いのを望むからである。しかし、 奈落にゐて地位の高いのを求めるのは、自ら好んで災禍の多いのを望むやうなものである。 高い所に上つて神雷の的となり、單身大衆の干城とならうと、誰が希《こひねが》ふものか。 諸神はよくこの理を知つてゐるから、朕《われ》に向つて二心なく、幾久しき忠勤を勵まうとする、 朕甚だこれを嘉《よ》みして、深く諸神が一致共同の力を頼み、謀るに此度の難問を以てする。いはく、 堂々の陣を張らうか、苦肉の祕計をめぐらさうか?意見のある者は憚りなく發言して貰ひたい。」

高慢なセータンにつゞいて、剽悍無雙のモーロックが起つた。彼は自分の魔力が大威力に劣ることを信じない。 萬が一にも劣る所のあるのを知る位なら、寧ろ死あるを知らうといふ。既に死を決すれば、天は恐るゝに足らない、 奈落も憂へるに足らない、否、奈落以上の苦痛が來ようとも、笑つてこれに向はうとする。 かうした毒魔の鰐口から出た毒言は何うであらう?

「我は堂々の陣を張ることを主張する。我が雙手は小刀細工には馴れない。小賢しい詭計は無用である。 斯くいかめしく武裝を整へた大衆が、少數の策士の詭計を工夫するのを傍觀しつゝ、 永くこの穢土に立往生するやうなことは、徒に天兵の笑を招くに過ぎない。寧ろ大奈落の猛火をあふつて、 長驅天城に迫り、一擧にして勝敗を決するのが壯快でよからう。登天の途は遠くて難所が多いなぞと誰がいふのか? 然らば問はう、諸神は何うしてこの穢土に落ちて來たか?諸神の羽衣は迯げる役に立つて、攻める役に立たないのか? 渾身靈質から成つてゐる我々にとつては、墜ちつのはむづかしく、登るのは容易《たやす》い。 既に奈落に居りながら天帝の怒を恐れる昧者《まいしや》があるなら、我これに教へていはう、 奈落の苦にまさる天罰はたゞ死があるばかりだ。死は息だ。生きて永く苛責の鞭にうめく醜體と比べたら何うだ? 萬が一にも我々の靈質が不死不朽であつて、死の安樂椅子に倚ることが出來なければ、 再び起つて天城に迫り、空拳を揮《ふる》つて、一撃また一撃、永遠に帝座を震動せしめる、 よしやそれが勝利でないにしても、不易の復讐心を滿足せしめるに足るであらう。」

猛烈なモーロックにつゞいて、妖艷無類のピーリエルが起つた。その姿は花よりも美しいが、 その腹は炭よりも黒からう。甘露のしたゝるやうな朱唇を動かして、彼は巧みに非戰論を唱へた。

「我々も開戰の議に左袒したいは山々だが、我々が頼みきつた猛將にさへ全勝の目算が立たないのを見ると、 一寸こゝに二の足を踏まなければなるまい。先づ、第一に伺ひたいのは、元來復讐といふのは何の事であらう。 御承知はないのか、天城には堅甲利兵の警護いかめしく、夜の螢のまぎれ入るべき隙もないのを。 よしんば大奈落の猛火を驅つて一條の進路を開き得たとしても、かの大威力の妙靈を燒き亡すことは想ひも寄らない、 否、忽ち返打の辛《から》い目を見て、犬死をするのは知れてゐる。死は安息とか承つたが、 さりとは悲しい安息もあつたもの。知見すぐれたこの神體をすてゝ、常闇のけうといふ鰐口に噛み裂かれるのを誰が喜ぶでせう? 假に、さうした好竒心《ものずき》があるとしても、その望がたやすく叶つて、 永劫の苛責を臨終の刹那の苦に代へることは、なか〜覺束ないことであらう。死は必ずしも奈落の苦にまさる天罰ではない。 また、同じ奈落にゐても、かうして衆議の席に腕を組んでゐるのと、火の池の燒藻であつたのとでは、大した相違ではある。 要らない力業《ちからわざ》に骨を碎いて、再び天帝の怒に觸れたなら、 その時こそは火の荒海の千仞《ちひろ》の底の岩根に縛られて、未來永劫、浮む瀬はあるまい。堂々の陣も、苦肉の祕計も、 敗餘の我々には無用である。戰勝者が定めた我々の運命に安んじて、彼が怒りの火消え、心の氷の解ける日を心永く待つがよい。 住み馴れたら闇の奈落にも天の光を生ずることもあらうから、蟷螂の斧は暫く破れ羽衣の下に隱して置くがよからう。」

理窟ありげに吹き立てた臆病風が、そろ〜神々の身に沁み渡るのを見て、マムモンは得意の拜金教《マムモニズム》を説きはじめた。

「我々が再び天に向つて弓弦《ゆづる》を彈《はじ》かうとするのは、帝座を奪はうが爲めでなければ、 以前の神權を取り返さうが爲めである。しかし、帝座が己に動かしがたいとすれば、神權もまたたやすくは得られまい。 今假に、天帝が怒りを和らげて、大赦の令を下したとしても、諸神は恥辱を忍んでかの怨敵の足下に慴伏《ひれふ》し、 うや〜しく宏徳を頌し奉るほどの勇氣があるか?常世《とこよ》の春の花の羽衣は美しいが、 長《とこし》へに媚を怨敵に賣る爲めなら、美しくても何にもなるまい。遠い世の七つの寶を夢みるよりも、 近いこの世の黄金を數へるがよい。廢物を利用して、小さいのから大きなのを、醜いのから美しいのを、 乏しいのから豐かなのを、首尾よく作り出したなら、我々の威勢もいよ〜顯はれるであらう。 常闇《とこやみ》の世といつても、穴勝厭ふには及ばない。光明芳しい大神も、 八重の雲間に憇ひつゝ折々神雷を呼び起こして、天國の一方に奈落を現ずることもあるらしい。我々もこれに傚つて、 奈落の一方に天國を建立するがよからう。天國にあるほどの黄金《こがね》、白金《しろがね》、眞玉《またま》、 曲玉《まがたま》、溢れるばかり其處にも此處にも轉つてゐるのを知らないのか? これさへあれば、地獄も極樂、慣れゝば焔も水となつて、五體の傷を洗ふであらう。盾よ矛よと騷ぐのをやめて、 安んずべきその分に安んじつゝ、平和の夢を暫時《しばらく》こゝに結んで、敗後の痩腹を太らさうではないか。」

この言葉が終るや否や拍手の音、喝采の聲、さながら荒海の遠鳴のやうに、臆病風がいよ〜吹きすさぶのを見て、 副魔王ビエルゼバブ、天を擡《もた》げるといふ巨人アトラスの肩に似たその肩を一搖りゆすつて、 魔界の責任を一身に背負ひつゝ、太柱のやうに突立つた。

「名ばかり天上界の諸神、諸神の意嚮は永くこの穢土に留つて此處に新帝國を打建てようといふのにあるらしい。 諸神は今からその尊稱を改めて、奈落の魔公と呼ばれるがよからう。 しかし、これもまた名ばかりに終る虞《おそ》れがある。そも〜、天のこの地獄を創《はじ》めたのは、 諸神を幽閉するが爲めで、諸神が惰眠の夢を宿さうが爲めではない。八隅《やすみ》知ろしめすといふ大神、 何うして囚人輩《めしうどばら》の蠢めき騷ぐを看過さう、また、何うして囚人輩に向つて和議などを申入れよう。 鐡笏の打撃が天から來つて、我々の頭上に墜ちるに決つてゐる。平和は永遠に夢となつた。 不易の怨念に鞭つて、よしや痩馬の足掻は遲くとも、屈せず、撓《たゆ》まず、詭計の手をかへ、品をかへて、 一厘一毛でも彼が大勝の利を害《そこな》ふやうに心がけねばならない。危險を冐して天城に迫るといふ望も絶えた今、 幸にも危險の恐れのない萬全の策がある。諸神も知つての通り、近く、天に新世界が出來て、 人間といふ新天族が、其處に据ゑ置かれる筈。そこで、諸神、我々の視聽を其方に向けて、 人力の強弱に應じ、機の熟すのを待つて、大いに圖る所があらうといふのは何うか? 天門は堅く鎖されてはゐるが、天門外の彼處では、全力を人力の自ら衞るに任せて、 諸神が恐れる堅甲利兵の警護もなからう。大奈落の猛火を驅つて一撃の下に人類を燒き盡し、又は追拂つて、 全土を奪ひ取るのも小氣味よく、また、彼等を誘つて邪道に導き、 さやうな小童輩《こわつぱ》どもを造つた造化の神の手を燒いて、彼が老眼に後悔の涙を揮はしめるのも面白からう。 敢て問ふ、諸神、この萬全の策をすてゝ、飽くまでもこの穢土に腹匍ひつゝ、新帝國建立の夢を貪らうとするのか?」

さすがに副魔王の一言、いしくも頽勢を飜し得て、衆魔の面には見る〜希望の光が現はれた。 けれども、曠漠無邊の大渾沌を踏破して、首尾よく新世界探檢の重任を果し得るものがあらうか? これはまだ未決の難問であつて、これに明答を與へ得る者は、百萬の大衆中、 セータンを除いて他にありさうにもない。果然、大魔王は起つた。

「諸卿は今一難問に逢つて、沈思默考の體《てい》と見受けられるが、勇敢なる諸卿がこれほどの事に畏縮する筈はないと、 朕《われ》は深く信じて疑はない。けれども、脱獄登天の途は非常に遠く、且つ、難所が多い。 大奈落の火焔踏み、大獄門の鐡壁を破つて、幸くも匍ひ出る彼方には、常闇《とこやみ》の底無しの淵がある。 無事に鰐口を潛り得ても、なほ行く手には、名も知れない怪世界が果なくつゞいて、 危難變災?霰《あられ》のやうに降つて來るであらう。思慮の淺くない諸卿が、沈思默考すのは無理もない。 朕、既に南面して諸卿の王たる以上、諸卿の安危に關る一大事を他《よそ》に見て、 王たるの名に背くやうなことがあつてはならない。その名が高ければその責は重い。諸卿は今から退いて、 心?長閑《のどか》に朕《われ》が吉報を待つがよい。朕、思ふ仔細あれば、何者をも伴はないで、 單身遠征の途に上り、大千世界の蒼穹を踏破し盡して、徐《おもむ》ろに諸卿の爲めに圖らう。」

(五)遠征

野心勃々たるセータン、諸神が驚嘆の聲を聞き流しつゝ、單身飄々と遠征の途に上り、先づ大獄門に向つて、 大鵬の翼を振ふ。或は左手に嵐を呼び、或は右手に荒波を起しつゝ、或は高く無邊際の天空を摩し、 或は低く萬里の紅海を掠《かす》む。例へば、東印度の島々から竒しき藥草を得て歸る和蘭の古船隊、 ベンゴールの灣を朝立つて、廣い印度の大洋《おほなだ》を、貿易風に眞帆片帆、帆手いさましく横切つて、 夜、阿弗利加の南端喜望峰の大岬をめぐるとき、遠く陸から眺めれば、水や空なる汐路の果に、 雲にかゝつた雲かとまがふ、その大船の一隊のごとく、急げば程もない奈落の境、三重は黄銅、三重は南蠻鐡、 三重は金剛岩、合せて九重の關門は、問ふまでもない地獄の大門であつた。

此處には二個の怪物が蟠《わだかま》つて、堅く關門を扼してゐた。頸から上は美しい女人のやうで、 肩から下は醜い大蛇に似たのは、これこそ罪姫の女神といふもので、 セータンが叛旗を擧げた頃まで天國一の美神と愛ではやされたのだが、その後?情《なさけ》を彼に通はして、 彼が一味に加はり、衆魔と共に奈落に墜ちた折、大神の大御言によつて獨り別れて此處に來り、地獄の門の鍵を預つて、 淺間しい獄卒のこの姿となつたのである。頭が無いやうであり、脚が無いやうであり、 影が無いやうでもあり、形が有るやうでもあり、影のやうで影でない一團の大怪物は、 これぞ魔王の落胤で、罪姫の腹から湧き出た死の神と、聞くもけうとい名ではある。

大威力の外に怖ろしいものを知らないセータン、物の數にもならない彼等何程の事があらうと、先づ死神に向つて、 この門を開けなければ蹴破つてゆくぞと、肱《ひじ》を張つて脅しつける。死神これを見て、 カヤ〜と竒妙な笑聲を揚げながら、火矛を揮つて睨み寄る。暴雨に名あるカスピ海の中空《なかぞら》に、 二團の黒雲迅雷を呼んで東西から鳴り來り、嵐の相團に稻妻すごく、今しも一大衝突を起さうとする。 その勢を見て、あわてゝ門の蔭から走り出た罪姫、一聲の悲鳴高く、父子《おやこ》の間に躍り込み、 怒り狂ふ彼方此方の肩をおさへて、さて、涙と共に語りはじめる身の因果話に、 さしもの魔王が張りつめた肱の強弓も挫けてしまつた。

「我妹《わぎも》よ、朕《わ》が此處に來たのは、お前逹をはじめ、死地に陷つた神々の爲めに、 一條の活路を開かうとするので、自分が首尾よく遠征の目的を逹して、お前逹も噂に聞いたあの新世界を朕が所有《もの》としたら、 直ぐにもお前逹を迎へて、昔の榮華の春を見せてやらうぞ。」

甘い父が一言に死神の怒りも解けた。罪姫の喜びは言ふまでもない。彼女は急ぎ祕密の鍵を取り出して、 いそ〜と開ける地獄の大門、萬雷の音おそろしく、九重の扉左右に軋《きし》つて、閉ぢるのは彼女の力に餘つたので、 開け放たれたまゝ今に殘り、長《とこし》へに吐く焔の舌、罪業の深い人の子の迷つて來るのを待つてゐる。

大門をくゞつて、奈落の一角から遠く彼方を見渡すと、幅なく、長さなく、高さなく、果なく、 崖《かぎり》の無い闇の海原、これぞ名にし負ふ大渾沌界に、冷、熱、乾、濕、の四元帥、無數の雜兵を驅つて、 亂打、亂撃、大亂戰の音すさまじく、何方《どちら》に向つて羽袖を振つたらよいか、見當がつかない。 しかし、たゞ呆れてそれを見てもゐられないので、やう〜心を定め、猛然大地を蹴つて、一躍千里の勢で翔けてゆく程もなく、 忽ち驚く大眞空、億萬仞の底に向つて逆落しとなつた。彼の惡運が強くなかつたら、 今もなほ逆落しの苦患《くげん》の悲鳴の聲を絶たないであらうに、何處からともなく一道の大火氣が舞ひ起つて、 メムフイスの古塔に似た彼の五體をば、木の葉のやうに捲き上げた。

辛くも大難を脱《のが》れて、なほ行く手にはサハラの砂漠を幾百千も集めたやうな大流砂が横はつてゐる。 或は泳ぎ、或は潛り、或は渉《わた》り、或は這ひ、或は飛びつゝ、進み進めば、 前の亂戰よりも更に烈しい喧々囂々《けん〜がう〜》、何者の仕業が知らないが、何者であらうと、引捕へて道案内にしようと、 翼を速めて其方《そちら》に急ぐと、忽ち現はれた大天幕の下に、悠然と構へてゐる渾沌王、 それと并んで黒衣の常闇姫《とこやみひめ》、その他名も知れない竒神怪魔、列を亂して、紛然、雜然、 囂々然としてゐる。こんな奴原《やつばら》に禮儀の必要もないから、無造作に天幕の上から聲をかけて、 光明界への道を問ふと、渾沌王は破鐘《われがね》の枯聲を絞つて、程遠くない由を告げ、 且つ此處の遠征に向つて、好意を寄せる旨を語つた。希望の彼岸は近づいた。寸時も猶豫すべきでない。 渾身の勇を鼓して、天を貫く火の金字塔のごとく、向上猛進し、やゝ暫くすると、つと神光靈氣を感じた。 夢か現《うつゝ》か、身は光明の界にあつて、羽衣輕く、心も輕い。久しく颶風《ぐふう》になやんだ破れ船が、 波の立たない港に入つて、風のない空を不審がるやうに、此方《こちら》を望み、彼方《あちら》を仰いで見ると、 なつかしの我が故里の天津國、美しい夢のやうに浮んでゐる傍《かたへ》に、 黄金の鎖で釣り下げられた明玉の光は、正しく我が慕ふ新世界であるのだ。

今は光明の界にあつて、魔翼に逆らふ微風もないので、かの新世界はいかに遠くても、急げばさほどにもない道のり、 早くも天の外濠に着くと、碧玉の水、眞珠の流れに、黄金のかけ橋長く、七寶閃めく城門につゞいて、 誰待顏《たれまちがほ》なのも心憎くゝ、天欄に倚つて暫時《しばし》思ひに沈む足の下に、 一條の大道眼も及ばないその果に、燦爛《さんらん》たる無數の群る星、 古聖ピタゴラスの耳に響いた神祕の妙音を奏でる氣色《けはひ》、奈落にゐて夢にのみ見たそれに比べれば、 遙かにいみじい新世界、今更ではないが、怨めしいかの大威力、嫉ましい新天族の幸運兒、よし、 それならば今に思ひ知らせてやるぞと、胸を叩いて、踵《きびす》をめぐらし、七寶の門に砂を蹴かけて、 またもや急ぐ新天地の通路《かよひぢ》、左手の流星を拂ひ、右手の彗星を踏みとばしつゝ、 星の群がる中をわけゆくうちに、忽ち眉を射る一團の明光、衆星の王とも見える大日輪に翔け登るまで、 呼吸《いき》あるものゝ影にも逢はなかつたのに、はじめてこゝに一天神の後姿を認め、 さらば彼奴を欺いて新天族の在所《ありか》を問はうと、手早く美小天使に扮《やつ》し、 その花衣に蘭麝《らんじや》をかをらせ、薔薇色の片頬に甘露の笑みを溢《こぼ》しつゝ蓮歩を運んでゆくと、 その足音に振りかへるは眞玉の冠をしたのは、七天使の中で眼力無雙の聞えの高いユーリエルと、 一目にその瞳の光のまばゆさで知られる。

「光榮ある天津大御使《あまつおほみつかひ》として新世界を見守り給ふユーリエルの君に物申さう。 我この美しい世界の成つたのを聞き、神寵のめでたい新天族を垣間見て、偉《おほひ》なる大神の御力の片端をも窺ひ知り、 新しい讚美の歌を捧げ奉らうと存じ、今しも獨り天樂隊の群を離れて、此處まで彷徨《さまよ》つては來たものゝ、 名のみに傳へ聞いた樂園の在所《ありか》何方《いづかた》と見きはめかね、 引き返さうにも星の林に路を失つて、途方に暮れてゐるのをあはれと思召すなら、 我が爲めに行くべき空をお示し下さい。」

僞善の花衣には大天使の眼もくらんで、自分の眞直な心から欺《だま》されるとも氣づかず、 殊勝げな彼が言葉を喜びつゝ、教へてはならない樂園の通路を詳しく教へて、右と左に羽袖を分つた。

ユーリエルに別れてから暫時にして、今しも大魔王は、地球の一角、ニフアチーズの山の頂きに佇《たゝず》んだ。 想ひの外に心やすかつた長途の旅路をかへりみれば、茫としてたゞ夢のごとく、俯して地上の山川を眺めると、 まぼろしのごとくに浮び出るエデンの里の花ぐもり、霞んだ眼を押拭ひながら、更に仰いで天上の蒼穹を望むと、 煌々たる大日輪、我が失つた天國の榮華の春を物語るかとも見えた。遠征の目的が半ば逹せられた今に及んで、 何事であらう、魔翼に滴《したゝ》る露雫は《つゆしづく》?

「あゝ、汝、衆星の王として下界に臨んでゐる大日輪よ、聞け。 我も昔は大天使王として汝等の頭上に赫々《かく〜》の光を放つ身であつたのを、 非望の魔翼に驅られて全能の君と力を爭ひ、一敗地にまみれて魔窟の鬼となり、我と我が胸に描き出す奈落の苦患《くげん》、 よしや五體は獄門外の春に醉ふとしても、心の底の厚氷は何時《いつ》解けるであらう? 是《ぜ》なる天道を非としたのは、その曲、固より彼にはない。感謝の誠意があつたなら、 天恩の重さも重荷とはならなかつたらうに、僻《ひが》んだ我が眼はそれを首枷と見て、 徒らに吼え、徒らに狂つてゆく果に果は、そも〜何うなる我が身の上であらう? 至尊の相距《あひさ》る只一歩であつたからこそ、醜い野心の角も生えたのである。 我、もし、幸多からぬ小天使の末に生れたなら、野心に迷ふ憂ひもなく、 長《とこし》へに天恩の露に咽喉《のんど》を鳴らしつゝ、却つて幸多き身となつたらうにと、 想ふも今更愚癡であらうか。我に野心の塵の氣ある上は、よしんば小天使の羽袖弱くて、 獨り起つだけの勇はなくても、他が大野心の風に誘はれて、狂ひ起つに相違なければ、 所詮怨めしいのは我が心である。悄然たる孤影、何方の空に向つて、平和の宿を求め、安息の臥床《ふしど》を探らう? あゝ、我が胸は憤怒の火に燒け、我が心は絶望の淵に溺れた。前非を悔いても、もう晩《おそ》い。 今はたゞ降伏の大きな恥辱があるばかりだ。降伏か?降伏か!朕《われ》にそのやうな汚い心があるとしたら、 地下の衆臣に對する朕《わ》が面目を何うする?否、假に降伏の大きな恥辱を忍び得て、 光榮ある天上の春に還るとしても、癒えがたい額の古傷に毒血迸る夕《ゆふべ》、 仰いで至尊の我と相?距《さ》る只一歩なるを見たら、再び狂ふ心猿意馬《しんゑんいば》の手綱切れて、 荒れに荒れゆくであらう末の末が想ひやられもする。さらばぞよ、希望の光!來れ、血の雨、血の涙! いざや、地の惡を驅つて天の善と戰ひ、天地を二分して我その一を保たう。」

美小天使に扮《やつ》してゐた姿を忘れて、大魔王の本性を現はしてゐたのを、知るものはないと想ひの外、 さすがに鋭いユーリエルの眼力、遠い〜空からこれを見て、獨り何やら點頭《うなづ》いた。 さうとは氣づかなかつた大魔王、美小天使の花衣を繕ひながら、エデンの里をさして急いで行つた。

(六)安樂園

行きゆきてエデンの里に入ると、忽ち仰ぐ八面?玲瓏《れいろう》の芙蓉の峰、 東海の白波をいでゝ新に三保の松原に現はれたやうに、翆滴《すゐてき》地に落ちて聲あるを疑ふばかり、 五彩燦たる花の冠をいたゞき、神容嚴として聳えてゐる。紫雲棚引く四明《しめい》の山角に不遜の肩を怒らして、 脚下に帝城を瞰《のぞ》んだかの平將軍の輩《やから》でも、一歩も犯し難い神仙郷、これぞ名にのみ殘る地上の樂園、 人類の遠祖《とほつおや》たるアダムとイーヴの安樂園である。

なほ行きゆくと、魔翼を拂ふ軟風《そよかぜ》に迦陵頻伽《かりようびんが》の遠音《とほね》ゆかしく、 裳裾にかけゆく道芝の露にだに、神祕を映す花の白雲、影清く、玉と碎け散つては塵にも靈香のかをりを殘す。 月の明るい神の都の星の臺《うてな》に、うたゝねの寢覺惜しんだ昔の美しい夢路をただろやうに、 恍惚として地を踏む足に音の無いのを怪しむ。

光榮《はえ》ある我を奈落に蹴落しながら、かゝる樂しい御園を手づから造つて、 名もない小童輩《こわつぱども》に授けた造化の神の憎さをおもふと、 おのづから戰《おのゝ》き震ふ大魔翼、一躍、風を切つて、樂園の只中にある生命の靈樹のいたゝきに足をかけ、 惡鳥コーモラントの鋭い眼を光らしつゝ、初めて窺ふ地上樂園の大觀は何うであらう?

沙白く苔青きエデンの里には一河の流れ長く、東の空なる薄紫の山間《やまあひ》から出て、 花散る御園の岩根をくゞり、靈樹の蔭に湧き上つては、汲んでも盡きない甘露の神泉となり、 金砂の小山を急いでは、虹の浮橋影さやかに、銀砂の小川を辿《たど》つては、天の河瀬の音すゞしく、 青葉の森には碧玉《へきぎよく》の池を湛へ、紅葉《もみぢ》の林には水晶の瀧をかけ、 落ちて分れては四筋の川波音高く、名ある靈地をさまよつて、西の空なる薄紅《うすくれなゐ》の雲間に消えてゆく。 かくも珍《めづ》らかな河の水にうるほつて、竒《く》しき造化の御足の跡に咲きこぼれたる花の色々、 或は朝霜かんばしい岡の上に日出でぬ間の日影まばゆく、 或は日ざかり暗い蔦《つた》の眞洞《まほら》に時ならぬ星月夜の星影明く、 或は夕霧匂ふ芝生の露に夜光の玉を磨き、或は小夜風《さよかぜ》さゝやく池の水際《みぎは》の漣《さゞなみ》に、 有明の月の笑顏を洗ふ。この水を吸ひ、この花に醉ふて、鳥は東雲《しのゝめ》の青葉が上に朝の祈祷《いのり》の聲高く、 いさましい山彦王が朝寢の床をうごかし、蟲はたそがれの紅葉の蔭に夕の祈祷《いのり》の音も細く、 やさしい木魂姫《こだまひめ》の假寢の搖籠をゆする氣色《けはひ》、 天樂隊の妙《たへ》なる調《しらべ》にも厭き果てた月の夜毎《よごと》、情《なさけ》ある天津神々が忍び來て、 花白き河瀬の波に耳をすゝぐであらう。

目に見る物、耳に聞く物、一つとして快からぬはないうちにも、この樂園の主《ぬし》として、 此等萬物の司《つかさ》として、全能の御手にはぐゝまれた人間の姿の美しさに至つては、 まことに大魔王の嫉妬《ねたみ》を受けるに足るであらう。見よ、雄々しいアダムが眉根には大威力の面影働き、 優しいイーヴが瞳には大慈悲の片影を浮べつゝ、例へば、雪の朝の青空に妹背《いもせ》の神山の並び立つてゐるがごとく、 赤裸々にして自然に具はる風采の美は、後の世の人の工《たくみ》の陋《いや》しさ拙さを笑ふかとも見えた。 今しも、彼等は樂しい晝の仕事を了つて、ひぐらし涼しい青葉の蔭に來り、花の筵《むしろ》に肱枕しつゝ、 片手を延べて、目の前に埀れ下つてゐる仙桃《せんたう》の實をちぎり、 足の下を流れる眞清水にも汲み飽きて、夕餉の後のさゝやき長閑《のどか》に、 膝元に來てむつれ戲れる野獸の群の興ある身ぶりに笑顏を見合せつゝ、 世にも恐ろしい大魔王が我を窺つてゐるぞとは露しらず、日も早や暮れようとするのに氣もつかない。

「あゝ、優しい妹《いも》と背《せ》よ。お前逹が坐つてゐる花の筵《むしろ》の下にどのやうな禍が隱れてゐるとも知らないで、 蝶々のやうに樂しげに浮かれ遊んでゐるのは愚かなことだ。今日の樂しみの樂しければ樂しいだけに、 明日の苦しみの益々苦しいといふことを悟らないのか?地上の淨土たるこの樂園に、 かくいふ敵を防ぐに足るだけの警備《かため》も置かないで、さりとは笑止千萬、 造化の神もお年齡《とし》を取られたと相見える。しかし妹と背、氣づかふな。 朕《われ》が此處に來たのは、たより少いお前逹を苛める爲めではなくて、互に仲好い交りを結び、 打連れ立つて奈落に歸るか、さもなくばお前逹と共に永くこの地に住はうといふ所存。 いかにも我が住家はこの樂土に似るべくもないが、さればとて打捨てがたい造化の賜物、今、 改めてお前逹にも頒《わ》けてやらう。地獄といふと恐ろしさうだが、地獄にもまた好い物が澤山ないではない。 此處を彼處にかへて、彼處の此處に似もつかないのが厭やであつたら、厭やがる朕を彼處に追ひ込んで、 罪のないお前逹をうかゞふやうにした、罪ある大神の御蔭だと思つて、篤く御禮を申上げるがよい。 朕《われ》、お前逹のたよりの少いのを見て、そゞろに同情の涙を催さないではないが、 尊い朕が名譽の爲め、且つは大奈落の安寧の爲め、女々しい朕の情を顧る暇《いとま》がないのだから仕方がない。」

斯う獨語《ひとりごと》を言つてたり、點頭《うなづ》いたりして、やをら芝生におりたつたセータン、 美小天使の花衣をば醜い四足獸《よつあし》の毛皮に脱ぎかへて、或は獅子王の眼を光らし、 或は猛虎の足音を忍びつゝ、近く妹と背の膝元に這ひ寄り、二人がさゞめ言になつて、 彼等を邪道に陷るべき緒《いとぐち》を探り求むべく、しばらく兎の耳を澄してゐた。

二人の問答によつて察するに、この樂園の眞中にある生命の靈樹に並んで立つてゐる神木は、智慧の樹と呼ばれて、 その實の美しさは金色の眞玉を懸け連ねたやうで、それは觀る者をして、眼くるめき、心迷ひ、 思はず手をさし出さしめるばかりであるのに、これを手に觸れるより早くおそろしい天罰が下つて、 死の酸味を甜《な》めなければならない。 大慈大悲の聞えある大神がこのやうな不思議な係蹄《わな》をばこの樂土にかけて置かれる、 その理由《いはれ》は分らないけれども、魔王が爲めには願ふてもない好い手がゝりと、 ひそかに天に向つて舌を吐きながら、なほこの地方《あたり》の地理を探つて置かないと、 いざといふ場合の進退《かけひき》に都合が惡からうといふので、再び扮《やつ》した美小天使の蝉の羽袖輕く、 森をくゞり、谿をわたり、野を走り、山路を急いで、何處《いづく》ともなく彷徨《さまよ》つて行つた。

その間に夕日は西の海の白波の彼方に半《なかば》沈みつゝ、樂園の東にある大理石の大門に向つて、 名殘惜しげに金色《こんじき》の光を放つ。この光に乘つて流星の射るが如くに飛んで來たのは、 先に魔王に欺かれて樂園の路を教へたユーリエル、あわたゞしく門内におりたち、 衞兵の長《をさ》として大神より遣はされたゲーブリエルに聲をかけ、 何をか囁語《さゝや》き示すとそのまゝ、またもあわたゞしげに金色の光に乘つて、 夕日と共に西の海の薄紅《うすくれなゐ》の雲間に隱れ去つた。

やがて、薄墨色の黄昏《たそがれ》の羽袖、山をつゝみ、野にひろがつて、獸は野末に、鳥は山蔭に、 己が臥床《ふしど》を占める程なく、靜けき夜の女神の足音に連れて、ナイチンゲールの鳴く音?妙《たへ》に、 それを聞かうとてか、三つ四つ二つ、雲井の上の小窓から下界をうかゞふ星の眼の瞬《またゝ》く間《ひま》に、 青空隱す眞玉の光、中にも宵の明星の影さやかに、我は顏する後から嫦娥《じやうが》の女王の笑まひやさしく、 白金色の長袖を夜の女神にかぶせるまで、夕餉の後のさゞめきに餘念のなかつたアダムとイーヴの妹と背は、 今しも手に手をとつて、明日の仕事の樂しさを語らひながら、 神のめぐみの露深い花の林の花の臥床《ふしど》に入つて行つた。

樂園の守護神として大門内に控へた大天使ゲーブリエルは、今しも夜の巡邏《じゆんら》を始むべく、 一隊の衞兵を南北の二手に分けて、南の方のはこれを副將アツヂエルの指揮にまかせ、北の方のは自らこれを率ゐつゝ、 別にイシユーリエルとジーフオンの二荒神《ふたあらがみ》を選んで、 アダムとイーヴが住家《すみか》のあたりに向はしめたが、その夜も四更を過ぎて、 南北の二手が御園の西に落ち合つた時、件《くだん》の二荒神に追ひ立てられつゝ、珍らしや魔王セータン、 大地を踏み鳴らしてゆるぎ出た。かねてユーリエルの密告によつて、 魔性のものゝ忍び入つたのを知つてはゐたが、九重の獄門を蹴破つて、 しかも大魔王自身が今こゝに現はれやうとは、さすがに想ひも寄らなかつた面々、 いづれも呆れに呆れて眼を見張るばかりであつた。

彼はこの地方《あたり》の地理を詳しく探り究めて後、再び園内に歸り、イーヴが臥床《ふしど》に忍び寄つて、 蟇《ひき》のやうに彼女が耳元にうづくまりつゝ、恐ろしい毒氣を吹込んでゐたのを、 端なくも二荒神《ふたあらがみ》に見とがめられて、おめ〜こゝまで追はれて來たのであつた。

やがて、ゲーブリエルは一同に目配せしつゝ、セータンに向つて輕からぬ地獄の罪を責め、疾く〜退出せよと、 言葉おごそかに申し渡した。その間に部下の面々は魔王の周圍《まはり》に槍をかまへて、 素破《すは》といつたら一齊に繰り出さうと、力足踏みそろへて犇々《ひし〜》と詰めかけた。 彼等の手練《てなみ》には覺えがある。羽袖にかけて蹴散らすのは造作もないが、 大事の前の小事にかゝづらつて、意外の障碍《しやうげ》を招くのは賢くもないと、 機を見るのに敏《さと》い魔王は、月己に五更の空を仰いで天象を占ひつゝ、 ゲーブリエルが言葉のまゝに、夜の女神の影と共に何方《いづかた》ともなく消え去つた。

(七)怪夢

清い軟風《そよかぜ》が青葉を渡つて、さやかな小川のさゞなみに心地よい朝の調《しらべ》をさゝやく頃、 アダム先づ目ざめて、何心なくイーヴを顧みると、いつになくいぎたない彼女が寢顏いぶかしく、そつと手をかけて搖り起すと、 ひどく物に驚いた體《てい》で、眼を見開き、やさしい胸を撫でおろしつゝ、 やがて昨夜《ゆうべ》の夢のおそろしさを語りはじめる。

「夫《せ》の君よ。忌はしい夜の影は消えて、今日もまたいつに變らぬ御身の笑顏を見るのはうれしい。 想ひ出しても身の毛が立つ昨夜の夢に、誰やら我が耳元に來てさゝやくのを聞けば『情《こゝろ》なのイーヴよ、 起きよ〜。月よし、夜よし、風もよい。ナイチンゲールの妙《たへ》なる調《しらべ》も、聞く人がなくては何にもならない。 美しいお前の姿を見ようとて、夜もすがらまどろみもせぬ星の眼を、あはれと思ふなら起きるがよい』と、 正しく御身が聲に相違ないので、急いで起きて、御身の行方をたづねわびつゝ、端なくも智慧の樹の蔭に來て見ると、 晝にも優《まさ》る花の色香かんばしく、あてやかな一天人がその傍《わき》に佇んでゐて、同じ梢を仰ぎつゝ、 『あゝ美しい智慧の樹よ、枝もたわむばかり實りに實つても、神にも人にもよそに見られては、 重荷の肩を休める暇があるまい。智慧はそんなに陋《いや》しいのか。否《いや》、智慧をば人に授けまいといふ御意なのか。 ならば、何故こゝに植ゑて置かれるのだ?よし、乃公《おれ》がお前の肩を休めてくれよう』と、 大膽にも猿臂《ゑんび》を延べて、禁制の實を容赦なくちぎり喰ひ、舌打鳴らしつゝ、 『さても貴い智慧の實よ、枝で見たよりも遙かに口に甘いその味ひ、人をも神にするといへば、 あの禁制も道理《もつとも》だが、いかほど神の數が増したとて、全能の御光が減るわけでもあるまいに、 さりとは御心の狹いにも程がある。いざや、織女星《たなばたつめ》に似たイーヴの姫よ、 御身もこの美味をなめて、光榮《はえ》ある女神の群に入り、狹い地球の檻を出て、 我々と同じやうに自由自在に天翔《あまかけ》りつゝ、星の世界の花園にも蓮華をまげさせられい』と、 強ひて我が口に件《くだん》の美味を投げ入れた後は、夢に夢みるやうで、いつの間にかかの天人に連れられて、 雲井の空に舞ひ上り、遙かに地上の山川を見下し、我ながら我が飛行の早さに驚いて、 ふと我が足もとをかへりみるその間《ひま》に、手引の神は何方《いづかた》へか消え失せて、呼んでも叫んでも答がなく、 忽ち地上に落ち來つて、なつかしい御身が聲に目ざめるまで、なほも怪しい夢路を辿りました。」

聞くも忌はしい夢物語にアダムもひどく驚いたが、正《まさ》ない夢を氣にかけて、女々しく思ひわづらふのも愚かしいと、 やう〜心をとりなほして、悲しげに涙ぐんでゐるイーヴを勵ましつゝ、朝日の野邊に立ちいでゝ、 朝の祈祷《いのり》の聲高く、やゝしばらく天の冥助《みやうじよ》を祈り、胸の浮雲の晴れるのを待つて、 高砂《たかさご》の浦風に千歳《ちとせ》の松の落葉かく年まだ若い尉《じよう》と姥《うば》のやうに、 二人樂しい朝の仕事にとりかゝつた。

しをらしげな二人の態《さま》を大神遙かに御覽じつゝ、物馴れた大天使ラファエルを呼び出して、 ねむごろのたまはく、「お前逹も聞いた昨夜の物音は、先頃奈落を脱《ぬ》け出た魔王セータンが仕事に相違ない。 彼が計画《たくみ》の底は、言ふもおそろしい。汝、速かに下界に降つて、樂園の花の扉《とぼそ》を叩き、 半日の閑話に心をくつろげ、それとなく惡魔の近づいたことを告げて、萬一の不覺のないよう、 好《よ》きに取計らつて來るがよい。』

大天使は天意を承り、微行《びかう》の羽袖輕く、瞬く間に七寶まばゆい天門を過ぎ、 五彩閃めく星の世界も程なく翔けぬけて、樂園の一角にある大門脇の崕の上に少時《しばし》憇ひつゝ、 天津大御使《あまつおほみつかひ》に對する守護神隊の最敬禮を受け、案内の神も伴はないで、 獨り靜かに青葉の森をめぐり、花の林を踏み分けて、露深い花の扉《とぼそ》を訪ねて行つた。

樂しい朝の業務《つとめ》を終つて露の軒端に涼んでゐたアダム、木の間がくれに大御使の影を認めて、 晝餉《ひるげ》の支度を急いでゐるイーヴを呼び、光榮《はえ》ある珍客を待ち受けるべく、 互に何事か諜《しめ》し合ひ、點頭《うなづ》き合ひつゝ、妹《いも》は背戸《せど》に出て木の實をあさる手いそがしく、 背《せ》は門邊《かどべ》に出て出迎の言葉誠にうや〜しい。

薔薇《さうび》の床に据ゑた青芝の卓子に向ひ、苔むす椅子に倚りかゝつて、今しも大天使ラファエルは、 二人が勸める自然の美酒佳肴に舌打しつゝ、心地よげに笑ひ興ずる聲、或は高く、或は低く、 先づ人倫の近いのから口を切つて、段々と天道の高いのに及ぼし、天道に背いて人倫の敵となつた大天使王、 並びに一味の神々の墮落から、新世界創造に至るまでの因果を説き、さて、 今日は神寵《しんちよう》めでたい人間の胸にも、明日はどのやうな毒蛇が宿るかも知れないと、 暗に惡魔の近づいたのを諷示しつゝ、なほも雜談《ざふだん》に時を移して、 日の暮れるまでに首尾よく天の使命を果した。

天にはユーリエルの鋭眼《えいがん》があり、地にはゲーブリエルの利劔《りけん》があるのに、 今またラファエルの警告があつたから、セータンにいかなる大魔力があらうとも、 この堅城を拔くことは想ひも寄らない筈だが、不敵の彼はこれにも屈せず、なほ飽くまでも初一念を貫かうと、 獨り心を千々に碎きつゝ、かのゲーブリエルの爲めに樂園を追はれてから八日目の夜の狹霧《さぎり》にまぎれて、 千仞《ちひろ》の岩根の清水をくゞり、またもや靈樹の蔭に現はれ、塵を甜《な》めるといふ毒蛇の體内に宿つて、 靜かに朝の來るのを待つた。

やがて、夜が明けると、アダムとイーヴの妹《いも》と背《せ》は、雲雀と共に起き出で、 例の禮拜に天の冥助《みやうじよ》を祈つた後、今日一日を何に暮らさうと、先づその評定に額を鳩《あつ》めた。

「背の君、アダム、私逹二人が手に手をとつて、連理の枝蔭に落葉を拾ひ、小草を刈るのも、 誠に樂しいことではあるが、私逹の力には限りがあるから、手助となるべき子孫が出來ない間は、 よしんば夜を日に繼いで勵んでも、廣い御園の片端を掃き淨めることさへなか〜容易でないのに、 いつまでかうしてゐようといふ御心であらう?二人並んでゐればこそ、蝶の羽風にもさゞめいて、 想はぬ時をも過す道理。さもなくても惜しい日蔭を惜むなら、今日よりは右と左に別れて、 御身?此處《こちら》の池に藤波を浮べれば、私はまた彼方《あちら》の森に薔薇《さうび》の花環を飾りませう。」

一理ありげに聞えるが、さすがにイーヴは女人の智慧が淺くて、早やラファエルの注意《こゝろづけ》を忘れたのであらう。

「我妹《わぎも》よ、我は御身の心がけの殊勝なのを喜びはするが、寸陰を惜しんでまでも精を出して働くのは、 却つて大神の御意《みこゝろ》にも背くであらう。御身が同棲の單調に飽いて、 時に獨居の變化を求めようといふなら、強ゐて異論は唱へない。たゞこゝに考へなければならないのは、 先頃?大御使《おほみつかひ》から聞いたあの惡魔のことである。變幻不思議の魔術を用ゐて、 我々を邪道に導かうとする彼にとつては、我々の別居は願ふてもない好い機會《をり》となりはしないであらうか? 我々の周圍《まはり》にはいつも彼の惡魔が付纒つてゐることを忘れてはならない。」

思慮の深いアダムは、言葉しづかにイーヴに向つて、危險の恐れの多い彼女の發議を打消さうと試みたれど、 一轍な女氣は、却つてその爲めに激して、分別の無いことを言ひ募つた。

「大御使《おほみつかひ》の御言葉にいつはりがないとすれば、 いかにも私逹の周圍《まはり》にはいつも惡魔が付纒つてゐるに相違はないけれども、 果してさうだとすれば、何の樂しみもない私逹の身の上、此處を樂園といふのは名ばかりで、 地獄とちがつた所は少しもなく、自然大神の御稜威《みいづ》にもかゝはる道理。 よしんばどのやうな惡魔が窺つてゐようと、我が心さへ動かなかつたら、何も怖れることはない。 誘惑の試金石に逢はなかつたら、道念の堅さも誇るには足らない。萬物の靈と生れて來ながら、 惡魔の聲に聞きおぢするのは、却つて大威力を疑ふことになるであらう。」

かうまで思ひ詰めたのを、強ひて言ひ爭ふのは餘りに女々しいやうでもあり、また、 彼女も容易に我を折るまいと思はれたので、アダムは不安の眉を皺《しわ》めながらも、 遂に彼女の言葉に從つた。あゝ、時は來た、大魔王が大魔力を揮《ふる》ふべき時は來た。

(八)毒蛇

かうした好い機會《をり》もあらうかと、先程から待ち構へてゐたセータン、今しもイーヴが只一人森蔭に彷徨《さまよ》つて來て、 落花の雪に春の女神の足音輕く、花重たげな薔薇《さうび》の花を摘み、露重たげな小百合の露を吸ふのを見て、 恐ろしい毒蛇の舌を吐きながら、木の間がくれにうかゞひ寄つた。しかし、神々しい彼女の姿を目の前にしては、 惡鳥コーモラントの鋭い眼《まなこ》もくらんで、例へば、十年の春秋を獄舎《ひとや》の塵に埋れた囚人《めしうど》が、 不意に大赦の令に接して、青天白日の影清い夏野の小草の露ふみわけつゝ、辿る川邊の森蔭に、 天津少女《あまつをとめ》と歌つた昔の戀に逢ひ見るやうに、只茫然として夢現《ゆめうつゝ》の境に佇むこと暫時《しばし》。 やがて、ふと我にかへつてみると、我が蛇の姿の淺間しさにつけても、嫉ましいのは人間の好運、 憎いのは天帝の大威力、所詮このまゝには看過しがたい好い機會《をり》に、 我ながら女々しかつた我が心根を嘲笑《あざわら》つて、つとイーヴが足下《あしもと》に現はれ、 現はれては葉蔭に隱れ、隱れてはまた現はれつゝ、彼女が注意を惹く爲めに、尾を振つては尾を卷き、 首を擧げては首を埀れて、媚びるやうに、諂《へつら》ふやうに、遂には彼女の足跡の塵を甜《な》めて、 細いその舌からはなほ細い人間の聲音いみじく、頻りに彼女の姿をたゝへて、 先づその弱點に向つて誘惑の網をうちかけた。

「これは何といふ不思議さであらう!野末の蟲けらには情《こゝろ》があつても聲はなく、 聲はあつても意味のないのが普通であるのに、お前は何時《いつ》の間に人間の言葉を覺えて、 そのやうに優しげに言ひ寄るのであらう?」

智慧の深くないイーヴが脆くも誘惑の網にかゝるのを見て、此方は黒いその腹の底に怪しい頬笑を隱しつゝ、 いよ〜優しげに言ひ寄つた。

「光榮《はえ》ある女王として、美はしいこの世をしろしめすイーヴの女神よ、 我も昔は野末にゐて、聲のない蟲けらと共に塵土を甜《な》める身であつたが、或日、 そゞろあるきの歸りに、何やら得もいはれない物の香に迷つて、近邊《あたり》をうろつくうちに、 ふと我が目にとまつたのは、仰ぐもまばゆい木の實の色澤《いろつや》、 高い梢に金色《こんじき》の玉をかけたやうで、見れば見るほど段々に美しくなるので、 咽喉鳴り、鼻うごめいて、我知らぬ間に、苔滑かなその枝の上に這ひ〜登ると、 早くも下には夥多《あまた》の蟲けらが集ひ來て、うらやましげに頭を擧げてゐるのも可笑しく、 獨り極樂の味を占めて、彼等の開いた口に唾を吐いた程もなく、不思議にも我が舌は自由自在に動いて、 心のまゝに人の言葉を使ひ分けるやうになり、それから後は、いやしい蟲けらの心を去つて、 尊い人間のするやうに、春の花に神祕の色をゆかしみ、秋の月に美の神の面影を浮べ、 かの造化の妙趣を味ふ樂しさ。けれども、造化の妙趣を一身に萃《あつ》めた御身の姿のいみじさには、 春の花もその色を失ひ、秋の月もその光を奪はれるでせう。不意に物言ひ寄つて、やさしい御身を驚かしたのは、 その罪輕くはないけれど、花に舞ふ蝶々のやうに、月になく蟲のやうに、御身が姿にあくがれて、 我を忘れた粗忽の振舞、深くお咎め下さいますな。」

いよ〜不思議な彼の言葉にいつはりがないとすれば、自分も行つてその實を見たいと、 イーヴは好竒の心に前後の辧《わきま》へもなく、例へば、人里の遠い枯野の末に、巡禮一人行き暮れて、 怪しい鬼火に誘はれつゝ、路のない原を辿つて、底のない沼に落ちるやうに、 恐ろしい毒蛇の口車に乘つて、禁制の智慧の樹さして急いで行つた。

「お前が譽めたゝへたのは何處にある?これは智慧の樹と云つて、私逹の手にも觸るべきではない。 この實を味はつたお前の口が自在に人の言葉を使ひわけるのは無理はない。けれども、 私逹には大神の恐ろしい掟《おきて》があるのを何うしやうもない。」

さすがに我にかへつて、思はず身を震はすと、こゝぞ大事の瀬戸際と、此方は聲を勵まして、言葉巧みに説き立てた。

「宇宙の女帝よ。天罰の虚喝《からおどし》は恐るゝに足らない。御身は不老不死の靈體を有つてゐる。 木の實の一片《ひときれ》を味つて死ぬやうなことは、御身の靈體にあるべきことではない。 いやしい蟲けらの我々でさへ、天罰も受けなければ死にもしないで、却つてその爲めに一層幸福な身となつた。 蟲けらにそれを容《ゆる》して、蟲けら以上の人間にはそれを許さないであらうか? 人の一命を木の實の一片にかへるといふやうなことは、大慈大悲の聞えある大神の御意ではなくて、 殘忍酷薄な惡魔王の心であらう。善を知るのが惡いか、惡を知るのが惡いか?善を知れば善を行ひやすく、 惡を知れば惡を避けるのに都合がよい。能く善を知り、能く惡を知る者は、やがて神となるであらう。 御身一度善惡の木の實を味はつたなら、一躍して天上界の女神の群に入るに相違がないから、 それを嫉む者があつて、そのやうな埒もことをいひ振らしたのであらう。よしんば彼等の傳説にいつはりなく、 善惡の美味を獨り占めて、うらやましさうに開いた人間の口に唾を吐くのは、 かういふ蟲けらにも劣つた仕打で、神なぞとは想ひも寄らない。人間の向上を嫉むのは惡魔である。 惡魔の戲言《たはごと》に聞きおぢするのは、宇宙の女王陛下たる御身にふさはしくはない。 さあ、かの美味を手にとつて、誰憚らずお味ひなさいまし。」

やがて、晝餉《ひるげ》の時刻にもなつて、さうでなくても空腹を覺える折柄、目には美はしい色を見、 鼻に妙なる香を嗅ぎつゝ、聞けば聞くほど心地よい彼が言葉に、あはれむべきイーヴが胸は頻りにときめいて、 氣も魂も身に添はない。

「名もかんばしい智慧の實よ。お前の味のよさは、聲のない蟲けらの聲を立てゝ、 お前の徳を歌ふのでも知られた。おそろしいあの掟《おきて》が眞實《まこと》大神の本意なら、 お前の名のかんばしさは罪のない人の子を誘つて、 深い〜罪の淵に陷れる氣懶《けうと》い穽《おとしあな》とも見做されるであらうし、 また、大慈大悲の御名の汚れともなるであらう。知らない善は行ふに由なく、 知らないで行つたのは善といふだけの價値《ねうち》がない。善を知るのを憎み、 知見を開くのを厭ふのは、いかにも惡魔の外にあらうとも思はれない。 地に腹匍ふ蟲けらさへ、天の美食を獨り占めようといふ卑しい心がなく、かうも優しげに我にもすゝめて、 共に樂しみ、共に喜ばうとするのを思ふと、天より高く地よりも廣い大神の胸のうちに、 さうした汚い御心のあらう筈がなく、死とやら、天罰とやら、 さうした忌はしいものがこの世にあるべき理由《いはれ》もあるまい。」

かう獨り言を言ひながら我知らぬ間に手をさし延べて、荒々しく叩き落した智慧の實を、餓鬼のやうに貪り喰つた。 あゝ、墮落!未來永劫、浮む瀬のない人間の墮落はこゝ始まつた。天これが爲めに流涕《りうてい》し、 地これが爲めに慟哭しても、あゝ、もう萬事は休してしまつた。

拜殿に忍び入つて、靈酒を盜み飮み、醉ひしれては膽《きも》太くも、神に向つて戲言《ざれごと》を吐く小盜人のやうに、 天國の美味に心の遠くなつたイーヴは、毒蛇の逃げ去つたのに氣もつかないで、 智慧の樹を仰いで獨りうれしさうに笑ひ興じた。

「かくもめでたい木の實をば雨風の餌として、その儘に棄てゝ顧みなかつたのは、我ながら何といふ愚かさであらう。 やさしい蛇の注意《こゝろづけ》がなかつたら、いつまでも天罰の虚喝《からおどし》を恐れて、 あたら眞玉《またま》を淵に沈める心であつたか?天は高くて地は低い。いかに全能の大神でも、 地上に起る數限りのない出來事をば、殘らず見きはめるやうな煩はしさに堪へられまい。 大神の周圍《まはり》にには[原文のまま]多くの天津御使《あまつみつかひ》があつて、 四方八方に目を配つてゐるといふから、それに心ゆるして、私逹のことなどは想ひも寄るまい。 おそろしいあの掟が、眞實《まこと》大神の御意《みこゝろ》から出たとしても、 右のやうな次第だとすれば、天罰の恐れもあるまい。 たゞ氣遣はしいのは我が背アダムの了見《れうけ》ばかり。事の始末を詳しく彼に語つて、 この樂しみを彼と共に樂しまうか?或は深くこれを祕め置き、我獨り美しい女神となつて、 彼の驚き仰ぐを樂しまうか?けれども、萬が一にも天罰我が頭上に落ちて來て、獨り死の鰐口に噛み碎かれたら、 幸にして生き殘つた彼は、私が事などは夢にも想ひ出さないで、第二のイーヴと共に樂しい月日を樂しむであらう。 生を喜んだり、死を嫌つたりするのは、所詮はなつかしい彼のあればこそで、彼がなかつたら、 淨土も穢土とかはりはない。それなら、寧《いつ》そ淨土の美味を彼にも與へて、 常世《とこよ》の春の長閑《のど》かな空に、二人樂しく天翔《あまがけ》りつゝ、 男神女神《をがみめがみ》の羽袖を並べようか?」

(九)墮落

人間界に於ける空前絶後の大事變が蝶舞ひ鳥歌ふこの樂園の眞中に起つたとは露知らず、白藤の花冠を編んで、 優しいイーヴが笑顏を見ようと、アダムはいそ〜我が家に歸つて、彼女が歸りを今か〜と待つてゐた。 然るに正午《ひる》になつても音がなく、やがて、何やら頻りに胸騷ぎがするので、さては、 彼女の身に變事があつたのではないかと、獨り心を痛めながら、彼方の森に向つて力なげに足を運んだ。

かんばしい智慧の樹の一枝をかついで、何笑ましげに歸つて來るイーヴ、アダムの姿を見るより早く驅け寄つて、 さも誇らしげに一部始終を物語つた。

「夫《せ》の君アダム、餘りに遲かつた私の歸りを、嘸《さ》ぞかし待ちくたびれたでせう。 詰らないことを言ひ出して、御身を惱まし、また、自分をも苦しめたのは、深い思慮のない私の罪と、 今更悔いてもその甲斐はあるまい。けれども、こゝに珍しくもまた不思議なのは、かの智慧の樹の事! あの樹は神木には相違ないが、私逹の聞いたのとは反對《うらはら》に、一度その實を味へば、 いやしい人間の形骸《かたち》も忽ち智見すぐれた靈體となつて、神通自在な神々の群に入るべく、 現に塵を甜《な》めるといふ蟲けらの中にも、それを味つた者があつたが、おそろしい天罰も受けず、 けうとい死の影にも逢はないで、却つて我々にも優るほどの思想と辯舌とを兼ね得たといふはなし。 爭ひがたいこの實證に心が動いて、私も試みにその一片《ひときれ》を味ひましたが、 いかにも神木の靈效はその場に現はれて、目いよ〜明かに、耳いよ〜聰く、心はます〜神々しく、 我ながら靈智の底が知れなくなりました。しかし、私が神通力を得たとて、 御身がまだいやしい人間の形骸《かたち》を脱しなければ、神と人とを隔てる雲の八重垣《やへがき》に遮られて、 長《とこし》へに逢瀬波寄る天の河原に、誰を片おもひの貝がら拾ふのも心細いゆゑ、 御身にもすゝめて、常世《とこよ》の春の長閑《のど》かな空に、二人樂しく天翔りつゝ、 男神女神の羽袖を並ぶべく、芳しい情《なさけ》の露もこぼさないで手折つて來たこの土産《いへづと》、 さあ〜遠慮なくめしあがれ。」

青天の霹靂にも似た彼女が言葉に、アダムの面色《めんしよく》は見る〜土のごとく、肉?顫《ふる》ひ、 骨?戰《おのゝ》いて、さながら雷火に打たれた枯木《こぼく》の姿あはれに、 しばらく聲も立たなければ涙も出なかつた。

「あゝ、地上の天女たる尊い、氣高い、優しい、なつかしいイーヴは、思慮淺くも誘惑の網にかゝり、 おそろしい大罪を犯して、けうとい死の青淵《あおぶち》に片脚を入れた。我が半身たる彼女の墮落は、 やがて彼女の半身たる我が墮落である。春の花、秋の月、彼女があればこそ樂しいのに、 我が月の消えた闇の世の我が花の散つた森蔭に、我只一人生き殘つても、何春秋の樂しからうぞ。 よしんば第二のイーヴに逢ふことがあらうとも、散つた花が枝にかへり、消えた月が空にかへる時は何時《いつ》? 所詮、我が骨であり肉である彼女と離れて、獨り長らへ得べき我が命ではないから、 苦も樂も共にするの外はあるまい。」

かう思案を定めて、落ちる涙を呑みながら、彼はやう〜口を開いた。

「大膽なイーヴよ、おそろしい大罪をば、御身はよくも犯し居つたな。しかし、過ぎ去つたことは追ふこともならず、 已に成し了つたことは止めやうもない。今はたゞ運を天にまかせて、騎虎《きこ》の勢に乘るより外はない。 あの蛇の言葉が眞實なら、よしや神とはなれないまでも、死の顎口を脱《のが》れることは出來るかも知れない。 立派に造つた我々二人を、一時の怒りにまかせて、跡形もなく亡すのは餘りに短慮で、全能の御名にも適ふまじく、 口さがない惡魔どもに後指さゝれる恐れもあらう。いづれにしても我が骨であり肉である御身と離れて、 獨り長らへ得べき我が身ではないから、是非なくこの命を御身にゆだねて、共に生死を決することにしよう。」

これを聞いたイーヴは早や天へでも登つたやうな心持で、うれし泣きの涙をすゝりながら言ふ。

「命にかへても私を棄てない御身の情《なさけ》の深さは、底のない海の深さにも優るであらう。 けれども、御身の命を危くするやうなことがあつたら、寧《いつ》そ私獨り死の青淵に沈んでも厭はない。 事の始末を御身に語つたのは、そのやうな恐れのない實證を見、且つ私自身が試みた上だから、さあ、 遠慮なくめしあがれ。」

外面如菩薩《げめんによぼさつ》の空涙《そらなみだ》に迷つて、あゝ、遂にアダムの鐡石心は熔《とろ》けた。 かんばしい香に鼻を鳴らし、甘美な味に舌を打ちながら、彼もまたこの世ながらの餓鬼となつた。

神木の靈效は立ちどころに現はれた。二人は泥のやうに醉つて、大地狹しとよろめきながら、 頻りに脇腹を撫でゝ、早や天人の群に入つたやうな言葉使ひ可笑しく、暫時うれしげに躍りくたびれて、 やがて、日ざかり涼しい晝寢の床に果敢《はか》ない夢を貪つた。

神木の靈效は彌著《いやいちぢる》しく現はれた。粟飯かしぐほどの夢の間に、 無邪清淨であつた彼等が五體は、穢《きたな》い塵土の昔に歸つて、 妹背《いもせ》の神山に似た神々しさも、今は煤烟《ばいえん》いぶせき煙突の姿淺間しく、 長へに煩惱の焔を吐いた。

「うたゝねの夢の間にも變り果てたこの態《さま》は、思慮淺い御身が罪と思へば〜憎いイーヴよ、 御身が言葉の通り、あの一片《ひときれ》を味つてから、いかにも我が眼力は鋭くなつたやうだ。 しかし、善を失つて惡を得たのを見る爲めならば、寧ろこの眼力の鈍い方がよかつたのだ。 無邪清淨の道念は我等を保護する羽衣であつたのに、その羽衣は何處へか奪ひ去られて、 今や我々は眞の赤裸《あかはだか》となつた。御身の膽《きも》は太いから、このやうな醜い態を青天白日に曝《さら》しても、 少しも疚《やま》しい所はないであらう。しかし、私の膽《きも》は太くないから、 仰いで天に恥ぢ、俯して地に恥ぢ、天と地の間に身の置き所がないのが悲しい。 あゝ、汝、花の林よ、我が爲めに花の衣を裁《た》つてくれないか?あゝ、汝、霞の山よ、 我が爲めに霞の帶を縫つてくれないか?」

呼んでも、叫んでも、花の唇は堅く閉ぢ、霞の息に音もなく、たゞ氣懶《けうと》い木魂《こだま》の笑ふ聲ばかりが聞えた。

青天白日のまばゆい光に恥ぢて、やがて彼等は晝なほ暗い森の奧に身を隱しつゝ、 つゞれさせといふ蟲の音に、怪しい落葉衣をつゞくつた。

「さても〜變り果てたこの態《さま》は、皆これ思慮淺い御身の罪と、思へば〜憎いイーヴよ。 御身?從順《すなほ》に私の言葉を用ゐて、私の傍を離れなかつたら、このやうな憂い目に逢ふこともなく、 今なほ幸福に暮らせるのに、我《が》強いことを言ひ張つて、不覺にも惡魔の係蹄《わな》にかゝり、 他《 ひと》をも身をも苦しめつゝ、それでもまだ後悔することを知らないのか? 誘惑の試金石に逢はなかつたら、道念の堅さを誇るに足らないなぞと、廣言を吐いたその舌の根がまだ乾かないのに、 淺間しいこの有樣は何といふ事であらう?あゝ、婦女子の誓言ほど頼母しくないものは世の中にはない。」

餘りの口惜しさに女々しくもならべ立てる愚癡の繰言《くりごと》をば、高い鼻の先であしらひながら、 イーヴはうすい唇をそらして言ふ。

「心のつめたいアダムよ。そんなに獨り賢さうに物を言ふものではない。いくら御身の思慮が深くても、 あの變幻自在な妖魔の術を何うして看破ることが出來よう。それほど賢い御身なら、 從順《すなほ》でなかつた私の手を押へ、私の足を縛つても、御身の傍を離さないのがよかつたのに、 そうはしないで、危險の眼の前に近寄るのを見ながら、何故快く追放《おつぱな》したのですか? 私逹の墮落の原因は全く御身の心が餘りに弱かつたといふ點にあるのだから、私は御身に對して怨みはあつても、 小言をいはれる覺えは兎の毛もありませんよ。」

鷺を烏《からす》といひ黒めようとするあつかましさに、アダムは怒の眼《まな》ざし鋭く、 拳《こぶし》を握つて詰め寄つた。

「恩知らずのイーヴよ。光榮《はえ》ある女神の群に入る筈であつた御身は、 淺間しくも恩に報ゆるに讐《あだ》を以てする禽獸の群に入つた。御身の死を他《よそ》に見ながら、 我一人この樂土に生き殘つて、美しい第二のイーヴと共に樂しい年月を樂しむことも心のまゝであつたのに、 大神の御意《みこゝろ》に背いてまで、御身と生死を共にするのは、深い〜我が情《なさけ》とも知らないで、 却つてその罪を我に塗りつけようとする、その心根の汚さには驚き呆れて物も言へない。我々の墮落は、 私の心が弱かつたからではなく、御身の智慧が淺かつたからである。否、御身の道念が想ひの外に堅くなかつたからである。 危險の近寄るのを知りながら、快く御身を放してやつたのは、御身にも靈智があり、道念があつて、 能く誘惑の試金石に堪へ得ると信じたからである。誘惑の試金石に逢はなければ、道念の堅さも誇るには足らないなぞと、 廣言を吐いた御身を御するのに、禽獸にも加へがたい暴力を以てしなかつたのに、何の不思議があるものか。 所詮、私の不覺は御身の虚言《そらごと》を信じ過《すぐ》したといふ點にある。否、禽獸に等しい御身をば、 人間と同一に視たといふ點にある。この毒蛇め、他《 ひと》に向つて毒言を吐くよりは、 先づその舌を噛んで自分の罪の痛さを知るがよい。」

墮落の淵に沈んだ彼等二人は、斯うした無益な爭論《いさかひ》に樂しくもない日を送つた。

樂園の守護神として東門内に控へたゲーブリエルの一隊は、彼等の墮落に遂に救ひがたい樣子を見て、 急いでその旨を叡聞《えいぶん》に逹すべく、羽袖を連ねて天門に向つた。

(十)神裁

神寵《しんちよう》比《たぐ》ひなかつた人間の墮落は、守護神隊の急報によつて、普《あまね》く天上界に知れ渡つた。 變を聞いて、東西南北から神都をさして驅け集つた八百萬《やほよろづ》の神々、いづれも畏れかしこみて天機を伺つた。 大御言《おほみこと》にいはく、

「朕《われ》、人間に自由の精神と自由の意志を與へた。されば、己に出たものは、やがて己に返る。 その罪があれば、その罰これに從ふ。朕、神子を下界に遣はして、天罰の鐡笏を彼等の頭上に加へしめる。 さりながら、慈悲深い神子の願により、下界の事は一切その所置に委ねて置いたから、彼等に悔悟の實さへあるなら、 再び幸福な身となることも、必ずしも困難ではない。」

一同天意の動かしがたい樣子を見て、神子を送つて天門に出て、遙かに下界を望みつゝ、 憫れむべき人類の爲めに熱い同情の涙を濺《そゝ》いだ。

神子を乘せた四天使王の羽袖が、樂園の一角、東門脇の崕の上に止まつたのは、 日の入り方の野路に、山路に、千草の蟲の聲々清く、昔ながらの夕の祈祷《いのり》をあげる頃なのに、 神を忘れたアダムとイーヴの妹《いも》と背《せ》は、今日もまた晝なほ暗い森の木蔭に横はりつゝ、 無益の爭論《いさかひ》に日の暮れるのも知らない。やがて、何處からともなく薫つて來る氣高い物の香に、 早くも神子の天降《あまくだ》つたのに心づき、互に何やらさゝやいて、獵男《さつを》に追はれた兎のやうに、 あわたゞしげに木下闇《きのしたやみ》に身を隱した。

「アダムは何處《いづこ》?雲井遙かに朕《わ》が姿の現はれるを見るより早く、 足を空にして出迎へるのを常としたアダムは何處?朕が來たのにも心づかないのであるか、或はまた、 手放しがたい所用《よう》でもあるのか?」

大地の底までも響き渡りさうな御聲高らかに呼び立てられて、二人は迯げようにも途《みち》がなく、 隱れようにも蔭がなく、小鬢《こびん》にかゝつた蜘蛛の巣を拂ひながら、 御前《みまえ》に向つて屠所《としよ》の羊のあゆみを運んだ。

「御足の音は彼處《かしこ》で聞きましたけれども、御聲を恐れ、且つは我が裸體恥ぢて、しばらく木蔭に退いてゐました。」

恥かしげに口ごもりながら、手足を縮めてうづくまつたアダムの姿を、不思議さうに打見やりつゝ、 神子は御言葉やさしく責め問はれた。

「朕が聲は汝が耳に馴れてゐる筈。喜んで朕が聲を聞いた汝が、今俄に朕が聲を恐れるのはいぶかしい。 また、何時《いつ》の間に、何人に聞いて、その身が裸體であるのを知つたのか? 朕の推察が違はなければ、汝等二人はあの禁制の神木に手を觸れたのであらう。」

いかに人間が口賢くても、全知全能の御神を欺くことは、到底出來ることではない。 なまなかに隱しだてすると、却つて後の爲めが惡いであらうと思つて言つた。

「今は何を包み隱しませう? 我が配偶《とも》として大神の降《くだ》し置かれたこの婦人《をんな》の理《わり》ない勸めにより、 心ならずもあの實の一片《ひときれ》を味ひました。」

「これは怪しからぬことをいふものかな。イーヴは汝を支配する大神でもあるのか? 眞《まこと》の大神の御言葉に背いてまでも、彼女の言葉に從はなければならないのか? いかにも美しい彼女の姿は汝の愛を牽くには足るであらうが、その愛に溺れて自分の本分を忘れたのは、 その罪固より汝にあると見なければならない。」

さて、墮落の張本たるイーヴに向つては、多言を費す必要もなければ、御言葉も極めて簡單である。

「さあ、女、汝の罪の次第を言へ。」

鷺を烏といひ黒めるほどの辯舌も、神子の前ではさながら唖者のやうで、 幾度か言ひにくさうに顏赧らめつゝ、蚊の泣くやうにつぶやいた。

「口賢しい蛇に欺かれて、我知らぬ間に、あの實の一片《ひときれ》を味ひました。」

そこで、神子はかの惡魔を宿した毒蛇を呼び出して、おごそかに申渡された。

「野に彷徨《さまよ》ふ生物の數は多いが、その罪業の深さに於て、汝に及ぶものは一つもない。 朕、汝が輩《ともがら》をして終生地に腹匍ひ、塵土を甜《な》めて、未來永劫、浮む瀬なからしめる。 且、彼女と汝と、彼女の子孫と汝の子孫との間に、不倶戴天の怨念を抱かしめて、互に相傷つけ、相害《そこな》はしめる。」

次にイーヴに向つて、

「朕《われ》、懷胎といふことによつて汝の悲しみを加へしめよう。汝は四苦八苦のうちに子を設けるであらう。 そして、汝の夫の意のまゝに働いて、その命令に驅使せられるのを厭つてはならない。」

最後にアダムに向つて、

「智慧淺い女人の言葉を聽き、全知全能の大御言に背いて、禁制の神木を汚した汝が爲めには、 その神木を生じた大地が怨めしいであらう。されば、怨めしいその大地に鍬《くは》を入れて、 額に流れる玉の汗を以てその日〜の麺麭《ぱん》を買ひつゝ、大地から出た汝の五體が、 やがてその大地に歸る日を待つがよい。」

彼等の運命は定まつた。彼等は今から大慈大悲の御手を離れて、波風荒い浮世の人とならなければならない。 それにしても、かう裸體のまゝでは、今までと違つて、寒暑を凌ぐのにも便宜《たより》が惡からうといふので、 御情《みなさけ》厚い毛衣を作つて、顫《わなゝ》き震へる彼等の與へ、やがて、 四天使王は羽袖輕く、夕月の空に消え失せ給ふた。

*      *      *      *      *      *

此處地獄の大門内に、妖魔罪姫が四邊《あたり》憚らぬ聲高く、今しも怪魔デッスを呼んで、 何やら樂しげに話しかける。

「大奈落の王たるお前の父セータンが、私逹をはじめ、死地に陷つた神々の爲めに、一條の活路を開かうと、 魔界の重責を一身に背負つて、新世界探檢の途《みち》に上つてからといふもの、消息を聞かないこと、 もう幾日になるであらう?その間、私逹は何もしないで、只茫然として、空しく時を過した。 大王が私逹の追從を禁ぜられたのには深い仔細があつたらうが、 苟くも大奈落の王が四面皆敵なる天の涯h《はて》地の角《すみ》に、千辛萬苦を甜《な》めて居られるのを他《よそ》に見て、 なほ何時《いつ》までもかうして居るのは、餘りに氣が利かない。よしんば、大王の本意に背いても、 私逹の本分を盡す爲めには、片時もこんな場所《ところ》に愚圖ついて居るべきではない。 且、大王の武運が拙くて事がもし失敗に終つたのなら、再びあの雷火の追はれてこの地獄へ墜ちて來る筈だのに、 今になつても何の消息も無いのをみると、この度の事は成功に相違ないと思はれる。久しく夢にのみ見た新世界をば、 目の前に見るのも近いうちである。私逹も分相應の勳功《いさを》を立てゝ、 この鴻恩《こうおん》の萬が一に報いなければならない。さあ、これから新世界征服の記念として、 彼處と此處とを隔てる曠漠無邊の渾沌界に一つの大きな橋を架けて、 光榮比《たぐ》ひなき大勝利者の凱旋を待たうではないか。」

勇ましげな罪姫の言葉に、デッスは小躍りして喜びつゝ、打連なつて獄を出で、前にセータンが殘した足跡を傳つて、 曠漠無邊の渾沌界に分け入り、無敵の怪力を揮《ふる》つて、手に觸れ足に觸れるものをば、 火となく、水となく、風となく、土となく、片端から石となし、岩となして、見る〜奈落と新世界との間に、 長《とこし》へに消えない夕虹のやうな、廣い石路を開き、岩の浮橋を架けた。

これより先き、セータンは、巧みにイーヴを欺いて首尾よくアダムを邪道に引き入れた後、 しばらく木蔭に潛んで、なほも彼等の成行きをうかゞひ、 遠征の目的が全く成就したのを見きはめたので、急ぎ蛇の薄衣《うすぎぬ》をば美小天使の蝉の羽袖に脱ぎかへて、 今度はユーリエルの鋭い眼にも見咎められないで、再び星の群る中を分けて、左手の流星を拂ひ、 右手の彗星を踏み飛ばしつゝ、難無く新世界を脱《のが》れいでゝ、今しも渾沌界のほとりに來てみれば、 かの大獄門に殘して置いた罪と死との二荒神が、何時《いつ》の間にか曠漠無邊の境に一大橋梁を架して、 光榮?比《たぐ》ひなき我が凱旋を待ち受ける殊勝さ!

「我妹《わぎも》よ、我が子よ、お前逹のこの度の勳功《いさを》は、まことにセータンが骨肉たるに恥ぢない。 さしも難所と聞えた大渾沌界も、これからは神人往來の巷となつて、奈落の獄門に一大市場を現ずるであらう。 朕《われ》はこの吉報を齎《もたら》して衆魔殿に急がう。お前逹は朕が大使として直ぐに新世界に入り、 朕が大衆を率ゐて歸つて來る日まで、地上の警備《かため》を怠るな。」

片時も早く奈落に歸つて、我が大功を部下の衆魔に誇らうと、心急きに急いたセータンは、 言葉せはしく罪と死に別れを告げて、廣い石路に砂煙を捲き、岩の浮橋に火花を散らしつゝ、眞一文字に大獄門を驅け拔け、 火の荒海を跳り越へて、メムフィスの高塔に似た大奈落王の形相おそろしく、忽ち衆魔殿の眞只中に現はれた。

新世界からの吉報を待ちかねて、この衆魔殿の大廣間に集り、連日の會議に神疲れ、氣倦んで、太い溜息もつきかねる折柄、 想ひもかけぬ大王の凱旋は、これこそ眞の地獄に佛なので、一同思はず手を合せて、 隨喜の涙は雨霰と降つた。あゝ、大奈落王たるセータンが得意の頂點は今この刹那であつた。

「諸神、朕《われ》、諸卿を呼ぶに敢てこの名に以てする。光榮《はえ》ある天上の諸神よ、 既に失はれた天國は、朕が努力によつて、再び諸神の所有《もの》となつた。 諸神は、平和なく、安息なく、悲、哀、痛、苦、あらゆる酸味を集めたこの絶望の淵を出て、 今から光明かんばしいあの新樂土に入るがよい。諸神の咽喉は渇いてゐる。諸神の腹は餓ゑてゐる。 諸神の魂は已にかの地に行つてゐるであらう。されば、大千世界の蒼穹を踏破し盡した朕が千辛萬苦の長談義に、 心の急いてゐる諸神を苦しめることをやめて、 第二の天國たるかの地の首尾よく朕《わ》が手に入つた一條の概略《あらまし》だけを語らふ。 朕、千辛萬苦の末、塵を甜《な》めるといふ卑しい蛇に身を扮《やつ》して、先づ智慧淺い善女イーヴを欺き、 次に心の弱い善男アダムをも邪道に導き、試みに彼等をして禁制の林檎の實を味はしめたところ、 天帝の怒り想ひの外に烈しく、短慮にも兩人、並びに兩人の棲む地球をも投げ棄てゝ、 氣懶《けうと》い罪と死の餌食としてしまつた。一つの林檎の爲めに優れた人類と美しい世界とを併せて棄てるといふのは、 寧ろ滑稽にも考へられるか、兎に角、さうして朕が千辛萬苦も水の泡とはならないで、 僅か一擧手一投足の勞を以て諸神の爲めに第二の天國を建立することを得たのである。 あゝ、遂に時は來た。起てよ〜、天上の諸神!」

大殿堂も覆るばかりの大喝采に引きかへて、怪くも鳴り渡る物音は、地獄の大釜から洩れて出る湯氣の響のごとく、 正しく我を叱咤しようとするやうな氣色《けはひ》に、さしもの魔王も驚き呆れて、 しばらく茫然として佇むほどなく、なほ怪しくもその顏は縮まり、その腕は肋《あばら》に纒《まと》ひ、 その脚は一つに捩れて、根こそぎにした大木の音すさまじく、高座《たかくら》の高い所から倒れ落ちて、 起たうとしても起たれないのに氣を焦《いら》ちつゝ、聲高らかに叫ばうとしても、たゞシュウ〜といふ音ばかりして、 思ひのまゝに舌も廻らないのに、いよ〜驚いて、ふとその身を顧みると、これはそも〜何といふ事であらう。 大天使王の玉體は何時《いつ》の間にかすばらしい大蛇の姿となつてゐた。さては、あの怪しい物音も、 我を叱咤するのではなくて、彼等もまた我と運命を共にしたのかと、やをら鎌首を擧げて四邊《あたり》を見まはすと、 今の今まで花の羽衣をならべた一堂のうちに、見るもおそろしい大蛇、小蛇、山のやうにうづ高く、 得もいはれない惡臭と惡氣に、さしも莊嚴華美を極めた衆間殿も、見る〜熔《とろ》け去つて、 さながら風に消えゆく大蜃氣樓の影も形も殘らなくなつた。

(十一)失樂園

人類守護の神々、エデンの山路を去つて、罪と死の二怪魔がタイグリスの川邊にあらはれたその日から、 地上の形勢は俄かに一變して、第二の天國であつた安樂園にさへ、木枯吹きすさぶ小夜《さよ》更けて、 夜露つめたい芝生の上に、アダムは獨り足を投げだして、月のない空を仰ぎながら、 彗星のやうに逸し去つた昨日の快樂の行方を慕ひ、隕石のやうに墮落した今のこの身の行末を想ふのである。

「あゝ、美しい世界の果はこれか?美しい世界の花であつた人間の果はこれか? さても變り果てた世の中に、さても〜變り果てた我が身ではある。然し、我が悲しみのこゝで止まるものなら、 所詮免れ難い我が罪と諦められもしようが、なほこの上にどのやうな苦しみが續いて來るかも分らないのを思ふと、 廣い大地に憂身《うきみ》一つの置き所さへないのに、數限りない子孫の生れて來て、我が細腕にからまり、 我が痩脛《やせずね》に纒《まつ》はるやうになつたら、何《ど》うなりゆく我が世であらうぞ? 想へば〜怨めしい大神よ。この身あればこそこの苦しみもあるのだが、この身さへなかつたなら、 この苦しみもあるまいに、何故、この世に苦しむこの身をば造られたのか? 我に一言の斷りもなくこのやうな憂身《うきみ》を造つて、無理難題の掟を設け、 なほ無體にも罪の青淵《あおぶち》に陷れて、永劫の苦にうめき苦しませるとは、抑々何といふ非道の仕方であらう? 我に先見の明があつたなら、我が生誕のその初めに、憚りなくかの難題を斥けるのであつたのに、 既に罪の青淵《あおぶち》に沈んだ今になつては、いかほど悔いてもその甲斐はあるまい。 とはいえ、假に、我に不孝の子があつて、我を責めること我の大神を責めるのと同じ場合があるとしたら、 我よくその責を負つて、彼が不孝を看過《みすご》すであらうか? かう飜つて考へると、我が託つ喞《かこ》つ言もその理由《いはれ》なく、所詮は免れ難いのは我が大罪である、 然らば、その大罪の報いとして、天罰立ちどころに我が頭上に下る筈だのに、いつまで半死の苦にうめくべき我が命であらう? 今は氣うとい死の神が却つて慕はしく、塵から出たこの身が塵に歸る日が待たれもする。 我が生みの母たる大地の膝にもたれて、心やすく結ぶ長夜の夢路には、呵責の鞭のひゞきもなく、 おそろしい神雷のとゞろきもないであらう。あゝ、死よ、死よ、何故、片時も早く來ないのか?いかに全能の大神であつても、 無限の怒りを有限《うげん》のこの身にはうつし難いので數知れない我が子孫の生れて來る日を待つて、 心ゆくまで天罰の鐡笏を揮《ふる》はうといふ御意《みこゝろ》であらうか? 我が罪は我一人の罪であるのに、我が子孫にまでも及ぼさうといふのは、非道にも程がある。 しかし、彼もし我が願を容れて、幾億の子孫に頒《わか》ち與ふべき一切の罪をば、 我たゞ一人のやせたこの肩に投げかけようといふ時、全地球よりもまだ重いその重荷に、 我能く堪ふるの勇氣があるか?あゝ、死よ、死よ、來つて我が肉を裂け、急ぎ來つて我が骨を碎けよ。」

我が手で我が頭を撃ち、我が胸を叩いて、絶え入るばかりに悶え苦しんだ。想ひは同じイーヴも、 彼方《あちら》の木の根に身を投げ伏して、悲嘆の涙に咽んでゐたが、餘りに苦しげなアダムが樣を、 さすがに見すてゝも置かれないので、そろ〜と此方へよろめいて來て、言葉やさしく言ひ慰めた。 しかし、此方は情《すげ》なく顏を背けて、且つ喞《かこ》ち、且つ怨みつゝ、なほも絶え入るばかりに悶え苦しんだ。

「退《さが》れ、毒蛇!お前の姿は人間に似てゐるが、心は毒蛇よりもおそろしい。あゝ、神よ、 全智の名ある大神よ、天上の神には男女の別がないと聞くのに、何故、下界にのみこのやうな妖魔を造つたのか? 子孫蕃殖の爲めなら、他にその途《みち》もあらうに、これはまた何といふ惡戲《いたづら》であらう? あゝ、かへす〜゛も怨めしい大神よ!」

今はイーヴも前のやうに言ひ爭ふ力もなく、落ちる涙を拂はうともせずに、アダムが足下にひれ伏した。

「許して下さい、夫《せ》の君。御身の怒りに無理はないが、私の命とも頼む御身に棄てられたら、 死んだにも等しいこの體を、さう憎々しげに卻けて下さるな。御身には罪も科《とが》もないけれど、 もし有るとすれば、それは私の罪科《つみとが》の半分にも足らないのだから、 その苦しみもまた半分にも及ぶまい。私には、神に對すると御身に對すると、この二重の大罪がある。 今更?謝罪《わび》の八千度《やちたび》を繰返しても、御身の怒りは解けまいから、最後の裁判《さばき》のある折には、 墮落の張本たる私の身一つに一切の罪を負つて、御身に對する私が大罪の幾分を償ひませう。 いづれにしても助かりがたいこの身を、せめては蟲の呼吸《いき》の通ふ間でも、 やさしい言葉をかけて下さい。」

我《が》強く拗《くね》つたことはあつても、元より女性《によしやう》の心弱くて、 此方《こちら》を杖柱とも頼んて[原文のまま]ゐればこそ、かう足下にひれ伏して、 謝罪《わび》の八千度《やちたび》繰返すものを、いかにアダムの怒りが烈しいとて、 情《すげ》なう跳ね卻けるにも忍びない。

「御身の言葉は殊勝らしいが、我が怒りにさへ堪へかねる身で、何《ど》うしてあの恐ろしい大神の怒りに堪へよう。 然し、かよわい御身にすらさうした覺悟がある上は、我いかに女々しくても、御身に後れを取るべきではない。 最後の裁判《さばき》の折りには、自分が一切の責を負ふことにする。先づそれまでは無益な爭論《いさかひ》をやめて、 樂しくないうちにも、出來る限りの樂しみを樂しむのが賢からう。」

夫の心が少し和らいだのを見て、小さい胸を撫でおろしつゝ、イーヴはやう〜起き直つた。

「やさしい御身の一言によつて、死にかゝつてゐた我が身が俄によみがへつたやうな心地がする。 けれども、いつかは死ぬる私逹の行先を思ひ、 且つは私逹が犯した罪の僞め[原文のまま]に未來永劫その罰を受くべき幾億萬の子孫の嘆きを思ふと、 いつまでかうして居られる譯のものではない。子孫の無い今の間に覺悟しなければ、 いとしい子孫の生れて來た後になつて、臍を噛んでも遲いであらう。一日を長うすれば、一日だけの苦を増す身の上、 寧《いつ》そ死の鰐口に裂かれて、一思《ひとおもひ》に呼吸の根を斷ち、禍の根を斷つのが上分別であらう。」

顫《ふる》へる唇を噛みしめつゝ、思ひ込んださまで、アダムの顏を見つめた。 彼は心が動いた。彼はしばらく思ひに沈んだ。人類の存亡は彼の一言によつて決するのであつた。

「御身の覺悟も一理はあるが、自分には今一つの疑ひがある。御身の言葉のやうに、 一想ひに呼吸《いき》の根を斷つのは、或は容易《たやす》いかも知れないけれども、未來永劫浮む瀬のない筈の我々が、 さうして手輕く禍の根を斷つことは、到底望まれさうにも思はれない。天網がいかほどあらくても、 我々の大罪を洩らしはすまい。肉體の死と共に精靈の苦も熄《や》むものなら、 我々の死んだ後、神は何方《いづかた》に向つてその怒りをうつさう?全能の大神にさうした不用意があると思ふのは、 智慧の淺い人間の空想に過ぎない。なまなかに小才を弄《もてあそ》んで大威力の御怒を増すよりは、 寧ろ素直に御掟《みおきて》に從つて、御心の和らぐ日を心長く待つがよからう。且、大御子の御言葉によれば、 御身は毒蛇を敵として、彼と逢ふたびに彼の頭を叩き碎く筈なのに、御身が死んだ後は、 誰が天に代つて呵責の笞《しもと》を彼の頭に加へるであらう?苦痛々々と大袈裟に言ふが、 御身の將來の苦痛となるのは、僅かに懷胎の苦惱《なやみ》だけである。やがて、愛兒《まなご》の笑顏を見るやうになつたら、 その苦痛もいつしか忘れて、却つてその爲めに後の樂しみを増すかも分らない。 たゞこゝに心配なのは、かの守護神隊が退いてから、天地に大異變を生じて、暑い日ざかりには、燒き殺されるやうであり、 寒い夜更には、凍え死ぬるやうで、風吹けば荒く、雨降れば烈しく、時ならぬ稻妻閃き、神鳴り渡るなど、 餘りの物凄さに、身の置きどころもないことである。 しかし、囚人《めしうど》たるわれ〜の爲めに手づから毛衣を造つて下された大御子の御情《みなさけ》から推して考へると、 これもまた深く氣遣ふには及ばないのであらう、とにかく、われ〜の所有《もの》でないわれ〜の身と諦め、 御情あつい大御子の御手に縋《すが》つて、われ〜の天運の盡きる日を待つのがよいであらう。 さらば、我妹《わぎも》よ、彼方の森蔭に殘つた御足の跡に跪いて、涙の雨と吐息の霧とに大空を曇らしつゝ、 懺悔の赤心《まごゝろ》を雲井遙かに聞え上げようではないか。」

邪道に深入りしようとして、ふと正直に振り返つた彼の一言は、幾億萬の子孫を底無しの奈落から救ひ出した。

彼等が懺悔の赤心《まごゝろ》は直に天に通じたと見え、やがて大天使マイケルは大命を奉じて天降つた。 夢かとばかりに喜び迎へる二人に向つて、大天使はおごそかに天意を傳へた。

「二人の祈祷《いのり》をあはれと聞《きこ》しめされて、呵責の笞《しもと》をしばらくゆるめよとの大御言である。 今から善行を積んで怠らなければ、やがて恩赦の御沙汰に接することもあらう。さりながら、 已に汚れたその身をこの安樂園の淨土に久しくとどめ置くことは、神慮に叶はないから、 何處へでも立ち退くがよい。」

呵責の笞《しもと》をゆるめよとの大御言はかたじけないが、年久しく住み馴れたこの樂園を立ち卻けよとの嚴命は、 さすがに豫想の外に出たので、アダムは暗涙《あんるい》を呑んで言葉なく、 イーヴは身をふるはせて泣き崩れた。

「あゝ、なつかしい花の御園よ。汝と別れるのは死よりも悲しい。同じく死ぬるものなら、彼方《あちら》の森の下蔭にと、 手づから落葉を拂ひ、露の小草を刈つて、薔薇《さうび》の床をしつらへ、 小百合《さゆり》の褥《しとね》を敷きならべたのも、今はなか〜に物思ひの種となつた。その種の頃から土かひ、 水をそゝいで、いたはり育てた此方《こちら》の花壇の花の色々、今日は幾つの蕾愛らしいので、 明日は幾つの笑顏を見ようと、指折り數へて樂しんだのも、今はもう見ぬ世の夢となつた。 あゝ、なつかしい花の御園と別れて、波風荒い何處《いづく》の果の塵となるべき我が身であらう?」

想ひは同じアダムも、やがて、イーヴが嘆きの言葉に和して、大御使の足下にひれ伏した。

「大御言の旨は承りました。それを爭ひもどくのは、大空に向つて唾吐くやうなものではりますが、此處に生れ、 此處に育つて、此處から足を踏み出したこともなく、ゆく〜は此處の塵土とならうとばかり思ひ詰めてゐた我々二人に向つて、 今俄かに此處を立ち去れよとの嚴命は、實に死刑の宣告以上の大打撃と心得まする。 もし、我が願言《ねぎごと》が叶ふこともあるなら、朝な夕なに祈祷《いのり》の八千度《やちたび》繰返しつゝ、 我が子孫に向つて、朝露かんばしいかの丘の上こそ、天津大神の出現ましました場所《ところ》よ、 夕霧匂ふこの芝生こそ、天津大御子の我に言葉をかけさせられた場所よ、小夜風《さよかぜ》さゝやく彼方《あちら》の水際こそ、 天津大御使の憇はせられた場所よと、神寵のありがたかつた昔を語つて、感謝の涙に咽びもしよう、 今俄かにこの花園と別れては、あゝ、波風荒い何方《いづかた》の果に彷徨《さまよ》ひつゝ、 何方の空に向つて報恩の心持を聞えあげようぞ?」

血の涙の雨を降らしつゝ、哀訴の膝を八重に折つても、天意はもう微塵も動かない。 既に汚れたその醜骸《しうがい》を久しく淨土に留め置くことは、所詮神魔に叶ふべくもない。 しかし、大慈大悲の恩命によつて、マイケルは二人を樂園から追ふ前に、 墮落した人類の救濟が遠い後の世に出る救主《すくひぬし》によつて行はれることを示すべく、 イーヴを木蔭に眠らせて置いて、アダム一人を樂園の最高峰に導き、先づ、 其處から幻想によつてこれから追々と發展する全世界の名ある國や都を示し、次に、 彼等の子なるカインとアベルの慘劇から始まつて、ノアの大洪水、バベルの高塔の崩れたこと、 出埃及の困難、ダビデの讚歌、ソロモンの榮華、バビロンに於けるイズラエルの幽囚などをパノラマのやうに見せた後、 ダビデの末孫として生れた神子の假現《かげん》、死、復活、昇天の概略《あらまし》をうかゞはせた。 アダムは大天使の説明に滿足して山を下り、イーヴを起して、 正門の上に揮《ふる》ふチェラブ天人逹の火劍を後に見つゝ、二人悄然として手に手をとつて樂園を去つた。

--了--


osawa
更新日: 2003/02/16

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この版の最終更新日は「2009年11月23日」です。

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