底本:繪本 失樂園物語(冨山房百科文庫),冨山房,昭和十五年三月廿五日印刷,昭和十五年三月廿八日發行。
詩作の動機のかくの如く高遠なると共に、同じく古今に類を見ない『失樂園』の特色は、 その結構の偉大さであつて、彼の宇宙觀だけを觀てもその一端は窺はれ、 その偉大さはミルトンの精神の偉大さであり謂はゞ充實せる魄力の然らしむる所と看做し得る。
併しながら、一面『失樂園』の短所として、昔からこの作品の根幹をなす神學論が兎角問題視せられ、 又一層重大な非難として人間味の乏しいことが云はれてゐる。 ともあれ、所詮は「彼が歐州の思想を支配する一人たることを悟らぬ限り、 近代文學史は適當に諒解されぬ」といはれるまでに彼の文學史的位置は動かし難いし、 藝術家としての彼の手腕は、一、二の批評家を除けば、殆ど誰もこれにむかつて非難の聲をあげるものはなく、 いづれも最大級の讚辭を捧げてゐるところを觀れば、『失樂園』を以て不朽の名作とすることに誰しも異存はない。
併し我々はそれらの點のみを以て必讀の書とするものではない。 抑々歐州文學の底流をなす思潮がキリスト教である以上、 文學の理解は一にかゝつてこの宗教の理解にあることを思へば、この宗教思想の理解こそ先決問題でなければならぬ。 然るに我國の斯界を一瞥するに、誰しも一應はかゝる見解をもちつゝも、兎角忽諸に附せられてゐるのが現状である。 それ故にかゝる時、これが解決としてキリスト教の根本をなす原罪説の來由を知ることこそ愈々急務なるを覺え、 その理解に資する『失樂園』こそ正に必讀の書といはねばならぬ。
扨本書『失樂園』はミルトンの作品の梗概であつて、明治三十六年頃、 謂はゞ「外國の名著傑作がその名のみ事々しう持囃されてその實質の味ははれざること、 我が今日の讀書社會より甚しきはあるまじ」と歎ぜられ、且又名著の俤の要望頻りなる時代に應じてこれを 「歎かはしく思ふ心と、せめて名高き美人がおぼろの影法師なりとも見せて、情を尚び美を慕ふ向上の縁を作りたしと望む心」 とが動機となつて、坪内逍遙博士の發意に基き、博士みづから主宰して刊行された冨山房の「通俗世界文學」 第一編に收められてゐたものであるが、爾來幾星霜を經る今日においても、尚『失樂園』原著の祕鑰として、 將又美文の範例として愈々光彩を放ち、名作物語の名作たるを失はない。既に『物語』の編者によつて原著は完譯されてゐるが、 如上の理由からこゝに覆刻を敢へて行ひ、 これに配するにギュスターヴ・ドレの傑作として知られる『失樂園』の插畫の全部を以てして錦上花を添へたのである。
大魔王"Because thou hast done this, thou art accursed
Above all cattle, each beast of the field;
Upon the belly grovelling thou shalt go,
And dust shalt eat all the days of thy life.
Between thee and the woman I will put
Enmity, and between thine and her seed;
Her seed shall bruise thy head, thou bruise his heel."
天使王旗をあぐれば、
天使王矛をふるへば、
千萬《ちよろず》の羽ごろも靡《なび》く。
千萬《ちよろず》の羽ごろも破る。
神雷にかぶと碎けて、
黒けむり逆卷く空に、
落ち來る火焔の地獄。
なほ築く大蜃氣樓!
天門に古靴投げて、
雲くらく闇ふかき夜に、
拾ひえし奈落のかむり。
脱獄の途《みち》なきを恨む。
衆餓鬼の意氣に感じて、
常闇《とこやみ》の八重雲蹴つて、
鬼の眼になみだ聲あり。
羽ぬけ鳥いづくに急ぐ。
怨念の焔消えずば、
金城の扉をたゝけ、
荒神のつばさ乘りて、
蟷螂《たうらう》の斧折るゝまで。
大威力敵しがたくば、
毒杯に笑みを湛《たゝ》へよ、
火の海の仇波呑みて、
胸の火の燒け盡くる時。
凾關《かんくわん》の鷄や笑はむ、
塵 甜《な》むる蛇にやどりて、
いやしくも王たる魔王、
人妻の踵《きびす》にまとふ。
ニフェーチーズの山路の風に、
タイグリスの河瀬の月に、
罪姫の足趾《あしあと》さむし。
死の影のうそぶく夜毎。
常闇《とこやみ》の八重の雲間に、
混沌の底なき谷に、
誰が吐きし虹の廣路《ひろみち》。
誰が架けし夢の浮橋。
花ふゞき花園暮れて、
智慧の木の枯枝たかく、
蝶のから闇路に迷ふ。
ほとゝぎす萬古のうらみ。
末の世の賤《しづ》が垣根に、
音もなく香もなく眠る、
少女子《をとめご》が唾氣のつぶて、
天外の大天使王!
大御言《おほみこと》にいはく、
「朕《われ》、此度、一子を設けて、諸神の首位に置き、天國の政《まつりごと》を攝《たす》けしむ。 其命に背く者は、朕《わ》が命に背く者と同じく、天罰立ちどころに下りて、暗黒無底の奈落に墜ちむ。」
一同天意をかしこみ、いそ〜滿足の體《てい》にて、今日の好き日をことほがむため、 妙《たへ》なる樂の調《しらべ》に連れて、羽衣輕く舞ひつ、歌ひつ、 仙桃《せんたう》に飽き、靈酒に醉ひて、歡聲笑語《くわんせいせうご》は九空を撼《ゆる》がせり。
八百萬の天使逹、いづれ神ならぬはなけれど、こゝに神の中の神とて、大神のおぼえ優れてめでたく、 神通自在なる七天使の隨一に數へられて、權勢至尊にも劣らざる大天使、後の名を神敵《セータン》 [1-1] といふあり。 かねて神寵の比《なら》びなきを恃《たの》み、自尊の羽袖を擴げて、心も空に思ひあがれる折柄、 想ひも寄らぬ此度の大御言《おほみこと》を聞きて、窃《ひそ》かに不快の念を抱きつゝ、日暮れ、 夜更くるを待ちて、部下の重鎭たるビヱルゼバブ [1-2] に向ひていふ、
「眠れりや、我友、よも眠られじ。汝《な》が心は常に我が心と通へり。さらば、 今 汝《な》が夢の我が夢と通ふ所あらむは、疑ひを容れず。此度新に下りたる嚴命は、 我等を促して新に覺悟する所あらしむるに似たり。 此處に居て、多くをいふは憚《はゞか》りあり。片時も早く部下に令して、 夜の暗雲の消えぬ間に、我等が采地なる北方さして急ぎに急がむ。」
斯くいふて、ビヱルゼバブが無垢なる心に惡氣を含むれば、彼れ忽ち其氣に感じ、直ちに部下の重なる諸神を招きて、 巧みに毒舌を弄《もてあそ》びつゝ、大野心の氣も見せで、首尾よく彼等を欺き、 權勢至尊にも劣らざる大天使の御心のまゝに進退すべき旨を誓はしむ。 セータンが非望既に半ば成りて八百萬と號する天使の群れの三分の一は、 百川《ひやくせん》の朝日の登る方《かた》に向つて奔《はし》るがごとく、 大天使旗の下に集り、天上界のかぐはしき夜風に羽音を忍びて、 明方の空に聲なく失せゆく銀河のごとく、北、セータンが采地のあたり、青雲のむかぶす伏す果《はて》に消え去りぬ。
北方なるセータンが宮所《みやどころ》は、小高き山の頂きにありて、黄金《こがね》、白金《しろがね》、 夜光る玉もて疉み上げたる大堂塔、山の上なる山のごとくにそゝり立てり。此雄壯なる宮所の高座《たかくら》に登り、 夕雲のごとき羽袖を振ひて、今しも彼れは諸神に向つて、見るも恐ろしき僞長廣舌《えせちやうくわうぜつ》を吐く。
「諸神、諸神なほ諸神の實あらば、これを呼ぶに諸神の名を以てするも可ならむ。されば、 諸神の實權は、此度新に寶冠を戴きたる者のために奪はれ、諸神の名聲は、 そがために痛く傷つけられたり。彼れが戴冠披露のため、鳳輦《ほうれん》を廻《めぐ》らして、この地に來らむは近きにあり。 我等が夜の黒雲を踏んで飛ぶ鳥のごとく此地に急ぎ歸りしは、神敕《しんちよく》默《もだ》しがたく、 その光榮《はえ》ある珍客《まらうど》を待受けて、膝を折り、腰を屈《かゞ》め、 我等の力にも餘る饗應《もてなし》に心を碎きて、 以て彼れが歡心を買はんがためのみ。膝を折り、腰を屈むる、既に飽き果てたり。 更にまた膝を折り、腰を屈むる、我れその煩はしきに堪へず。 あゝ、我等を救つて、此首枷を脱がしむるものは無きか。我れ之を知る、此淺間しき首枷に其頸をまかせて、 喜んで膝を折り、腰を屈むるがごときは、 諸神の能く忍ぶ能はざる所。諸神は皆これ神通自在なる鬼神にして、勢こそ少しく弱けれ、 光こそ聊《いさゝ》か薄けれ、その自由自在なる點に於ては、彼の光榮《はえ》ありといはるゝ輩に露劣る所あるを見ず。 且、本來自由を有する者に向ひては、法度用なく、律令 益《やく》なし。笑ふべし、 何者の僭上ぞ、同輩の身を以て、敢て同輩の頭上に法令の雨を降《くだ》さむとすらむ。」
嵐に荒るゝ烈火のごとき此大膽なる論辨に氣を奪はれて、一同 屏息《へいそく》の體《てい》なるに、 かねて道念磐石のごとき好天使、其名はアブディエル [1-3] 、單身猛然として反對の氣焔を揚げたり。
「咄《とつ》、何等の不敬ぞ。想はざりしよ、大君のおぼえ優れてめでたき汝《な》が口より、 斯《かゝ》る不敬の言葉を聞かむとは。誰か、 大御言《おほみこと》によりて御位《みくらゐ》に即《つ》かせられたる我君に向ひて、 膝を折り腰を屈むるを耻辱《はぢ》とせむ。汝《な》にいへり、 我等は自由の天權を有すれば、同輩の法令に驅使せられむ理由《いはれ》はなしと。想ふに八百萬の神々に命を與へ、 しかいふ汝《な》が唇をも造らせ給ひつる造化の大神と角目立ちて自由とやらむを爭ひもどかむ所存とおぼし。 されど、經驗の教ふる所によれば、我大神の惠《めぐみ》の深きは、 底なき海のごとく、常に我等をして幸福《さち》あらしめむがためにのみ大御心を煩うはせ給ふにあらずや。 假令《よし》、同輩の法令に驅使せられるべき理由はなしとも、 同輩ならぬ大君の法令を遵法するに、そも〜何の不思議かこれあらむ。新に御位に即《つ》かせられたるわが君は、 諸相圓滿、八百萬の神々の力を汝《な》が一身に萃《あつ》め得たらむ日にも、 なほ遥《はるか》に其右を出でさせ給はむを思へ。 斯《かゝ》る大威力に對《むか》ひて毒矢を放つは、其罪おそろし。 不敬の言葉を吐きし汝《な》が舌の根を噛みて、疾《と》う〜悔い改めよ、大外道。」
多數に傚《なら》はず、先例を問はず、守るべき操を固く守りて、恐れず、迷はず、單身正道を説きて寸歩も曲げざる、 其勇、其胆、其氣魄、さながら九空を呑吐《どんと》するの概あり。されど、好天使が熱誠は、 徒《いたづら》に滿座の嘲笑を招き、 大外道の侫弁《ねいべん》は、意外にも衆心を動かして、喝采の聲 巨浪《おほなみ》の湧くがごとく、 大勢既に定まりて見えければ、微塵の不淨《けがれ》もゆるさゞる好天使は、純白雪のごとき羽袖を振ひつゝ、 孤影飄々、雲を蹴つて魔宮を去りぬ。
天津高御座《あまつたかみくら》の御前には七基《なゝつ》の無盡燈ありて、其光、明月の隈《くま》なきよりもさやかに、 遍《あまね》く十方を照らせり。齡《よはひ》を問へば白髮三千丈にも餘るべき造化翁、朦朧たる老眼 半《なかば》眠りて、 九重の雲霧深き奧の奧に垂れこめおはすといふは他目《よそめ》にて、 奈落の果《はて》の果に音なく落つる朽葉《くちば》の影だにも、 手に取るごとく見透《みすか》し給ふと聞く。セータンが此度の企圖《くはだて》のごときは、 天象《てんしやう》にも異變を起さむずる天上界未曾有の大事なれば、 大神早くも其成行を未然に案じて、急ぎ出師《すゐし》の令を神軍の諸隊に傳へしむ。 されば、好天使アブディエルが凶報を齎《もたら》して天都に歸參せし頃には、 野に山に充ち滿てる旗指物《はたさしもの》、森のごとく、林のごとく、神軍幾百萬、智ある大天使マイケル [1-4] を大將軍とし、 勇ある大天使ゲーブリエル [1-5] を副將軍として、隊伍肅々、進軍の令の下るを待てり。 此勇しき、頼母しき有樣を見て、獨り心に大神の先見の逸早《いちはや》きをたゝへつゝ、 闕下《けつか》に伏して魔宮にて起りしことゞも落ちもなく聞え上ぐれば、御氣色殊の外麗しく、 ありがたき賞美の大御言《おほみこと》ありて、光榮《はえ》ある遠征軍の一方の大將に加へらる。 實《げ》にや、好天使の此度の勳功《いさを》は、孤劍衆魔を征服せしにも優るべく、全軍 擧《こぞ》りて其徳を仰ぎつゝ、 門出よき戰《いくさ》の場《には》に向ひて、塒《ねぐら》に急ぐ夕鶴《ゆふたづ》の數限り知られぬ群のごとく、 羽音を競ひて天翔りゆく。
大外道此日の扮裝《いでたち》は、夜光の玉もて作りたる無敵の鎧に身を固め、不動の利劍を右手《めて》に握り、 金色《こんじき》の楯を夕日のごとく左手《ゆんで》にかざしつゝ、大威力の大輅《だいろ》に擬したる大四輪車に打乘り、 威風堂々、山のごとくにゆるぎ出づ、短氣一轍のアブディエル、遙かに彼れの姿を認むるや、疾風のごとく驅け來り、 彼れが不遜を詰《なじ》ると見せて、突然眞甲目がけて切りつくる、電光石火の鉾先を避くるに暇なく、 深手を負ひて脆くも高慢の角を挫《ひし》がれたる大外道またも山のごとくに崩れ退《の》く。 神軍これに氣を得て、百千の瀧より激しく落《おと》しかゝれば、此方も逆卷く海嘯《つなみ》の勢おそろしく、 寄せてはかへす大動亂!火の矢の暴風雨《あらし》の荒るゝが中に、劍の光、鎧のひゞき、矛裂け、楯破れ、 兵車《ひやうしや》の碎け飛ぶ音、矢聲、矢叫び、鬨の聲、九空 撼《ゆら》ぎて天柱折れ、 地獄震ひて地維《ちゐ》も缺けなん凄じさ。耻辱《はぢ》を知るてふ下界の武夫《ものゝふ》に譬へむも烏滸《をこ》ながら、 一騎一隊にも敵すべき神魔兩軍幾 千萬《ちよろず》の神々が、義を天津高山《あまつたかやま》の重きに比し、 命を羽衣の輕きに寄せて、傍目も振らぬ奮撃突戰、あはく、極樂の名もなつかしき天國も、 未來永劫修羅の巷となり果てむ。
眞先に敵に背後《うしろ》を見せつるは不覺の極なりしも、其不覺のために勵まされて、 眞甲に受けたる重傷《おもで》を物ともせで、大魔王の形相物凄く、不動の利劍を揮うて、千軍萬軍を叱咤しつゝ、 縱横無盡に神兵隊を蹂躙しゆくセータン、好き敵やあると見廻はす彼方に、珍らしや大將軍、 智ありといはるゝ大天使マイケルが、恩賜《おんし》の神刀を振りかざして不思議のはたらき、 小賢しき彼が目に美しき物見せてむと、 虚空を鳴らして挑みかゝれば、願うてもなき好い敵ぞと、彼方も微笑を洩らしつゝ、大地を搖《ゆす》りて寄せ來る。 今こそ神魔の差別《けぢめ》あれ、昔は共に大天使、いづれも劣らぬ神力の底測りがたく、 例へば星の世界に變災《まがごと》ありて、 二大遊星の衝突しつらむ時のごとく、いかならむ大激動の餘波おそろしく、兩軍遠く彼方此方に軍を開き、 呼吸《いき》を殺して見物す。發矢《はつし》!電光一撃、神刀閃き、魔劍二つに折れて、虚空に聲があり。 あはやと思ふより早く二の太刀閃きて、颯《さつ》と立つ血煙、セータンが右脇より火を噴くがごとし。 大王の生死《しやうし》、味方の運命、マイケルが三の太刀の一閃によりて決すべく見えければ、 前後より鬨を作つて群《むらが》り寄する魔軍の援兵一手は神兵と入り亂れ、不退轉の勇を鼓して、 こゝを先途《せんど》と防ぎ戰ひ、一手は、二度の深手に傷《なや》めるセータンを助けて、遠く陣後に引下りぬ。
大王既に破れて、全軍の意氣 漸《やうや》く衰ふる折柄、剽悍無比の名高きモーロック [2-1] が敵の副將ゲーブリエルの鋭鋒に擘《つんざ》かれしを始めとして、敗報 連《しき》りに傳はりければ、 さしも不敵の魔兵も、砂を捲いて盛り返さむ擬勢もなく、弓折れ、矢盡きて、總敗軍の姿あはれに夕雲にまぎれて、 秋の落葉と散りみだれゆく。
傲慢不遜、大威力をも物ともせざるセータン、戰へば必ず勝つとこそ期しゐたれ、 日頃眼下に見馴れつるマイケルやケーブリエルの輩に、いかなる神明の冥助のあればとて、 斯くも見苦しく打懲らされむとは露想ひも寄らでありしに、存外の不覺!意外の大敗北! 我威信の失墜も口惜しけれど、何より氣遣はしきは味方の軍氣、こゝ我命の瀬戸際ぞと、奮起一躍、 夜三更の闇に乘じて敗兵を驅り集め、捲土重來の謀議を凝らす。
こゝに不思議なるは、セータンのごとき、モーロックのごとき致死の大打撃を受けながら、 其刹那の間こそ血も出でたれ痛みも感じたれ、やがて其傷拭ふがごとくに癒えて、 竒《く》しき夢の名殘りなく覺めたらむ心地。さては、劍も、太刀も、矢も、其他天國にありとあらゆる兵噐一切、 其害を受けたる神々に刹那の苦惱を與ふるに過ぎずとおぼし。斯くては幾度敗るゝも恐るゝに足らざると共に、 幾度戰勝つも、其所詮なかるべし。殊に今日《こんにち》の敗軍は、味方の武力の足らざりしにあらで、 全く武噐の鈍かりしがためなれば、今一層精鋭にして、かのマイケルが神刀にも優らむほどの利噐を案出せでは、 最後の勝利を得むこと覺束なし。あはれ、誰れか斯《かゝ》る靈妙不思議の利噐を案出し得るものぞ。
奸智に長けたるセータン、遂に一妙案を得たり。そは銕《てつ》もて造りたる長く太き筒やうのものに、 大きなる彈丸《たま》を込め、 地下より掘り取りたる竒《く》しき粉をしかけ置き、これに火を點《つ》けて、轟然爆發せしめむ趣向にて、 猛烈無雙の兇噐、以てマイケルが神刀を碎くべく、以て造化翁が唯一の武噐たる神雷をも挫《ひし》ぐに足るべし。 斯くと聞きたる魔衆の喜びは、奈落の底に沈みゐて、大慈大悲の御光を仰ぎ見たらむかのやう、 躍り勇みつゝ大王が指揮の下にいそしみ働いて、一夜の中に造り成したる飛道具、其數限り知られず。
總敗軍の辛《から》き目見つる魔軍にさる深き企《たくみ》のありとも知らなぬ神軍の斥候《ものみ》の一手は、 明くる朝の光のほのめき出づる小山に登りて、敵はいづらに逃げ延びて、そもやいづらに宿りつらむと、 遠く彼方を見渡したるに、 思ひもかけぬ此方の廣野を蔽ふ旗指物、朝露蹈みしだく歩武堂々、魚鱗の陣形正しく、騷がず、迫らず、 決死を示して推寄する體《てい》慢《あなど》りがたく見えければ、 神速無比の飛天使ゾーフェイル [2-2] をして急を本營に傳へしむ。 勝ちて冑の緒を緊《し》めゐたる神々、心得たりと得物々々を追取りて、速くもつくる鶴翼の陣形、 群《むらが》る魔兵を一包につゝみ撃たむと、羽袖を擴げてかけ向ふ。兩軍間近になれる頃、 魔軍の魚鱗俄《にはか》に散りはじめて、 忽ち左右に開く大鶴翼のあはひより青龍の横はり伏すらむ大圓柱の一列現はれいでて、 一齊に吐く黒烟と共に、億萬の神雷の一時にはためくよりもすさまじく、轟々爆々、隕石のごとき巨丸無數、 雨のごとく霰のごとくに落ち來る。義を天津高山の重きに比して磐石のごとくに蹈み固めたる神兵の足なみも、 此意外の大打撃にたじろぎて、倒れては立ち、立ちては倒れ、小天使大天使の差別《けじめ》なく、隊又隊、 將棊倒《しやうぎだぶし》となりて、昨日の魔軍よりも他目《よそめ》更に苦しき大敗北に了らむと見えたり。 實《げ》に猛烈無雙の兇噐、以てマイケルが神刀を碎き得たれば、此上はかの神雷をも挫《ひし》いで、 一擧にして玉座を陥れむと、勝に乘つたる不敵の魔兵、倒るゝ神兵を蹈み越へ〜、いづく迄もと突進す。 憎きは魔兵の振舞、いひがたきは神兵のはたらきぶり、大小天使の羽衣 悉《こと〜゛》く抜け去りしと覺えたり。 あはれ、誰れか倒瀾《たうらん》を既墜に回《めぐ》らさむものぞ。
神兵に神力あり。危《あやふ》きに臨めば能く拔山の勇を現はす。見よ。倒れたるは起《た》ち、 起ちたるは飛び立ちて、彼方の峰に急ぎ、此方の麓に翔けゆき、掛聲勇しく力を合せて、森、谿《たに》、巖《いはほ》、 風にうそぶく樹々をそのまゝに拔取る山々、其山々を盾のごとくに肩にして、敵前近くゆるぎ寄り、 力足どゞろ〜と踏み鳴らしつゝ、魔砲の青龍微塵になれと投げかくる。竒想天外より落つる此 礫《つぶて》に、 魔砲も魔衆も、打たれ、ひしがれ、埋《うづ》められて、大地震《おほなゐ》に潰されし冬の蛇のごとく、 蟇《ひき》のごとく、うめき苦しむ音《ね》も立てず。されど魔兵には魔力あり。 死物狂ひとなりては、またよく拔山の勇を現はす。小賢しき神兵、よい得物を我に教へつるぞと、 此方も劣らず同じ礫《つぶて》を投げかくる。山と山との飛びちがひ、裂け、碎け落つる音、 大千世界の果《はて》の果まで轟き渡りて、混亂、紛擾、渾沌界の昔も斯くやとぞ疑はれたる。
大神遙に此樣を見そなはしつゝ、傍《かたはら》に侍《さぶら》へる大御子に向ひて、大御言 宣《の》らすらく、
「斯くては何時《いつ》果つべくもあらず。朕《われ》、汝《なんぢ》に神雷を授けむ。 行きて、醜類を天外の奈落に沈めよ。」
神子すなはち大命を領して、暫時《しばし》の御暇を賜はり、出陣の扮裝《いでたち》花々しく、 四天使王の護衞せる大輅《たいろ》に乘り、諸神が歡呼の聲に送られて、颶《つむじ》のいまくがごとく、 飛行の跡に火花を放ちつゝ、戰場さして急がせ給ふ。
神子、やがて、神軍の陣所に着御あり。先づ、喜び勇む神々に叡旨を傳へ、 次に四邊《あたり》に散り亂れたる山々に御言をかけて、ありし姿に復《かへ》らしむれば、 夭々《えう〜》たる樹々の花、 潺湲《せんくわん》たる溪々《たに〜゛》の水、さりげなく笑みを含みて、君が御出《いでまし》を迎ふるに似たり。 こを遠かりける衆魔は聞き傳へ、近かりけるは目にも見て、竒《く》しき大威力に恐怖《おそれ》をなしつゝ、 嫉《ねた》く、羨しく、勝利の望全く絶えて、落膽の餘り、死物狂となり、手負豬《ておひじし》の群のごとく、 荒れに荒れて押寄せ來る。 神子 赫《くわつ》として斯《こゝ》に怒り、奮然出でて醜類に向へば、四天使王の鵬翼は青空の雲と擴がり、 大輅《たいろ》の[車|(米/(夕|ヰ));#1-92-48]々《りん〜》は北溟《ほくめい》の衆水の一時に覆《くつがへ》るかとも疑はる。 右の御手より落つる萬雷は、鳴りに鳴りはためきはためきて、 矛を挫《くじ》き、盾を裂き、弓を折り、矢を燒き、冑を碎きて、不敵の衆魔をして、逃げむに途なく、 避けむに蔭なく、魂消え、膽破れて、再び山々の下に埋めらるゝことの却りて心やすからむを想はしむ。 今此醜類を全滅し了《をは》らむは、賤《しづ》が軒端の蚊柱を倒さむよりも難《かた》からねど、 彼等をして長く天外の苦界《くかい》に恐ろしき罪業の應報を受けしめむの大御心なれば、 しばし神雷の火口を塞ぎ、野分《のわき》の跡の枯草のごとく這ひ伏したる彼等を呼起して、 猛虎の群羊を追ふよりも烈しく、長驅 大輅《たいろ》を天涯に急がす。
天の一角に天門あり。扉を排《ひら》きて見下せば、溟漠無邊際《めいばくむへんざい》の大渾沌界! 其奧の奧、底の底こそ、セータン一味の神敵が永く天罰の苦辛を嘗め知るべき大奈落とよ。
「淺間しきかな、此 光景《ありさま》。かつて天津御國の常世《とこよ》の春に、光榮《はえ》ある羽衣を飾りて、 八百萬の神々の御光を奪ひし身の、さても〜變り果てたる此姿は何事ぞ。今にして知る大威力、 其大神の御前に慴伏《ひれふ》し、前非を悔いて、大慈大悲の眼尻《まなじり》を垂れさせ給はんと哀願せんか。 そは、大胆にも高御座《たかみくら》をゆるがしたる大天使が、いかならむ苦しき夢の夢にも想ひ寄らざる所。 戰《たゝかひ》勝たざれば、敗るゝあるのみ。不拔の意志と、不易の怨念と、不屈不撓の勇氣と、 不倶戴天の復讐心とだにあらば、敗れたりとも、敗れ了りたるにあらず。 膝を折り、腰を屈むるは、大恥大辱、奈落の糞土を甜《な》むるよりもなほきたなし。 且や、此度の變ありてより、衆天使の五體は、斬られて切れず、燒かれて燒けざる、 不死の靈質より成れること明かになれるをや。されば、此神體の粉《こ》に碎け飛ばむ暁にこそかの大敵と和議を講ずべけれ。 彼れ善を勸めば、我れ惡を勸めむ。彼れが惡を懲さば、我れ善を懲さむ。 彼れの善は我れの惡なり。斯くして、彼れを苦ましめ、彼れを痛ましむる、これまた一興ぞ。 いでや、彼處に見ゆる燒野に上りて徐《おもむ》ろに再擧を圖りてむ。」
不敵の所在の臍《ほぞ》を固めて、ふと傍《かたへ》をかへりみれば、我腹心の兇魔ビエルゼバブが、 焔の嵐に咽《むせ》びつゝうめき苦む體《てい》なるにぞ、聲を勵まして呼びさまし、決心の程を語り聞けつゝ、 やをら北溟の大魚に似たる五體を起せば、火の巨濤《おほなみ》左右に泡立ち開きて、しばしは後にけうとき溪間を殘せり。 やがて、夕雲のごとき其羽袖に風を呼びつゝ、彼方の陸に急ぎ上れば、ビエルゼバブも焔を蹴立てゝ從ひゆく。
彼方の陸《くが》とは名のみにて、いづこも同じ火の山、火の川、火の燒野、金砂敷きつめたる天上界に比ぶれば、 其 差別《けじめ》や雲壌もたゞならず。
「淺間しきかな、此 光景《ありさま》。これや我里、これやそも我 住家《すみか》。さらばぞよ、天津國。 いざ、來れ、おそろしき火の御國。彼處には不自由の枷あれど、此處にはうれしくも自由の風ぞ吹き競ふ。 心だに天ならば、奈落も厭ふに足らじ。天の奴僕《ぬぼく》たらむよりは、寧ろ奈落の王たらむのみ。 いで、さらば配下の神々を火の池より起して徐《おもむ》ろに再擧を圖りてむ。」
大旗艦の帆柱にせむとて、霧深きノルウエー [3-1] の山の奧より伐下《きりおろ》したる大木にもまがはむ眞矛《まほこ》を杖づき、 火を蹈む足元たどたどしく、焔逆卷く岸の岩角より、夕日の盾をかざしつゝ、秋、大木曾の溪を埋むる落葉のごとく、 夏、玄海灘の神風にゆらるゝ元寇十萬の亡骸のごとく、今なほ垂死の態《さま》にて、 火の波間に漂へる神々を荒海遙かにふりさけ見て、奈落もゆるぐばかり吼え叫ぶ。
「諸神、天國の花たりし諸神、諸神の血迷へるその態《さま》を見れば、天國は正《まさ》しく失はれつるぞ。 諸神は斯《かゝ》る荒海をも、樂しき故里《ふるさと》の溪と見て、戰に倦みたる其羽袖をやすめむとするか。 否《あらず》、斯《かゝ》る醜き態《さま》を示して、憎き大威力の勝利をたゝへむとするか。 かの天門に陣取せる追手の奴原之を見ば、 折こそよけれと落し來て、腹匍ひ迷ふ諸神を蹴散らし、蹈散らしつゝ、此荒海の底なき底の岩根に縛り止め、 再び浮ぶ瀬なからしめむは必定ぞ。起きよ〜。さらずば長《とこし》へに荒海の藻屑たれ。」
垂死の態《さま》にてうめきゐたる神々、大魔王が一喝に驚きて、かへりみれば、實《げ》に其態の恥かしく、 堪へがたき五體の苦惱をも忘れて、破れ羽衣の音さわがしく、 かのモーゼ [3-2] が鞭の一揮《ひとふり》にナイルの河邊を蔽ひし蝗《いなむし》の雲のごとく、先を爭ひて彼方の陸《くが》に翔け上る。 やがて、嚠喨《りうりやう》たる軍笛一聲闇を破りて、 高くかゝげられたる大天使旗はさながら流星の飛ぶがごとく、 それにつゞきて、彼處に此處に閃きひらめく旗指物《はたさしもの》は火花の散るがごとく、 忽ちに矛の林をめぐらし、忽ちに盾の山を築きて、敗餘ながらも、魔軍百萬、 古ドリス流 [3-3] の軍樂に火を蹈む歩調《あしなみ》、亂れず、騷がず、列を正して、大王が檢閲の了るを待てり。
諸神天國の花ならば、其花の中の花なりしセータン、今そのかみの光榮《はえ》こそなけれ、 例へば、青白き月の背後《うしろ》より薄氣味惡しき光を放ち、天災の兆《きざし》を下界に示して、 一天萬乘の帝王をして膽寒からしむる、 かの日蝕の姿けうとく賤《しづ》が伏屋に臨める高塔のごとく諸神の前にそゝり立ちて、徐《おもむ》ろに各隊の數を調べ、 其軍裝を閲《けみ》し了《をは》りて、敗餘ながらも勇しき全軍の威勢頼母しく、且つは、 我れゆゑにかゝる奈落の果《はて》に墜ちたるを怨みもせでで、 なほ飽くまで忠勤を勵まむずる其意氣yれしく、破れ羽衣の見苦しきを見るにつけ、 其目より冷たき涙の雹《ひさめ》がほどばしる。
「諸神、實《げ》にも此度の戰は、恐ろしき結果を生じたり。さばれ、諸神の奮戰、其 光榮《はえ》全く無かりしにはあらず。 天國を傾け盡したる此大衆、よし敗餘の微力を以てしても、なほよく登天の再擧を圖るに足るべし。 誰れか、斯《かゝ》る大軍の斯《かゝ》る大敗北に了《をは》らむを預期せしものぞ。 諸神 普《あまね》く照覽あれ、我れ軍機を誤りて、この不覺を取りしか、我れ危《あやふ》きを避けて、此失敗を招きしか。 我れの弱かりしにあらで、彼れの想ひの外に強かりしをいかにかせむ。 此上は武力の外なる秘術もて、彼れを欺き撃たむこそ上策ならめ。 傳へ聞く、近日、天に新世界成りて、神寵めでたき新天族、花々しく其處に据ゑ置かるべしと。 我等が永住地たるに適せぬ此穢土に久しく羽袖を休めむよりは、 先づ彼處に遠征を試みるも一興なるべし。諸神もとより降伏を肯《がへん》ぜず。 平和は長《とこし》へに破れ去りぬ。堂々の陣を張らむか、苦肉の祕計を案ぜむか、 これぞ諸神の審議を煩はすべき刻下の大問題ならむ。」
大王の高見に贊同の意を表せむとて、一齊に拔き放つ劍《つるぎ》の光すさまじく、 一同蒼穹に向つて毒唾を吐き飛ばしつゝ、盾を叩きて喚《をめ》き叫ぶ。
此等墮落天使の中に、マムモン [3-4] とて、建築に名を得たる惡神があり。天上にありし頃より、 常に俯向《うつむ》きてのみ歩き、敷石の黄金を何よりの寶と見し其目にて、 今此奈落の穢土にもなつかしき黄金《こがね》の氣があるを看ていたく喜び、 そを捻《ひね》くりて衆議を開くべき一堂を建立すべく、一隊を指揮して彼方の山路に急ぎ、鋤《すき》鍬《くは》忙がしく、 岩を掘り、鑛《あらがね》を溶かすと見る間程なく、忽ちに空中に築き出す大蜃氣樓ならぬ大魔宮! バーベル [3-5] の高塔を階下に瞰《にら》み、メムフイス [3-6] の巨塔を廊下に呑まむずる宏大無邊、 これこそはパンデモーニアム衆魔殿とて、後の世の下界の果《はて》にまでその名傳はりぬ。
「天井の諸神、朕《われ》、諸卿を呼ぶに敢て此名を以てす。實《げ》にも諸卿は奈落の底にあり。 されど、斯《かゝ》る穢土の永く神靈を宿すに足らざるは明々白々たり。朕《われ》は、 天國の朕等《われら》が所有《もの》たるを知りて、天國の既に失はれたるを信ずる能はず。 失敗は成功をして光榮《はえ》あらしむ。墮獄の呻吟は、登天の凱歌を高むべき低音に他ならず。 勉めよや、諸神、朕《われ》、今、天權により、諸神の推擧によりて、此 高座《たかくら》に登れり。 朕《われ》、此地位の鞏固《きようこ》にして、何者の指彈をもゆるさゞるを信ず。蓋《けだし》、 天國にありて、地位の低きを厭ふは、己《おの》が享くる福祿の厚からむを望むに似たり。 誰れか、高きに登りて神雷の的となり、單身大衆の干城たらむを希《こひねが》ふものぞ。 諸神よく此理を知るが故に、朕《われ》に向ひて二心なく、幾久しく忠勤を勵まむとする、 朕《われ》、甚だ之を嘉《よ》みして、深く諸神が一致共同の力を頼み、謀るに此度の難問を以てす。曰く、 堂々の陣を張らむか、苦肉の祕計を案ぜむか。意見あるものは、憚りなく述べよ。」
傲慢なるセータンにつゞきて、剽悍《へうかん》無雙のモーロック起てり。彼れは、 己《おの》が魔力の大威力に劣るを信ぜず。 萬が一にも劣る所のあるを知らむよりは、寧ろ死あるを知るべきのみ。既に死を決すれば、天恐るゝに足らず、 奈落憂ふるに足らず、否、奈落以上の苦痛來るとも笑うて之に向はむとす。 斯《かゝ》る毒魔の鰐口から出でたる毒言は如何。
「我れは堂々の陣を張らむことを主張す。我雙手は小刀細工に馴れず。小賢しき詭計は、我れこれを其用を知る者に讓らむ。 さばれ、今は其用更になし。斯くいかめしく武裝を整へたる大衆が、少數の策士の詭計を案ずるを傍觀しつゝ、 永くこの穢土に立往生するがごとくは、徒《いたづら》に天兵の笑を招くに過ぎざるのみ。寧ろ大奈落の猛火を驅つて、 長驅天城に迫り、一撃にして勝敗を決するの壯快なるに如かず。誰れかいふ、登天の途遠くして難所多しと。 さらば、問はむ、諸卿はいかにして此穢土に落ち來りしぞ。諸神の羽衣は、逃ぐるに役に立ちて、攻むるに用をなさゞるか、 渾身靈質より成れる我等にとりては、墜つるは難《かた》く登るは易《やす》し。 既に奈落に在りながら、天帝の怒を恐るゝ昧者《まいしや》あらば、我れこれに教へていはむ、 奈落の苦にまさる天罰は、たゞかの死あるのみ。死は息《そく》なり。生きて永く苛責の鞭にうめかむ醜體といづれぞ。 萬が一にも我等の靈質不死不朽でにして、死の安樂椅子に倚《よ》る能はずんば、 再び起つて天城に迫り、空拳を揮《ふる》うて、一撃また一撃、長《とこしな》へに帝座を震動せしむる、 よし勝利ならぬまでも、不易の復讐心を滿足せしむるに餘りあらむ。」
猛烈なるモーロックにつゞきて、妖艷無類のピーリアル [4-1] 起てり。實《げ》に其姿は花よりも美しけれど、 其腹の底は炭よりも黒からむ。甘露のしたゝるがごとき朱唇を動かして、彼れは巧みに非戰論を唱ふ。
「我等も開戰の議に左袒したきは山々なれど、我等が頼みきつたる猛將にすら全勝の目算立たざるを見ては、 暫くこゝに二の足を踏まざるを得ず。先づ、第一に問ふ魔ヰらせたきは、そもや復讐とは何の事ぞ。 知《しろ》しめさずや、天城には堅甲利兵の警護いかめしく、夜の螢の忍び入らむ隙だになきを。 よし、大奈落の猛火を驅りて、一條の進路を開き得たりとも、かの大威力の妙靈を燒き亡さむことは想ひも寄らず、 否、忽ち返打の辛《から》き目見て、犬死せむは必定ぞ。死は安息なりとやら承りつれど、 さりとは悲しき安息かも、誰れか、知見いみじき此神體をすてゝ、 本有《ほんう》の闇のけうとき鰐口に噛み裂かるゝを喜ぶものぞ。 假に、さる竒好神《ものずき》のありとしても、其望のたやすく叶ひて、 永劫の苛責を臨終の刹那の苦に代へむこと、なか〜に覺束なくや侍《はべ》らむ。死は必ずしも奈落の苦にまさる天罰にあらず。 また、同じ奈落にありても、斯く衆議の席に腕を拱《こまぬ》くと、火の池の燒藻たりしと、 其 差別《けじめ》いかばかりと思召す。 要らざる力業《ちからわざ》に骨を碎きて、再び天帝の怒にふれなば、 其時にこそ、火の荒海の千仞《ちひろ》の底の岩根に縛られて、未來永劫浮む瀬なからむは必定ぞ。 堂々の陣とやら、苦肉の祕計とやら、敗餘の我等に何の用をかなさむ。 戰勝者が定めたる我等の運命に安んじて、彼れが怒りの火消え、心の氷解くる日を、心永く待たむこそ賢けれ。 住み馴るれば闇の奈落にも天の光を生ずることもあるべければ、蟷螂の斧は暫く破れ羽衣の下に秘め置かれよ。」
理窟ありげに吹き立てる臆病風、やう〜神々の身に沁み渡るを見て、マムモンの得意の拜金教《マムモニズム》を説く。
「我等が再び天に向ひて弓弦《ゆづる》を彈《はじ》かむするは、帝座を奪はんがためにあらずば、 そのかみの神權を取り返さむがためのみ。されど、帝座己に動かしがたければ、神權はた得やすからず。 今、假に、天帝怒りを和げて、大赦の令を下せりとせよ。諸卿は恥辱《はぢ》を忍びて、かの怨敵の足下に慴伏《ひれふ》し、 うやうやしく宏徳を頌し奉らむ勇氣ありや。常世《とこよ》の春の羽衣は美しけれど、 長《とこし》へに媚を怨敵に賣らむがためならば、美しとても何にかはせむ。遠き世の七つの寶を夢みむよりは、 近き此世の黄金を數へよ。廢物を利用して、小さきより大きなるを、醜きより美しきを、 乏しきより豐けきを、芽出度《めでた》う作り出さば、我等が威勢もいよ〜顯れむ。 常闇《とこやみ》の世とても、穴勝《あながち》厭《いと》ふに足らず。光明芳しき大神も、 八重の雲間に憇ひつゝ折々神雷を呼び起して、天國の一方に奈落を現ずることもあんめり。我等もこれに傚ひて、 奈落の一方に天國を建立せむこそ賢けれ。天國にあるほどの黄金《こがね》、白金《しろがね》、眞玉《またま》、 曲玉《まがたま》、溢るゝばかり此處にも其處にも轉りあるを知らざるか これさへあれば、地獄も極樂、慣るれば焔も水となりて、五體の傷を洗ひ去るべければ、盾よ矛よと騷ぐをやめて、 安んずべき其分に安んじつゝ、いざや、諸卿、平和の夢を暫時《しばし》こゝに結びて、敗後の痩腹に培はむかも。」
此言葉の終るか終らざるに、拍手の音、喝采の聲、さながら荒海の遠鳴のごとく、臆病風がいよ〜吹きすさぶを見て、 副魔王たるビエルゼバブ、天を擡《もた》ぐてふ巨人アトラス [4-2] の肩に似たる其肩を一搖《ゆ》りゆりて、 魔界の重任を一身に背負ひつゝ、公安の太柱のごとくに突立てり。
「名のみ天上界の諸神、諸卿の意向は、永く此穢土に留まりて此處に新帝國を打建てむとするに傾けり。 諸卿は今より其尊稱を改めて、奈落の魔公と呼ばるべし。 さばれ、これもまた遂に名のみに終らむを恐る。そも〜、天の此地獄を創《はじ》めしは、 諸卿を幽閉せむがためにして、諸卿が惰眠の夢を宿さむがためにはあらず。八隅《やすみ》知ろしめすてふ大神、 いかで、囚人輩《めしうどばら》の蠢《うご》めき騷ぐを看過さむ、 いかで、また、囚人輩に向ひて和議を申し入るゝの愚を演ぜん。 鐡笏の打撃天より來りて、我等が頭上に墜ちむは必定なり。平和は長《とこし》へに夢となりぬ。 不易の怨念に鞭《むちう》つて、よし痩馬の足掻遲くとも、屈せず、撓《たゆ》まず、詭計の手をかへ品をかへて、 一厘一毛たりとも彼れが大勝の利を害《そこな》はむに優る術《すべ》あるべからず。 危險を冒して天城に迫らむ望も絶えむる今、 幸にも危險の恐れなき萬全の策の我れにあるあり。諸卿も知る如く、近日、天に新世界成りて、 人間と呼ばるゝ新天族、神寵めでたく其處に据ゑ置かるゝ筈。いでや、諸卿、我等が視聽を彼方に向けて、 人力の強弱に應じ、機の熟するを待ちて、大《おほい》に圖る所あらむは如何《いかに》。 天門は堅く鎖《とざ》されてあれど、天門外の彼處には、人力の自衞に全土をゆだねて、 諸卿が恐るゝ堅甲利兵の警護も無《な》けむ。大奈落の猛火を驅つて、一撃の下に人類を燒き盡し、若くは、追拂ひて、 全土を我れに奪はむも、なか〜に小氣味よく、また、彼等を誘ひて邪道に導き、 さる小童輩《こわつぱども》を造りし造化翁の手を燒きて、 彼れが老眼に後悔の涙を揮《ふる》はしめむも氣味よき事の極みなるべきぞよ。 敢て問ふ、諸卿、此萬全の策をすてゝ、飽くまでも此穢土に腹這ひつゝ、新帝國建立の夢を貪らむとするか。」
流石に副魔王の一言、いしくも頽勢を飜し得て、衆魔の面《おもて》には見る〜希望の光を現はせり。 さばれ、溟漠無邊の大渾沌を蹈破して、誰れか能く新世界探檢の重任を果さむものぞ。 これなほ未決の難問にして、これに明解を與へむほどの者、百萬の大衆中、 セータンを除きて外にあるべうも覺えず。果然、大魔王は起てり。
「諸卿は、今、一難問に逢ひて、沈思默考の體《てい》と見受けらる。 勇敢なる諸卿が斯ばかりの難問に畏縮するがごときことあらざるは、 朕《わ》が深く信じて疑はざる所。さばれ、脱獄登天の途《みち》、實《げ》に程《ほど》遠くして、難所多し。 大奈落の炎焔を蹈み、大獄門の鐡壁を破りて、幸《から》くも這ひ出でむ彼方には、本有《ほんう》の闇の無底の淵があり。 事なく鰐口を潛《くゞ》り得たりとも、なほ行く手には、名も知らぬ怪世界の果なくつゞきて、 竒難變災 霰《あられ》のごとくに降り來るべし。思慮淺からぬ諸卿が沈思默考、左もありなむ〜。 朕《われ》、既に南面して、諸神の王たり。諸神の安危に關《かゝ》る一大事を他《よそ》に見て、 王たるの名に恥づるがごときことゆめ〜あるべからず。其名高ければ其 責《せめ》重し。諸卿は今より退きて、 心 長閑《のどか》に朕《わ》が吉報の飛び來るを待てよ。朕《われ》思ふ仔細あれば、何者をも伴はず、 單身遠征の途に上り、大千世界の蒼穹を蹈破し盡して、徐《おもむ》ろに諸卿のために圖る所あらむ。」
此處には二個の怪物 蟠居《ばんきよ》して、堅く關門を扼《やく》せり。頸より上は美しき女人のごとく、 肩より下は醜き大蛇に似たるは、これぞ罪姫の女神とて、 セータンが叛旗を擧げし頃まで、天國一の美神と愛ではやされしも、其後 情《なさけ》を彼に通はして、 彼れが一味に加はり、衆魔と共に奈落に墜ちし折、大神の大御言により、獨り判れて、此處に來り、獄門の鍵を預りて、 淺間しき獄卒の此姿となりぬ。頭《かしら》無きがごとくにして有り、脚無きがごとくにして有り、 影にして影にあらざる一團の大怪塊は、 これや魔王の落胤にして、罪姫の胸より湧き出でたる死神 死《デッス》 [5-1] の尊《みこと》と、聞くもけうとき名なりけり。
大威力の外に怖るべきものあるを知らざるセータン、物の數ならむ彼等何程の事があらむと、先づデッスに向ひて、 此門を開かずば蹴破りゆくぞと、肱《ひぢ》を張りて脅しかゝる。デッスそを見て、 カヤ〜と竒しき笑聲を揚げつゝ、火矛を揮つて睨み寄る。暴雨に名あるカスピ海 [5-3] の中空《なかぞら》に、 二團の黒雲迅雷を呼びて東西より鳴り來り、嵐の相團に稻妻すごく、今しも一大衝突を起さむずる其勢を見て、 あわたゞしく門の蔭より走り出づる罪姫、一聲の悲鳴高く、父子《おやこ》の間に躍り入り、 怒れる彼方此方の肩をおさへて、さて、涙と共に語りはじむる身の因果、 さしもの魔王が張りつめたる肱《ひぢ》の強弓《つよみ》も弱り果てけむ。
「我妹《わぎも》よ、朕《わ》が此處に來つるは、汝等をはじめ、死地に陷れる神々のために、 一條の活路を開かむがためのみ。朕《われ》、首尾よく遠征の目的を逹して、 汝等も噂に聞きつる彼の新世界を朕が所有《もの》としたらむ暁には、 直ちに汝等をも迎へ取りて、ありし昔の榮華の春を見すべきぞよ。」
甘き父が二言に、デッスの怒も解けつ。罪姫の喜びは、いふも冗《くだ》なるべし。彼女《かれ》は急ぎ祕密の鍵を取りいだして、 いそ〜と開く地獄の大門、萬雷の音おそろしく九重の扉左右に軋《きし》りて、閉づるは彼女《かれ》が力に餘りければ、 明け放たれしまゝ今に殘りて、長《とこし》へに吐く焔の舌、罪業深き人の子の迷ひ來るを待てり。
大門をくゞりて、奈落の一角より遠く彼方を打渡せば、幅なく、長さなく、高さなく、果なく、 崖《かぎり》なき闇の海原、これぞ名にし負ふ大渾沌界に、冷、熱、乾、濕、の四元帥、無數の雜兵を驅りて、 亂打、亂撃、大亂戰の音すさまじく、何方《いづく》に向つて羽袖を振はむ隙もなきを、 呆れに呆れて見てのみあらむも愚かしければ、やう〜にして心を定め、猛然大地を蹴つて、一躍千里の高きを翔けてゆく程なく、 忽ち驚く大眞空、一落億萬仞の底に向つて逆落《さかおとし》となりぬ。彼れにして惡運強からずば、 今なほ逆落の苦患《くげん》に悲鳴の聲を絶たざるべきに、一道の大火氣 何處《いづこ》よりともなく舞ひ起りて、 メムフイスの古塔に似たる彼れが五體をば、木の葉のごとくに捲き上げたるこそ不思議なれ。
辛くも大難を脱《のが》れて、なほ行く手には、サハラの砂漠 [5-4] を幾百千か集めたる大流沙が横はるあり。 或は泳ぎ、或は潛《くゞ》り、或は渉《わた》り、或は這ひ、或は飛びつゝ、進み進めば、 前の亂戰よりも更に烈しき喧々囂々《けん〜がう〜》、何者の仕業なるかは定かならねど、 何者にてもあれ、引捕へて道案内《みちしるべ》にせむと、 翼を速めて其方《そなた》に急げば、忽ち現はるゝ大天幕の下に、悠然と構へゐる渾沌王、 それに并びて黒衣の常闇王《じやうあんわう》、其他名も知らぬ竒神怪魔、列を亂して、紛然たり、雜然たり、 囂々然たり。斯《かゝ》る輩《やから》に禮儀の必要もなければ、無造作にも天幕の上より聲をかけて、 光明界への道の程を問へば、渾沌王、破鐘《われがね》の枯聲を絞りて、程遠からぬよしを告げ、 且、此處の遠征に向つて好意を寄する旨を語る。いで、さらば、希望の彼岸は近づけり。寸時も猶豫すべきにあらず。 渾身の勇を鼓して、天を貫く火柱のごとく、向上猛進、やゝ暫時《しばらく》すれば、珍しや、神光靈氣! 夢か現《うつゝ》か、身は光明の界《さかひ》にありて、羽衣輕《かろ》く袖輕《かろ》し。 久しく颶風《ぐふう》になやみし破れ船の、 水波《すゐは》起らぬ港に入りて、風なき空をいぶかるごとく、此方《こなた》を望み、彼方《かなた》を仰げば、 なつかしの我 故里《ふるさと》の天津國、美しき夢のごとくに浮べる傍《かたへ》に、 黄金の鎖もて釣り下げられたらむ明玉の光、あれこそは、我が慕ふ新世界の遥けさよ。
今は光明の界《さかひ》にありて、魔翼に逆《さか》ふ微風もなければ、かの新世界よ、 いかに遥けくも、急げば程なき道の程、 早くも着きぬる天の外濠、碧玉の水、眞珠の流れに、黄金の橋影長く、七寶閃《きらめ》く城門につゞきて、 誰待顏《たれまちがほ》なるも心憎く、玉欄によりて暫時《しばし》思ひに沈める足の下に、 一條の大道、眼も及ばぬ其果に、燦爛《さんらん》たる無數の群星、 古聖ピタゴラス [5-5] の耳にも響きけむ神祕の妙音を奏づる氣色《けはひ》、奈落にありて夢にのみ見しそれに比ぶれば、 遙《はるか》にいみじき新世界、今更ならねど、怨めしきかも大威力、嫉《ねたまし》くもあるかも新天族の好運兒、いで、 さらば、今に思ひ知らせむ好き事ありと、胸を叩きて、踵《くびす》をめぐらし、七寶の門に砂を蹴かけて、 またもや急ぐ新天地の通路《かよひぢ》、左手《ゆんで》の流星を拂ひ、右手《めて》の彗星を踏みとばしつゝ、 星の流沙を分けゆく程に、忽ち眉を射る一團の明光、衆星の王とも覺しき大日輪に翔け登りしまで、 呼吸《いき》あるものゝ影にも逢はざりしに、こゝにして始めて認むる一天神の後姿こそ珍らしけれ、 いで〜、彼奴を欺き、新天族の在所《ありか》を問はむと、手早く扮《やつ》す美少天使の花衣、 蝉の羽袖に蘭麝《らんじや》のかをりしほらしく、 薔薇《さうび》の片頬《かたほ》に甘露の笑みを溢《こぼ》しつゝ蓮歩を運びて近づけば、 其足音に振りかへる眞玉の冠、七天使の中にありて眼力無雙の聞え高いユーリエル [5-6] とは、一目に知らるゝ瞳の光のまばゆさよ。
「光榮《はえ》ある天津大御使《あまつおほみつかひ》として新世界を見守り給ふユーリエルの君に物申さむ。 我れこのいみじき世界の成りしを聞き、神寵めでたき新天族を垣間見て、竒《く》しき大神の御力の片端をも窺ひ知り、 新しき讚美の歌を捧げ奉らむの念《こゝろ》やみがたく、 今しも獨り天樂隊の群を離れて、此處まで彷徨《さまよ》ひ來つれども、 名のみ傳へ聞きし樂園の在所《ありか》何方《いづく》と見きはめがたく、 引還《ひきかへ》さむにも星の林に路を失ひて、途方に暮るゝをあはれとおぼさば、 我がために行くべき空を示させ給へ、やよ。」
僞善の花衣には大天使の眼《まなこ》もくらみて、己《おの》が直《すぐ》なる心より、欺《あざむ》かるゝに氣も付かねば、 殊勝げなる彼れが言葉をいたくめでつゝ、教ふべからざる樂園の通路《かよひぢ》を詳しく教へて、 たがて、右と左に羽袖を分ちぬ。
ユーリエルに別れてより暫時《しばし》にして、今しも大魔王は、地球の一角、ニフアチーズ [5-7] の山の頂《いたゞき》に佇《たゝず》めり。 想ひの外に心やすかりし長途《ちやうと》の旅路をかへりみれば、茫としてたゞ夢のごとく、俯して地上の山川を眺むれば、 まぼろしのごとくに浮び出づるエデン [5-8] の里の花ぐもり、霞める眼《まなこ》を押拭ひつゝ、更に仰いで天上の蒼穹を望めば、 煌々たる大日輪、我が失ひし天國の榮華の春を語るに似たり。遠征の目的 半《なかば》逹したる今に及んで、 何事ぞ、魔翼に滴《したゝ》る露雫は《つゆしづく》。
「あゝ、汝、衆星の王として下界に臨める大日輪よ、聞け。 我れも昔は大天使王として、汝等が頭上に赫々《かく〜》の光を放つ身なりしを、 非望の魔翼に驅られて、全能の君と力を爭ひ、一敗地にまみれて魔窟の鬼となり、我れと我が胸に描き出す奈落の苦患《くげん》、 よしや五體は獄門外の春に醉ふとも、心の底の厚氷《あつごほり》は何時《いつ》か解くべき。 是《ぜ》なりし天道を非なりとせしは、其 曲《きよく》固《もと》より彼れにはあらず。感謝の誠意だにあらば、 天恩の重きも重荷とはならであるべきに、僻《ひが》める我眼はそを首枷と見て、 徒《いたづら》に吼え、徒《いたづら》に狂ひゆかむ果に果は、そも〜如何なるむ我身ぞも。 至尊ろ相距《あひさ》る只一歩なりしが故にこそ、醜き野心の角も生じたり。 我れ若し幸なき少天使の末に生れしならば、野心に迷ふ憂もなく、 長《とこし》へに天恩の露に咽喉《のんど》を鳴らしつゝ、反《かへ》りて幸ある身とならむにと、 想ふも今更愚痴の極か。我れに野心の塵の氣ある上は、よし小天使の羽袖弱く、 獨り起たむの勇はなくとも、他《た》が大野心の風に誘はれて、狂ひ起たむに疑《うたがひ》なければ、 所詮怨めしきは我心。憫《あはれ》むべし、悄然たる孤影、何方《いづく》の空に向つてか、 平和の宿を求め、安息の臥床《ふしど》を探らむ。 あゝ、我胸は憤怒の火に燒け、我心は絶望の淵に溺れたり。前非を悔ゆるも已に晩《おそ》し。 今はたゞ降伏の大恥大辱あるのみ。降伏か〜。朕《われ》にさる汚《きたな》き心あらば、 地下の衆臣に對する朕《わ》が面目を如何。否《いな》假に降伏の大恥大辱を忍び得て、 光榮《はえ》ある天上の春に還るとも、癒えがたき額の古傷に毒血 迸《ほとばし》る夕《ゆふべ》、 仰いで至尊の我れと相 距《さ》る只一歩なるを見ば、再び狂はむ心猿意馬《しんゑんいば》の手綱斷《き》れて、 荒れに荒れゆかむ末の末こそ想ひやられる。さらばぞよ、希望の光。來れ、血の雨、血の涙。 いで〜地の惡を驅りて天の善と戰ひ、天地を二分して我れその一を保たむ。」
美小天使に扮《やつ》しゐたる其姿を忘れて、大魔王の本性を現はしゐたるを、知る者絶えてなしと想ひの外、 さすがに鋭きユーリエルの眼力、遥けき空より斯くと見て、獨り何やらむ點頭《うなづ》けり。 さりとは氣付かぬ大魔王、美小天使の花衣を繕ひつゝ、エデンの里をさしてぞ急ぎゆく。
なほ行きゆけば、魔翼を拂ふ軟風《そよかぜ》に、迦陵頻伽《かりようびんが》の遠音《とほね》ゆかしく、 裳裾にかけゆく道芝の露にだに、神祕を映す花の白雲、影清く、玉と碎け散りては、塵にも靈香のかをりを殘せり。 月 明《あか》き神の都の星の臺《うてな》に、うたゝねの寢覺惜みし昔《そのかみ》の美妙《いみ》じき夢路をたどるがごとく、 恍惚として地を蹈む足に音なきを訝《いぶか》る。
光榮《はえ》ある我れを奈落に蹴落しながら、かゝる樂しき御園を手づから造りて、 名もなき小童輩《こわつぱども》に授けたる造化の老爺《らうや》の憎さをおもへば、 おのづから戰《おのゝ》き震ふ大魔翼、一躍風を切つて、 樂園の眞中《たゞなか》なる生命《いのち》の靈樹のいたゝきに足をかけ、 惡鳥コーモラント [6-1] の貪眼《どんがん》を光らしつゝ、初めて窺《うかが》ふ地上の樂園の大觀は如何。
沙白く苔 碧《あお》きエデンの里には、一河《いちが》の流れ長く、東《ひんがし》の空なる薄紫の山間《やまあひ》より出でて、 花散る御園の岩根をくゞり、靈樹の蔭に湧き上りては、汲めども盡きざる甘露の神泉となり、 金砂の小山を急ぎては、虹の浮はし影さやに、銀砂の小川をたどりては、天の河瀬の音すゞしく、 青葉の森には碧玉《へきぎよく》の池を湛へ、紅葉《もみぢ》の林には水晶の瀧を懸け、 落ちて分れては四筋の川波音高く、名ある靈地をさまよつて、西の空なる薄紅《うすくれなゐ》の雲間に消えてゆく。 斯《かゝ》るいみじき河の水にうるほつて、竒《く》しき造化の御足の趾に咲きこぼれたる花のいろ〜、 或は、朝霜かぐはしき岡の上に、日出でぬ間の日影まばゆく、 或は、日ざかり暗き蔦《つた》の眞洞《まほら》に時ならぬ星月夜の星影明く、 或は、夕霧匂ふ芝生の露に、夜光の玉の光を磨き、 或は、小夜風《さよかぜ》さゝやく池の水際《みぎは》の漣《さゞなみ》に、 空に知られぬ有明《ありあけ》の月の笑顏を洗ふ。 此水を吸ひ、此花に醉ひて、鳥は、東雲《しのゝめ》の青葉が上に、朝の祈祷《いのり》の聲高く、 いさましき山彦王が朝寢の床をうごかし、虫は、たそがれの紅葉《もみど》の蔭に、夕の祈祷《いのり》の音も細く、 やさしき木魂姫《こだまひめ》が假寢の搖籠《ゆりかご》をゆする氣色《けはひ》、 天樂隊の妙《たへ》なる調《しらべ》にも厭き果てたる月の夜毎《よごと》、情《なさけ》ある天津神々が忍び來て、 花白き河瀬の波に耳やすゝがむ。
目に見る物、耳に聞く物、一《いつ》として快からざるはなきが中にも、此樂園の主《ぬし》として、 此等萬物の司《つかさ》として、全能の御手にはぐゝまるゝ人間の姿のいみじさに至りては、 實《げ》に大魔王が嫉妬《ねたみ》をうくるにも餘りありぬべし。見よ、雄々しきアダムが眉根には大威力の面影働き、 優しきイーヴが瞳には大慈悲の片影を浮べつゝ、例へば、雪のあしたの青空に妹背《いもせ》の神山の竝び立てるがごとく、 赤裸々にして、自然に具はる風采の美、後の世の人の工《たくみ》の陋《いや》しく拙きをあはれむに似たり。 今しも、彼等は、樂しき晝の仕事を了へて、ひぐらし涼しき青葉の蔭に來り、花の筵《むしろ》に肱枕しつゝ、 片手を延べて、目の前に垂れたる仙桃《せんたう》の實をちぎり喰ひ、 足の下を流るゝ眞清水にも汲み飽きて、夕餉の後のさゝやき長閑《のどか》に、 膝元に來てむつれたはるゝ野獸の群の興ある身ぶりに笑顏を見合せつゝ、 世にもおそろしき大魔王の我れを窺ひ寄るぞとも、露しら雲に夕照《ゆふばえ》あかく、 日も早や暮れなむとするに氣もつかず。
「あはれ、優しき妹《いも》と脊《せ》よ。汝等が坐せる花の筵《むしろ》の其下に、 如何なる災禍《まがつみ》の隱れゐるとも知らで、 蝶々のごとく樂しげに浮かれ遊びゐるこそ愚かしけれ。今日の樂《たのしみ》の樂しければ樂しきだけに、 明日の苦《くるしみ》のいや苦しかるべきを悟らざるか。地上の淨土たる此樂園に、 しかいふ敵を防ぐに足るべき警備《かため》も置かで、さりとは笑止、 造化の翁《おきな》年の加減と覺えたり。さばれ、妹と脊、氣遣ふな。 朕《わ》が此處に來りしは、たよりすくなき汝等を害せむたにはあらで、互に仲好き交《まじはり》を結び、 打連れ立つて奈落に歸るか、さなくば、汝等と共に永く此地に住はむ所存。 實《げ》にも、我 住家《すみか》は、此樂土の樂しきに似るべうもあらねど、さりとて打捨てがたき造化の賜物、今、 改めて、汝等にも頒《わか》ち輿ふべし。地獄といへばおそろしげなれど、 地獄にもまた好き物の夥多《あまた》なきにしもあらず。 此處を彼處にかへて後、彼處の此處に似もつかぬが厭ならば、厭がる朕《われ》を彼處に追ひて、 罪なき汝等をうかゞはしむる、罪ある大神の御蔭ぞとおもひて、篤《あつ》く御禮を申し上げよ。 朕《われ》、汝等のたよりすくなきを見て、そゞろに同情の涙を催さぬにはあらねど、尊ぶべき朕《わ》が名譽のため、 且つは大奈落の安寧のため女々しき私《わたくし》の情を顧《かへりみ》るべき暇《いとま》なきをいかにせむ。」
斯く獨りごちつゝ、點頭《うなづ》きつゝ、やをら芝生におりたちたるセータン、 美小天使の花衣をば醜き四足獸《よつあし》の毛皮に脱ぎかへて、或は獅子王の肩を垂れ、 或は猛虎の足音を忍びつゝ、近く妹と脊の膝元に這ひ寄り、彼等がさゝめ言《ごと》によりて、 彼等を邪道に陷《おとしい》るべき緒《いとぐち》を探り求むべく、しばし兎の耳を澄しゐたり。
彼等の問答によりて察するに、此樂園の眞中《たゞなか》にある生命《いのち》の靈樹に竝びて立てる神木は、 智慧の樹と呼ばれて、 其實の美しさは金色の眞玉を懸け連ねたらむがごとく、そを觀る者をして、眼《まなこ》くるめき、心迷ひて、 思はず手をいださしむるばかりなるに、これを手に觸るゝよりはやく、おそろしき天罰が下り來て、 死の酸味を甜《な》めざるべからず。大慈大悲の聞えある大神が、 斯《かゝ》る竒《く》しき羂《わな》をば此樂土にかけおかるゝ其理由《いはれ》は知るよしなけれど、 魔王がためには願うてもなき好き手がゝりぞと、 ひそかに天に向ひて舌を吐きつゝ、なほ此 地方《あたり》の地理を探りおかで、 いざ事あらむ折の進退《かけひき》に便《たより》惡しければ、再び扮《やつ》す美少天使の蝉の羽袖輕《かろ》く、 森を潛《くゞ》り、谿を渉《わた》り、野を走り、山路を急ぎで、何處《いづく》ともなく彷徨《さまよ》ひゆく。
其間に、夕日は西の海なる白波の彼方に半《なかば》沈みつゝ、 樂園の東《ひんがし》なる大理石の大門に向つて名殘惜しげに金色《こんじき》の光を放てり。 此光に乘りて流星の射るがごとくに飛び來りしは、 先に魔王に欺かれて樂園の路を教へしユーリエル、あわたゞしく門内におりたち、 衞兵の長《をさ》として大神より遣はされたるゲーブリエルに聲をかけ、 何をかさゝやきしめすと、そのまゝ、またもやあわたゞしげに金色の光に乘りて、 夕日と共に西の海なる薄紅《うすくれなゐ》の雲間《くもあひ》に隱れ去りぬ。
やがて、薄墨色《うすずみいろ》の黄昏《たそがれ》の羽袖、山をつゝみ、野にひろがりて、獸は野末に、鳥は山蔭に、 己が臥床《ふしど》を占むる程なく、靜けき夜の女神の足の音に連れて、迦陵頻伽《かりようびんが》の鳴くねいみじく、 そを聞かむとてか、三つ四つ二つ、雲井の上の小窓より、下界をうかゞふ星の眼《め》の、 瞬《またゝ》く間《ひま》に青空隱す眞玉の光、 中にも宵の明星の影いとさやけく、我れは顏なる後より嫦娥《じやうが》の女王の笑まひやさしく、 白金色の長袖を夜の女神にかつぐるまで、夕餉の後のさゝめきに餘念なかりしアダムにイーヴの妹と脊は、 今しも手に手をとりて、明日の仕事の樂しさを語りあひつゝ、 神のめぐみの露深き、花の林の花の臥床《ふしど》に入りぬ。
樂園の守護神として大門内に控へたる大天使ゲーブリエルは、 今しも夜の巡邏《じゆんら》を始むべく一隊の衞兵を南北の二手に分ちて、 南なるはこれを副將アツヂエル [6-2] の指揮に任せ、北なるは自らこれを率ゐつゝ、 別にイシューリエル [6-3] とジーフォン [6-4] の二荒神《ふたあらがみ》を選抜して、 アダム、イーヴが住家《すみか》のあたりに向はしめしに、その夜も四更を過ぎて後、 南北の二手が御園の西の果に落ちあひたる時、件《くだん》の二荒神に追ひ立てられつゝ、珍らしや魔王セータン、 大地を踏鳴らしてゆるぎ出でたり。かねて、ユーリエルの密告によりて、 魔性の者の忍び入りしを知らぬにはあらねど、九重の獄門の堅きを蹴破りて、 しかも大魔王たる彼れ自らが今こゝに現はれむとは、さすがに想ひもかけざりし面々、 いづれも呆れに呆れて眼を見張るのみ。
彼れは、此地方《あたり》の地理を詳しく探り究めて後、再び園内に歸り、イーヴが臥床《ふしど》に忍び寄りて、 蟇《ひき》のごとくに彼女《かれ》が耳元にうづくまりつゝ、おそろしき毒氣を吹き込みゐたるを、 端なくも二荒神《ふたあらがみ》に見とがめられて、おめ〜こゝまで追はれ來りしなり。
やがて、ゲーブリエルは一同に目配せしつゝ、セータンに向ひて、輕からざる破獄の罪を責め、疾く〜退出すべき旨を、 言葉おごそかに申し渡す。其間に部下の面々は、魔王が周圍《まはり》に槍ぶすまをつくりて、 素破《すは》といはゞ一齊に繰り出さむと、力足踏みそろへて犇々《ひし〜》と詰めかくる。 彼等が手練《てなみ》にはおぼえあり、羽袖にかけて蹴散らすのは造作はなけれど、 大事の前の小事にかゝづらひて、意外の障碍《しやうげ》を招かむは愚の極と、 機を見るに敏《さと》き魔王は、月《つき》己に五更の空を仰いで天象を占ひつゝ、 ゲーブリエルが言葉のまに〜、夜の女神の影と共に何方《いづく》ともなく消え去りぬ。
「妾《わ》が命なる脊の君よ。忌はしき夜の影は消えて、今日もまた常に變らぬ御身の笑顏を見るこそうれしけれ。 想ひ出づるだに身の毛いよだつ昨夜《ゆうべ》の夢に、 誰れやらむ妾《わ》が耳元に來てさゝやくを聞けば『情《こゝろ》なのイーヴよ、 起きよ〜。月よし、夜よし、風もよい。ナイチンゲールのいみじき調《しらべ》も、聞く人なくば何かせむ。 うつくしき汝《いまし》の姿を垣間見むとて、夜もすがらまどろみもせぬ星の眼を、あはれと想はゞ起きいでよ。』と、 正《まさ》しく御身が聲にまがひなければ、急ぎ起きいでて、 御身が行方《ゆくへ》をたづねわびつゝ、ゆくりなくも智慧の木蔭に來てみれば、 晝には優《まさ》る花の色香いとめでたく、それか、あらぬかと、しばし怪む傍《かたはら》に、 あでやかなる一天人の佇《たゝず》みゐて、同じ梢を仰ぎつゝ、 『あなうつくしの智慧の樹よ、枝もたわゝに實りに實りても、神にも人にも他《よそ》に見られては、 重荷の肩をいつか休めむ。智慧はさまでに陋《いや》しきか。否《あらず》、智慧をば人に授けじといふ御意《みこゝろ》か。 さらば、何故《なにゆゑ》、こゝに植ゑおかるゝぞ。かの天の禁制《きんぜい》こそ心得ね。 いでや我、汝《いまし》が肩をやすめ呉るゝぞ。』と大膽にも猿臂《ゑんび》を延べて、 禁制の實を容赦なくちぎり喰ひ、舌打鳴らしつゝ、 『あな、たふとの智慧の實よ、枝にて見しより遙かに口には甘き其 味《あじはひ》、人をも神にすといへば、 實《げ》にかの禁制もさることながら、いかばかり神の數の増したればとて、全能の御光の減るにもあらぬに、 さりとては、また、御心狹きにも程こそあれ。いざや、美女《たをやめ》、織女星《たなばたつめ》に似通へるイーヴの姫よ、 御身も此美味を味ひて、光榮《はえ》ある女神の群に入り、狹い地球の檻をいでて、 我等のごとく、自由自在に天翔《あまか》けつゝ、星の世界のいみじき花園にも蓮華をまげよ。』と、 強ひて妾《わ》が口に件《くだん》の美味を投げ入れし後は、夢に夢みるがごとく、いつの程にか彼の天人に連れられて、 雲井の空に舞ひ上り、遙かに見下す地上の山川、我れながら我が飛行の速きに驚きて、 ふと我が足をかへりみる其 間《ひま》に、手引の神は何方《いづく》にか消え失せて、呼べど叫べど答なく、 忽ち地上に落ち來りて、なつかしき御身が聲に目さむるまで、なほ怪しき夢路をたどりぬ。」
聞くも忌はしき夢物語に、アダムもいたく打驚きしが、正《まさ》なき夢を氣にかけて、女々しう思ひわづらはむおろかしと、 やう〜心をとりなほして、悲しげに涙さすぐめるイーヴを勵ましつゝ、朝日の野邊に立ちいでゝ、 朝の祈祷《いのり》の聲高く、やゝしばらく天の冥助《みやうじよ》を祈り、胸の浮雲の晴るゝを待ちて、 名も高砂《たかさご》の浦風に、千歳《ちとせ》の松の落葉かく、年まだ若き尉《じよう》と姥《うば》のごとく、 二人樂しき朝の仕事にかゝりぬ。
しほらしげなる二人の様を、大神遙かに御覽じつゝ、物馴れたる老天使ラファエル [7-1] を呼びいだして、ねむごろなる大神言《おほみこと》あり。
「汝等も聞きつる昨夜《よべ》の物音は、先頃奈落を脱《ぬ》けいでし魔魁セータンが仕業《しわざ》たるにまがひなし。 彼れが計画《たくみ》の底は、いふもおそろし。汝 速《すみや》かに下界に下りて、樂園の花の扉《とぼそ》を叩き、 半日の閑話に胸襟を開きつゝ、それとなく惡魔の近づけるを告げて、萬一の不覺なからしむるやう、 好《よ》きに取りはからひ來るべし。』
老天使すなはち天意を領して微行《びかう》の羽袖輕く、瞬《またゝ》く間に七寶まばゆき天門を過ぎ、 五彩閃《きらめ》く星の世界を程なく翔けぬけて、樂園の一角なる大門脇の崕《がけ》の上にしばし憇ひつゝ、 天津大御使《あまつおほみつかひ》に對する守護神隊の最敬禮をうけ、案内の神をも伴はで、 獨り靜かに青葉の森をめぐり、花の林を蹈み分けて、露いと深き花の扉《とぼそ》をさしてゆく。
樂しい朝の業務《つとめ》を終へて、露の軒端に涼みゐたるアダム、木の間がくれに大御使の影を認めて、 晝餉《ひるげ》の支度にいそしみゐるイーヴを呼び、光榮《はえ》ある珍客《まらうど》を待ち受くべく、 互に何事をか諜《しめ》し合ひ、うなづき合ひつゝ、妹《いも》は脊戸《せど》にいでて、木の實をあさる手いそがしく、 脊《せ》は門邊《かどべ》にいでて、出迎の言葉うやうやし。
薔薇《さうび》の床に据ゑたる青芝の机に向ひ、苔の椅子に倚りかゝりて、今しも大天使ラファエルは、 二人が勸むる自然の美酒佳肴《びしゆかかう》に舌打しつゝ、心地よげに笑ひ興ずる聲、或は高く、或は低く、 先づ人倫の近きより口を切りて天道の高きに及ぼし、 天道に背きて人倫の敵となりたる大天使王 并《なら》びに一味の神々の墮落より新世界創造に至るまでの因果を説き、 さて、今日は神寵《しんちよう》めでたき人間《ひと》の胸にも、明日はいかなる毒蛇の宿らむも知れずと、 暗に惡魔の近づけるを諷《ふう》しつゝ、なほも雜談《ざふだん》に時を移して、 日暮るゝ頃までに、首尾よく天の使命を果しぬ。
天にはユーリエルの鋭眼《えいがん》あり、地にはゲーブリエルの利劔《りけん》あり、 さるに、今またラファエルが警告あり、セータンがいかなる大魔力ありとも、 此堅城を拔かむこと夢にも想ひ寄らざるべきに、不敵の彼れはこれにも屈せず、なほ飽くまでも初一念を貫かむと、 獨り心を千々に碎きつゝ、かのゲーブリエルがために樂園を追はれしより八日目の夜の狹霧《さぎり》にまぎれて、 千仞《ちひろ》の岩根の清水をくゞり、またもや靈樹の蔭に現はれ、塵甜《な》むるてふ毒蛇の體内にやどりて、 靜かに朝の來るを待てり。
やがて、朝になれば、アダム、イーヴの妹《いも》と脊《せ》は、雲雀と共に起きいでて、 例の禮拜に、天の冥助《みやうじよ》を祈りし後、今日の一日《ひとひ》を何に暮らさむと、 先づ其評定に額を鳩《あつ》む。
「脊の君アダム、我等二人が手に手をとりて、連理の枝蔭に落葉を拾ひ、小草を刈るも、 實《げ》に樂しきことの極なれど、我等が力に限《かぎり》あれば、手助となるべき子孫《くまご》が出で來ぬ間《あひだ》は、 假令《よし》夜を日に繼ぎていそしむとも、廣き御園の片端を掃き淨めることだになか〜に覺束なきを、 いつまで斯くあらむ御身が意見《こゝろ》ぞ。二人 并《なら》びてあればこそ、蝶の羽風にもゝめきて、 想はぬ時をも過すなれ。さなくも惜しき日蔭を惜しまば、いざ、今日よりは右と左に別れて、 御身 此處《こなた》の池に藤波を浮ぶれば、妾《われ》はまた彼方《かなた》の森に薔薇《さうび》の花環を飾りてむ。」
一理ありげに聞ゆれど、さすがにイーヴは女人の智慧淺くて、早やラファエルが注意《こゝろづけ》をも忘れけむ。
「我妹《わぎも》よ、我れは御身が心がけの殊勝なるを喜ぶ。さばれ、寸陰を惜みてまでもいそしみ働かむは、 反《かへ》りて大神の御意《みこゝろ》にも背くべし。御身同棲の單調に倦みて、 時に獨居の變化を求むるとならば、我れ強ひて異論は唱へじ。たゞこゝに考ふべきは、 先頃 大御使《おほみつかひ》より聞きたる彼の惡魔が事なり。 變幻不思議の魔術を用ゐて我等を邪道に導かむとする、彼れにとりては、 我等が別居は願うてもなき好き機會《をり》となりはせずや。 我等が周圍《めぐり》には常に彼れ惡魔の付纒ひゐるを忘るべからず。」
思慮深きアダムは、言葉しづかにイーヴに向ひて、危險の恐れ多き彼女《かれ》が發議を打消さむと試みたれど、 一轍なる女氣は、反《かへ》りてそがために激しけむ。
「大御使《おほみつかひ》の御言葉にいつはりなくば、 實《げ》にも我等が周圍《めぐり》には常に惡魔の付纒ひゐるに疑ひなけむも、 若し左あらむには、何樂しからむ我等が身の上、此處を樂園とは名のみにて、 地獄と露擇ぶところあるまじく、自然大神の稜威《みいつ》にもかゝはらむ道理《ことわり》。 假令《よし》いかならむ惡魔の我れをうかがふとも、我が心さへ動かずば、何をか憂へ、何をか怖れむ。 誘惑の試金石とやらに逢はずば、道念の堅きもほこるに足らじとこそ聞け。萬物の靈と生れ來ながら、 惡魔の聲に聞きおぢせむは、反《かへ》りて大威力を疑ひ奉つるにも似たるべし。」
斯くまで思詰めたるを、強ひて爭ひもどかむは、餘りに女々しかるべく、 彼女《かれ》はた容易に我を折るまじく見えたれば、アダムは不安の眉を皺《しわ》めながらも、 遂に彼女《かれ》の言葉に從ひぬ。あゝ、時は來れり、大魔王が大魔力を揮《ふる》ふべき時は來れり。
「こは、そも、何たるいぶかしさぞ。野末にすだく虫けらには、情《こゝろ》はありても聲はなく、 聲はありて意味《こゝろ》はなきが常なるに、汝《な》れ何時《いつ》の間に人間《ひと》の言葉を學びえて、 斯くやさしげに物いひ寄るぞ。」
智慧深からぬイーヴが、脆くも誘惑の網にかゝるを見て、此方は黒きその腹の底に怪しき笑みを隱しつゝ、 いよ〜やさしげに物いひ寄る。
「光榮《はえ》ある女王として美はしき此世をしろしめすイーヴの女神よ、 我れも昔は野末にゐて、聲なき虫けらと共に塵土《ちりひぢ》甜《な》むる身なりしが、或日、 そゞろあるきの歸るさに、何やら得もいはぬ物の香に迷ひて、そこはかとなく彷徨《さまよ》ふうちに、 ふと我が目にとまりしは、仰ぐもまばゆき木の實の色澤《いろつや》、 高き梢に金色《こんじき》の玉をかけたらむがごとく、見れば見るほどいやまさる美しさに、 咽喉《のんど》鳴り、鼻うごめきて、我れ知らぬ間に、苔滑かなる其枝の上に這ひ登れば、 早くも下には夥多《あまた》の虫けらの集ひ來て、うらやましげに仰ぎゐるも可笑しく、 獨り極樂の美味を占めて、開きたる彼等の口に唾を吐きし程なく、不思議にも我が舌は自由自在に動きて、 心のまゝに人の言葉を使ひ分くるに至りぬ。斯くて後は、いやしき虫けらの心を去りて尊き人間のなすがごとく、 春の花に神祕の色をゆかしみ、秋の月に美の神の面影を忍びて、 彼の造化の妙趣を味ふ樂しさ。さばれ、造化の妙趣を一身に萃《あつ》めたる御身が姿のいみじさには、 春の花も其色を失ひ、秋の月も其光を奪はるべし。不意に物いひ寄りて、やさしき御身を驚かしたるは、 其罪輕からねど、花に舞ふ蝶々のごとく、月になく虫のごとく、御身が姿にあくがれて、 我れにもあらぬ粗忽の振舞、深くな咎めたまひそよ。」
いよ〜訝《いぶ》かしき彼れが言葉にいつはりなくば、我れも行きて其實を見ましと、 イーヴは好竒の心に前後の辧《わきまへ》もなく、例へば、人里遠き枯野の末に、巡禮一人行き暮れて、 怪しの鬼火に誘はれつゝ、路なき路を行き〜て、底なき沼に落つるがごとく、 おそろしき毒蛇の口車に乘りて、禁制の智慧の樹さして急ぎゆく。
「汝《な》が譽めたゝへしは何處にぞ。これ智慧の樹とて、我等が手にも觸るべきものならず。 此實を味ひし汝《な》が口の、自在に人の言葉を使ひ分くるは、實《げ》にさもありぬべし。さばれ、 我等には大神のおそろしき掟《おきて》あるをいかにせむ。」
さすがに我れにかへりて、おもはず身をふるはせば、こゝぞ大事の瀬戸際と、此方は聲を勵まして、 言葉たくみに、掻き口説く。
「宇宙の女帝よ。天罰の虚喝《からおどし》は恐るゝに足らず。御身は不老不死の靈體を有てり。 木の實の一片《ひときれ》を味ひて死するがごときは御身の靈體に萬あるべからず。 いやしき虫けらの我等すら、天罰も受けねば、死にもせで、反《かへ》りてそがために一層幸あるな身となれり。 虫けらにそを容《ゆる》して、虫けら以上の人類にはそを許さゞるか。 人の一命を木の實の一片にかふるがごときは、大慈大悲の聞えある大神の御意にはあらで、 殘忍酷薄な惡魔王の心なるべし。善を知る惡しきか、惡を知る惡しきか。善を知れば善を行ひやすく、 惡を知れば惡を避くるのたよりあり。能く善を知り、能く惡を知る者は、やがて神となる。 御身 一度《ひとたび》善惡の木の實を味はゞ、一躍して天上界の女神の群に入らむは必定なれば、 そを嫉む者ありて、さる埒もなき根なしごとをいひ振らしつると覺えたり。假令《よし》、彼等の傳説にいつはりなく、 眞實《まこと》天罰うを受けて死の酸味とやらを味ふとも、神たらむがための死ならば、寧ろこれ此上《こよ》なき幸ならむのみ。 善惡の美味を獨り占めて、うらやましげに開きたる人間の口に唾吐くは、 しかいふ虫けらにも劣りたる分際にして、神なぞとは想ひも寄らず。人類の向上を嫉むは惡魔のみ。 惡魔の戲言《たはごと》に聞きおぢするは、宇宙の女王陛下たる御身にも似合はしからぬことよ。 さばれ、いざ、かの美味を手にとりて、誰れ憚らずお味ひたまへ、やよ、女神。」
やがて、晝餉《ひるげ》の時刻にもなりて、さなきだに空腹を覺ゆる折柄、目に美はしき色を見、 鼻に妙なる香を嗅ぎつゝ、聞けば聞くほど心地よき彼れが言葉に、あはれむべきイーヴが心はしきりにときめきて、 氣も魂も身に添はず。
「名もかぐはしの智慧の實よ。汝《な》があぢはひのいみじさは、聲なき虫けらの聲を立てゝ、 汝《な》が徳を歌ふにも知られたり。 おそろしき彼の掟《おきて》が眞實《まこと》大神の本意ならば汝《な》が名のかぐはしきは、 罪なき人の子を誘ひて深き〜罪の淵瀬におとしいるゝ氣懶《けうと》き穽《おとしあな》とも見做されるべく、 大慈大悲の御名の汚れともなりぬべし。知らざる善は行はむによすがなく、 知らずして行ひたるは善たるの値《あたひ》なし。善を知るを惡《あくにく》み、 知見を開くを厭はむものは、實《げ》に惡魔の外にあるべくも覺ず。 地に腹這へる虫けらすら、天の美禄《びろく》を獨り占めむのいやしき心なく、斯くやさしげに妾《われ》にもすゝめて、 共に樂み、共に喜ばむとするを思へば、天より高く地よりも廣き大神の胸の中に、 さる汚き御心のあるべき筈なく、死とやらむ、天罰とやらむ、 さる忌はしきものゝ此世にあるべき理由《いはれ》も無けむ。」
斯く獨言《ひとりご》ちつゝ、我れ知らぬ間に手を延べて、荒々しく叩き落したる智慧の實を、餓鬼のごとくに貪り喰ふ。 あゝ、墮落!未來永劫浮む瀬なき人類の墮落は、こゝに其端を發《ひら》けり。天これがために流涕《りうてい》し、 地これがために慟哭するも、今や既に遲し〜。
拜殿に忍び入りて、靈酒を盜み飮み、醉ひしれては膽《きも》太くも、 神に向つて戲言《たはごと》を吐く小盜人《こぬすびと》のごとく、 天國の美味に心遠くなりたるイーヴは、毒蛇の逃げゆくに氣もつかず、 智慧の樹を仰いで獨りうれしげに笑ひさゞめく。
「斯《かゝ》るいみじき木の實をば雨風の餌として其儘に棄てゝ顧みざりしは、我れながら何たるおぞましさぞ。 やさしき蛇の注意《こゝろづけ》なくば、いつまで天罰の虚喝《からおどし》を恐れて、 あたら眞玉《またま》を淵に沈むる心なりけむ。天は高くして地は低し。いかに全能の大神にても、 地上に起る數限りなき出來事をば、殘らず見きはむるがごとき煩はしさにはよも得堪へじ。 大神の周圍《めぐり》には夥多《あまた》の天津御使《あまつみつかひ》がありて、 四方八方に目を配りゐるといへば、それに心ゆるして、妾等《われら》がことにはよも想ひ到らじ。 おそろしき彼の掟が、眞實《まこと》大神の御意《みこゝろ》よりいでたりとも、 斯《かゝ》れば天罰の恐れもなし。 たゞ氣遣はしきは妾《わ》が脊アダムが意見《こゝろ》のみ。事の始末を詳しく彼れに語りて、 此樂みを彼れと共に樂まむか。或は、深くそを祕め置き、我獨り美しき女神となりて、 彼れの驚き仰ぐを樂しまむか。さばれ、萬が一にも天罰 妾《わ》が頭上に落ち來りて、獨り死の鰐口に噛み碎かれなば、 幸にして生き殘りたる彼れは、妾《わ》が事などは夢にも想ひださで、第二のイーヴと共に、樂しき月日を樂みやせむ。 生を喜び、死を厭《いと》ふも、所詮はなつかしき彼れのあればこそなれ。彼れなくば、 淨土も穢土に異ならじ。いざ、さらば、淨土の美味を彼れにも與へて、 常世《とこよ》の春の長閑《のど》けき空に、 二人うれしく天翔《あまがけ》りつゝ男神女神《をがみめがみ》の羽袖を比《なら》べむ。」
かぐはしき智慧の樹の一枝をかざし持ちて、何笑ましげに歸り來るイーヴ、アダムの姿を見るより早く驅け寄りて、 さも誇らしげにありし始終を物語る。
「脊《せ》の君アダム、餘りに遲き妾《わ》が歸りを、嘸《さぞ》や待ちかね給ひつらむ。 由《よし》なきことをいひいでて、御身を惱まし、また我が身をも苦しめしは、深き思慮なき妾《わ》が罪と、 今更悔ゆるも其甲斐なし。さばれ、こゝに珍らしくもまた訝《いぶ》かしきは、かの智慧の樹のことなり。 かの樹の神木たるに疑ひはなけれど、我等が聞きつるとは反對《うらはら》にて、一度《ひとたび》其實を味はゞ、 いやしき人間の形骸も、忽ち智見いみじき靈體となりて、神通自在なる神々の群に入るべく、 現に塵甜《な》むるてふ蟲けらの中にも、そを味ひし者ありしが、おそろしき天罰とやらも受けず、 けうとき死の影にも逢はで、反《かへ》りて我等にも優らむほどの思想と辯舌とを兼ね得たり。 爭ひがたき此實證に心動きて、妾《われ》も試みに其 一片《ひときれ》を味ひしに、 實《げ》に神木の靈效其場に現はれて、目いよ〜明かに、耳、いよ〜聰《さと》く、心ます〜神々しくなりて、 われながら靈智の底測りがたきを怪しむに至れり。されど、妾《われ》獨り神通力を得たりとも、 御身なほいやしき人間の形骸を脱せずば、神と人とを隔ての雲の八重垣《やへがき》に遮られて、 長《とこし》へに逢瀬波寄る天の河原に、誰れを片おもひの貝がら拾はむも心細ければ、 御身にもこをすゝめて、常世《とこよ》の春の長閑《のど》けい空に、二人うれしく天翔りつゝ、 男神女神の羽袖を并ぶべく、芳しき情《なさけ》の露もこぼさで手折り來つる此 土産《いへづと》、 いざ、心おきなくめさせ給へ。」
青天の霹靂にも似たらむ彼女《かれ》が言葉に、アダムが面色《めんしよく》は見る〜土のごとく、肉 顫《ふる》ひ、 骨 戰《おのゝ》きて、さながら雷火に打たれし枯木《こぼく》の姿あはれに、 しばし聲も立たねば涙もいでず。
「あはれ、地上の天女たる、尊く、氣高く、優しく、なつかしきイーヴは、思慮淺くも誘惑の網にかゝり、 おそろしき大罪を犯して、けうとき死の青淵《あおぶち》に片脚を入れたり。我が半身たる彼女《かれ》の墮落は、 やがて、彼女《かれ》の半身たる我が墮落なり。春の花、秋の月、彼女《かれ》あればこそ樂しけれ。 我が月消えし闇の世の我が花散りし森蔭に、我れ只一人生き殘るとも、何樂しかるべき春秋ぞ。 假令《よし》、第二のイーヴに出逢ふことあらむとも、散りにし花が枝にかへり、 消えにし月の空にかへらむ時は何時《いつ》。 所詮、我が骨たり肉たる彼女《かれ》と離れて、獨り長らへ得べき我が命にあらず。 苦か、彼れと共に泣き、樂か、いで、彼れと共に樂しまむ。」
斯く思案を定めて、落つる涙を呑みながら、彼れはやう〜口を開きぬ。
「膽太きイーヴよ、斯《かゝ》るおそろしき大罪をば、能くも御身は犯しつるかな。 さばれ、過ぎ去りたるは追はむに由《よし》なく、 已に成し了りたるは廢《や》めむに術《すべ》なし。 今はたゞ運を天にまかせて騎虎《きこ》の勢の到りきはまる所にいたりてやまむのみ。 かの蛇の言葉にいつはりなくば、よし神たるを得ずとも、死の顎口を脱《のが》れむこと、或はなしとも限られじ。 いみじう造り成したる我等二人を、一時の怒にまかせて、趾形もなく亡さむは、餘りに短慮に過ぐるに似て、 全智の御名にも適ふまじく、 さなくも口さがなき惡魔どもに後指さゝるゝ恐れもあるべし。いづれにしても我が骨たり肉たる御身と離れて、 獨り長へ得べき我が命ならねば、是非なく此身を御身にゆだねて、共に生死を決すべきぞよ。」
こを聞きたるイーヴは、早や天へも登りたらむ心持にて、うれし泣きの涙をすゝりつ。
「命にかへても妾《われ》を棄てざる御身が情《なさけ》の深さは、底なき海の深きにも優るべし。 さばれ、御身の命を危くするがごときことあらば、寧《むし》ろ妾《われ》獨り死の青淵に沈むも厭はじ。 事の始末を御身に語りしは、さる恐れなき實證を見、且、妾《われ》自ら試みたる上なれば、いざ、 心おきなくめさせたまへ。」
外面如菩薩《げめんによぼさつ》の空涙《そらなみだ》に迷ひて、 あはれ、遂にアダムが鐡石心《てつせきしん》は熔《とろ》けたり。 かぐはしき香に鼻を鳴らし、いみじき味《あじはひ》に舌を鳴らして、彼れもまた此世ながらの餓鬼となりぬ。
神木の靈效は立ちどころに現はれたり。彼等は泥のごとくに醉ひて、大地狹しとよろめきつゝ、 頻りに脇腹を撫でゝ、早や天人の群に入りたらむ言葉使《ことばづかひ》可笑しく、 暫時《しばし》うれしげに躍りくたびれて、 やがて、日ざかり涼しき晝寢の床に果敢《はか》なき邯鄲《かんたん》の夢路をたどりぬ。
神木の靈效は彌著《いやいちぢる》しく現はれたり。 粟飯かしぐほどの夢の間に無邪清淨なりし彼等が五體は穢《きたな》き塵土の昔にかへりて 妹脊《いもせ》の神山に似たりし神々しさも、今は煤烟《ばいえん》いぶせき煙突の姿淺間しく、 長へに煩惱の焔を吐けり。
「うたゝねの夢の間にも、變り果てたる此 態《さま》は、思慮淺き御身が罪ぞと、思へば〜憎きイーヴよ。 御身が言葉のごとく、彼の實の一片《ひときれ》を味ひしより、實《げ》に我が眼力はいよ〜鋭くなりしに似たり。 されど、善を失ひて惡を得たるを見むためならば、寧ろ此眼力の鈍からむこそ望ましけれ。 無邪清淨の道念は、我等を保護する羽衣なりしも、何處へか其羽衣は奪ひ去られて、 今や我等は眞《まこと》の赤裸《あかはだか》となりぬ。御身が膽《きも》は太ければ、 斯《かゝ》る醜き態《さま》をば青天白日に曝《さら》しても露心に疚《やま》しき所なかるべし。 されど、我が膽《きも》は御身のごとくに太からねば、 仰ぎて天に恥ぢ、伏して地に恥ぢ、天と地との間に身の置所だになきを悲しむ。 あゝ、汝《いまし》、花の林よ、我がために花の衣を裁《た》たざるか。あゝ、汝《いまし》、霞の山よ、 我がために霞の帶を縫はざるか。」
呼べど、叫べど、花の唇かたく閉ぢて、霞の息に音もなく、たゞ氣懶《けうと》き木魂《こだま》の笑ふ聲のみ。
青天白日のまばゆき光に恥ぢて、やがて、彼等は晝なほ暗き森の奧に身をひそめつゝ、 つゞれさせてふ虫の音に、怪しげなる落葉衣をつゞくりぬ。
「さても〜變り果てたる此 態《さま》は、皆これ思慮淺き御身が罪ぞと、思へば〜憎きイーヴよ。 御身 從順《すなほ》に我が言葉を用ゐて、我が傍《かたはら》を離れざりせば、斯《かゝ》る憂目に逢ふこともなく、 今なほ幸ある身ならむに、我強《がづよ》きことを言ひ張りて、おぞくも惡魔の羂《わな》にかゝりて、 他《 ひと》をも苦しめつゝ、なほ且つ悔ゆるを知らざるか。 誘惑の試金石に逢はずば、道念の堅きも誇るに足らずなどと、廣言吐きし其舌の根の未だ乾かざるに、 淺間しき此有樣は何事ぞ。あはれ、婦女子の誓言ほど頼母しからぬものは世にあらじよ。」
餘りのくちをしさに、女々しくもならべ立つる愚痴の繰言《くりごと》をば、高き鼻の先にてあしらひつゝ、 イーヴはうすき唇をそらせり。
「心つめたきアダムよ。さな獨り賢《さか》しげに物いひたまひそ。いかに御身の思慮深くとも、 いかで彼の變幻自在なる妖魔の術を看破り得む。さほど賢しき御身ならば、 從順《すなほ》ならざる妾《わ》が手を押《おさ》へ、妾《わ》が足を縛りても、 御身の傍《かたへ》を離さであるべきに、 さはなくて、危險の目の前に近づくを見つゝ、何故《なにゆゑ》、快く放ちやりしぞ。 我等が墮落の原因《もと》は、全く御身が心の餘りに弱かりしにあれば、 妾《われ》は御身に怨みこそあれ、喞言《かごと》をいはるゝ覺えは兎の毛もなきを、 さりとてはまた御身が智慧も淺きにや似たらむ。」
鷺《さぎ》を烏《からす》といひ黒めむとするあつかましさに、アダムは怒の眼《まな》ざし鋭く、 拳《こぶし》を握りて詰め寄りぬ。
「恩知らずのイーヴよ。 光榮《はえ》ある女神の群に入るべかりし御身は淺間しくも恩に報ゆるに讐《あだ》を以てする禽獸の群に入れり。 御身の死を他《よそ》に見つゝ、 我れ只一人此樂土に生き殘りて、うつくしき第二のイーヴと共に樂しき年月を樂しむも我が心の儘なりしを、 彼の大神の御意《みこゝろ》に背きてまで御身と生死を共にするは、深き〜我が情《なさけ》ぞとも知らで、 反《かへ》りて、其罪を我れに塗らむとする其心根の汚さには驚き呆れて物もいはれず。 我等が墮落の原因《もと》は我が心の弱かりしにあらで、 御身が智慧の淺かりしにあり、否《あらず》、御身が道念の想ひの外に堅からざりしにあり。 危險の近づけるを知りつゝ快く御身を放ちやりしは、御身にも靈智あり道念ありて、 能く誘惑の試金石に堪へ得べきを信じたればなり。誘惑の試金石に逢はずば、道念の堅きも誇るに足らずなどと、 廣言吐きし御身を御するに、禽獸にも加へがたき暴力を以てせざりしに、そも〜何の不思議かある。 所詮我が不覺は、御身の虚言《そらごと》を信じ過《すぐ》したるにあり、否《あらず》、 禽獸に等しき御身をば、 人間と同一《ひとしなみ》に視たるにあり。此毒蛇、他《 ひと》に向つて毒言を吐かむよりは、 先づ其舌を噛みて、己《おの》が罪の痛さを知れ。」
斯くして、墮落の淵に沈みたり彼等二人は、益《やく》なき爭論《いさかひ》に樂しからぬ日を送りぬ。
樂園の守護神として東門内に控へたるゲーブリエルの一隊は、彼等が墮落の遂に救ふべからざるを見て、 急ぎ其旨を叡聞《えいぶん》に逹すべく、羽袖を連ねて天門に向ひぬ。
「朕《われ》、人間に輿ふるに自主の精神と自由の意志とを以てせり。されば、己れに出でたるものは、やがて己れに返る。 其罪あれば、其罰なきを得ず。朕《われ》、神子を下界に遣はして、容赦なき天罰の鐡笏を彼等の頭上に加へしめむ。 されば、慈悲深き神子の願によりて、下界の事は一切其處理に委ね置くたれば、彼等に悔悟の實だにあらば、 再び幸ある身とならむこと必ずしも難きにあらず。」
一同天意の動かしがたきを見て、神子を送りて天門に出て、遙に下界を望みつゝ、 あはれむべき人類のために、熱き同情の涙を濺《そゝ》げり。
神子を乘せたる四天使王の羽袖が、樂園の一角なる東門脇の崕の上に憩《いこ》ひしは、 日も入り方の野路に山路に、千草の虫の聲々清く、昔ながらの夕《ゆふべ》の祈祷《いのり》をあぐる頃なるに、 神を忘れしアダムとイーヴの妹《いも》と脊《せ》は、今日もまた晝なほ暗き森の木蔭に横はりつゝ、 益《やく》なき爭論《いさかひ》に日の暮るゝも知らず。やがて、何方《いづく》よりともなくかをり來るいみじき物の香に、 早くも神子の天降《あまくだ》りしに心づき、互に何をかさゝやきて、獵男《さつを》に追はる兎のごとく、 あわたゞしげに木の下闇《したやみ》に身を隱す。
「アダムは何處《いづく》ぞ。雲井遙かに朕《わ》が姿の現はるゝを見るより早く、 足を空にして出迎ふるを常とせしアダムは何處《いづこ》ぞ。朕《わ》が來りしに心づかであるか、或は、 手放しがたき所用《よう》にてもあるか。アダムは何處《いづく》ぞ。」
大地の底までも響き渡るべき御聲いと高らかに呼び立てられて、二人は逃げむに途《みち》なく、 隱れむに蔭なく、小鬢《こびん》にかゝれる蜘蛛の巣を拂ひながら、 御前に向つて屠所《としよ》の羊のあゆみを運ぶ。
「御足の音は彼處《かしこ》にて聞きたれども、御聲を恐れ、且つは、我が裸體を恥ぢて、しばし木蔭にひそみしのみ。」
恥かしげに口ごもりつゝ、手足を縮めてうづくまりたるアダムが姿を、いぶかしげに打見やりつゝ、 神子は御言葉やさしく責め問ひたまふ。
「朕《わ》が聲は汝が耳に馴れたり。喜びて朕が聲を聞きし汝《いまし》の、 今俄に朕が聲を恐るゝは何故ぞ。 また、何時《いつ》の間に何人に聞きて、其身の裸體なるを知りしぞ、いと〜いぶかし、 朕が推察 違《たが》はずば、汝等二人は彼の禁制の神木に手を觸れしと覺ゆるが、如何《いかに》。」
いかに人間の口賢しくも、全知全能の御神を欺き得むことは、夢にも想ひ寄らざるべきにあらず。 なまなかに隱しだてせば、反《かへ》りて後のため惡しかりなむ。
「今は何をかつゝむべき。 我が配偶《とも》として大神より降《くだ》しおかれたる此 婦人の理《わけ》なきすゝめによりて、 心ならずも彼の實の一片《ひときれ》を味ひ侍《はべ》りぬ。」
「こは怪しかることをいふ。イーヴは汝を支配する大神なるか。 眞《まこと》の大神の御言葉に背きてまでも、彼の女が言葉に從はざるべからざるか。 實《げ》にもいみじき彼の女が姿は、汝《いまし》の愛を惹くに足らむも、其愛に溺れて、自分の本分を忘れしは、 其罪 固《もと》より汝《いまし》にあり。」
さて、墮落の張本たるイーヴに向ひては、多言を費すの要もなければ、御言葉もいと手短なり。
「いで、女、汝《いまし》が罪の次第を語れ。」
鷺を烏にいひ黒むるほどの辯者も、神子の前に出でてはさながら唖者のごとく、 幾度かいひにくげに顏赤らめつゝ、蚊の泣くがごとくにうめきつぶやく。
「口賢しき蛇にあざむかれて、われ知らぬ間に、彼の實の一片《ひときれ》を味ひ侍りぬ。」
神子、すなはち、彼の惡魔王を宿したる毒蛇を呼びいだして、おごそかなる大神言《おほみこと》あり。
「野に彷徨《さまよ》へる生物の數はいと多かれど、其罪業の汝《いまし》が深きに及ぶものなし。 朕《われ》、汝《いまし》が輩《ともがら》をして、 終生地に腹這ひ、塵土《ちりつち》を甜《な》めて、未來永劫浮む瀬なからしむ。 且、彼の女と汝《いまし》と、彼の女の子孫と汝《いまし》の子孫との間に、 不倶戴天の怨念を抱かしめて、互に相傷つけ、相 害《そこな》はしめむ。」
次にイーヴに向はせたまひて、
「朕《われ》、懷胎といふことによりて、汝《いまし》の悲しみを加へしめむ。 汝《いまし》は、四苦八苦の裡《うち》に子を設くべし。 而して、汝《いまし》の夫の意《こゝろ》のまゝに働きて、そが命令に驅使せらるゝを厭ふべからず。」
最後に、アダムに向はせたまひて、
「智慧淺き女人の言葉を聽き、全知全能の大御言に背きて、禁制の神木を汚したる汝《いまし》がためには、 その神木を生ぜし大地こそ怨めしかるべし。されば、怨めしきその大地に鍬《くは》を入れて、 額に流るゝ汗の玉もて、其日々々の麺包《ぱん》を買ひつゝ、大地よりいでたる汝《いまし》が五體の、 やがて、その大地に歸らむ時を待て。」
彼等が運命はこゝに定まれり。彼等は、今より、大慈大悲の御手を離れて、波風荒き浮世の人とならざるべからず。 さるにても、斯く裸體のまゝにては、今までと違ひて、寒暑を凌ぐにも便宜《たより》惡しかりなむと、 御情《みなさけ》厚き毛衣を作り、顫《わなゝ》き震へる彼等に與へて、やがて、 四天使王の羽袖輕く、夕月の空に消え失せたまふ。
此處は地獄の大門内に、妖魔罪姫が四邊《あたり》憚らぬ聲高く、今しも怪魔デッスを呼びて、 何をか樂しげに語らひゐる。
「大奈落の王たる汝《な》が父セータンが、我等をはじめ、死地に陷れる神々のために、一條の活路を開くべく、 魔界の重任を一身に脊負ひて、新世界探檢の途に上りしより、杳《えう》として其消息を聞かざることこゝに幾日。 其間、我等は何の爲すこともなく、只茫然として、空しく時を過せり。 大王が我等の追從を禁ぜられしには、深き仔細のあることならむも、 いやしくも大奈落の王たる至尊の玉體の四面皆敵なる天涯地角《てんがいちかう》に千辛萬苦を甜《な》めさせらるゝを他《よそ》に見つゝ、 なほ何時《いつ》までも斯くあらむは、餘りにこゝろなきに似たり。よし大王の本意には背くとも、 我等の本分を盡さむがためには、寸時も斯《かゝ》る處にためらひ居るべきにあらず。 且、大王の武運拙くして事若し失敗に終らば、再び彼の雷火に驅られて、此地獄へ墜ちて來らむは必定なるに、 今に至るも何の消息なきを以てみれば、此度の事はいよ〜成功に定まれり。久しく夢にのみ見し新世界をば、 現《うつゝ》に見むも近きにあり。我等も分相應の勳功《いさを》をたてゝ、 此 鴻恩《こうおん》の萬一に報いざるべからず。いで、さらば、新世界征服の記念として、 彼處と此處とを隔つる溟漠無邊の渾沌界に一大橋梁を架して、 光榮 比《なら》びなき大勝利者の凱旋を待たむ。」
勇しげなる罪姫が言葉に、デッスは小躍りして喜びつゝ、打連立ちて獄門を出で、前《さき》にセータンが殘したる足跡を傳ひて、 溟漠無邊の渾沌界に分け入り、無敵の怪力を揮《ふる》うて、手に觸れ、足に觸るゝ物をば、 火となく、水となく、風となく、土となく、片端より石となし、岩となして、見る〜奈落と新世界との間に、 長《とこし》へに消えざる夕虹のごとき、石の廣路を開き、岩の浮橋を架けたり。
是れより先き、セータンは、巧みにイーヴを欺きて、首尾よくアダムをも邪道に引き入れたる後、 しばし木蔭にひそみて、なほも彼等の成行きをうかゞひ、 遠征の目的が全く成りしを見きはめたれば、急ぎ蛇の薄衣《うすぎぬ》をば美小天使の蝉の羽袖に脱ぎかへて、 此度はユーリエルの鋭い眼にも見咎めらるゝことなく、再び星の流沙を分けて、左手《ゆんで》の流星を拂ひ、 右手《めて》の彗星を踏み飛しつゝ、難なく新世界をぬけいでゝ、今しも渾沌界のほとりに來てみれば、 かの大獄門に殘し置きたる罪と死との二荒神が、何時《いつ》の間にか溟漠無邊の境に一大橋梁を架して、 光榮 比《なら》びなき我が凱旋を待ち受くる殊勝さ。
「我妹《わぎも》よ、我が子よ、汝等が此度の勳功《いさを》は、實《げ》にセータンが骨肉たるに恥ぢず。 さしも難所と聞えたる大渾沌界も、今よりは神人往來の巷となりて、奈落の獄門に一大市場を現ずるも近きにあり。 朕《われ》はこの吉報を齎《もたら》して衆魔殿に急がむ。汝等両名は朕《わ》が大使として、是より直ちに新世界に入り、 朕《わ》が大衆を率ゐて歸り來む日まで、地上の警備を怠る勿《なか》れ。」
片時も早く奈落に歸りて、我が大功を部下の衆魔に誇らむと、心急きに急きたるセータンは、 言葉も忙しげに罪と死とに別れを告げて、石の廣路に砂烟を卷き、岩の浮橋に火花を散らしつゝ、眞一文字に大獄門を驅け拔け、 火の荒海を跳《をど》り越へて、メムフィスの高塔に似たる大奈落王の形相おそろしく、 忽然衆魔殿の眞中央《まつたゞなか》に現はれ出づ。
新世界よりの吉報を待ちわびて、此衆魔殿の大廣間に集り、連日の會議に神疲れ、氣倦みて、太き溜息もつきかねる折柄、 想ひもかけぬ大王の凱旋はさながら地獄に佛の譬《たとへ》のごとく、一同思はず手を合せて、 隨喜の涙は雨霰!あはれ、大奈落王たるセータンが大得意の頂點は、今此刹那にあり。
「諸神、朕《われ》、諸卿を呼ぶに敢て此名を以てす。光榮《はえ》ある天上の諸神、 既に失はれたる天國は、朕《わ》が努力によりて、再び諸神の所有《もの》となれり。 諸神は今より、平和なく、安息なく、悲、哀、痛、苦、あらゆる酸味を集めたる此絶望の淵を出でて、 光明かぐはしき彼の新樂土に入るべし。諸神の咽喉《のんど》は渇けり。諸神の腹は餓ゑたり、 諸神の心は已に彼の地にあらむ。されば、大千世界の蒼穹を踏破し盡したる朕が千辛萬苦の長談義に、 心急きたる諸神を苦むることをやめて、 第二の天國たる彼の地の首尾よく朕《わ》が手に入りし一條の概略《あらまし》のみを語らむ。 朕、千辛萬苦の末、塵 甜《な》むるてふいやしき蛇に身を扮《やつ》して、先づ智慧淺き善女イーヴを欺き、 次に心弱き善男アダムをも邪道に導きて、試みに彼等をして禁制の林檎の實を味はしめしに、 天帝の怒想ひの外烈しく、短慮にも兩人并《なら》びに、兩人の棲む地球をも投げ棄てゝ、 氣懶《けうと》き罪と死の餌食となしたる愚かさ。一林檎のためにいみじき人類とうるはしき世界とを併せ棄つる、 寧ろ滑稽に似たれども、斯くして、朕が千辛萬苦も水の泡とならで、 僅《わずか》に一擧手一投足の勞を以て、諸神のために第二の天國を建立することを得たり。 あゝ、遂に時は來れり。起てよ〜、天上の諸神。」
大殿堂も覆らむばかりの大喝采に引きかへて、怪しくも鳴り渡る物音は、地獄の大釜より洩れ出づる湯氣の響のごとく、 正《まさ》しく我れを叱咤せむずる氣色《けはひ》に、さしもの魔王も驚き呆れて、 しばし茫然として佇《たゞず》む程なく、なほ怪しくも其顏は縮まり、其腕は肋《あばら》に纒《まと》ひ、 其脚は一つに捩れて、根こそぎにしたる大木の音すさまじく、高座《たかくら》の高きより倒れ落ちて、 起たむとしても起たれざるに氣を焦《いら》ちつゝ、聲高らかに叫ばむとすれど、たゞシュウ〜といふ音のみして、 思ひのまゝに舌も廻らざるにいよ〜驚きて、ふと其身を顧みれば、これはそもいかに、 大天使王の玉體は、何時《いつ》の間にか大蛇の姿と化《な》り果てたり。咄《とつ》、何たる造化翁の悪戯ぞ、 さては、かの怪しき物音も、我れを叱咤するにはあらで、彼れを罵倒せむとする聲にして、 彼等もまた我れと運命を共にせしかと、やをら大鎌首を擡《もた》げて四邊《あたり》を見廻せば、 今の今まで花の羽衣を并べたる一堂の内に、見るもおそろしき大蛇小蛇、山のごとくにうづ高く、 得もいふべからざる惡臭惡氣に、さしも莊嚴華美を極めたる衆間殿も、見る〜熔《とろ》け去りて、 さながら風に消えゆく大蜃氣樓の影も形も殘らずなりぬ。
「あはれ、美しき世界の果はこれか。美しき世界の花たりし人間の果はこれか。 さても變り果てたる世の中に、さても〜變り果てたる我が身かな。さばれ、我が悲《かなしみ》のこゝで止まるものならば、 所詮免れがたき我が罪と諦めらるゝよすがもあらむが、なほ此上にいかなる苦《くるしみ》の續き出でむも測りがたきを想へば、 廣き大地に憂身《うきみ》一つの置き所だになきを、數限り知られぬ子孫《こうまご》の生れ來て、我が細腕にからまり、 我が痩脛《やせすね》に纒《まつ》はむ暁には、いかに成りゆく我が世なるむ。 想へば〜、怨めしの大神よ。此身あればこそ此苦もあれ、此身さへなくば此苦もあるまじきに、 何故、此苦を苦しむ此身をば造りたまひしぞ。 我れに一言の斷《ことわり》もなく斯《かゝ》る憂身《うきみ》を造りて、無理難題の掟を設け、 なほ無體にも罪の青淵《あおふち》に陷れて、永劫の苦にうめかしむるとは、そも〜何たる非道の仕方ぞ。 我れに先見の明あらば、我が生誕のその初めに、憚りなく彼の難題を斥くべかりしを、 既に罪の青淵《あおふち》に沈みたる今に及びては、いかに悔ゆるとも其甲斐なけむ。 さばれ、假に、我れに不孝の子ありて、我れを責むること我れの大神を責むると同じき場合ありとせむに、 我れよく其責を負ひて、彼れが不孝を看過《みすご》さむや、如何《いかに》。 斯く飜りて考ふれば、我が此 喞言《かごと》も其 理由《いはれ》なく、所詮免れがたきは我が大罪。 さらば、其大罪の報《むくひ》として、天罰の鐡笏立ちどころに我が頭上に下るべきに、 いつまで半死の苦にうめくべき我が命ぞも。 今は氣うとき死の神のなかなかに慕はしく、塵より出でたる此身の塵に歸らむ其日こそ待ちに待たるれ。 我が生みの母たる大地の膝に凭《もた》れて、心やすけく結ばむ長夜の夢路には、呵責の鞭のひゞきもなく、 おそろしき神雷のとゞろきもなかるべし。あゝ、死か〜、など片時も早く來らざる。いかに全能の大神にても、 無限の憤怒《いかり》を有限《うげん》の此身にはうつしがたければ、 數限り知られぬ我が子孫《こうまご》の生れ來む日を待ちて、 心ゆくまで彼の天罰の鐡笏を揮《ふる》ひまはさむ御意《みこゝろ》か。 我が罪は我れ一人の罪なるに、我が子孫《こうまご》にまでも及ぼさむは、非道にもまた程こそあれ。 さはいへ、彼れ若し我が願を容れて、幾億萬の子孫《こうまご》に頒《わか》ち與ふべき一切の罪をば、 我れ只一人のやせたる此肩に投げかけむ時、全地球よりもなほ重き其重荷に、 我れ能く堪ふるの勇氣ありや、如何《いかに》。あゝ、死か〜、來りて我が肉を裂け、急ぎ來りて我が骨を碎け。」
我れと我が頭を撃ち、我が胸を叩きて、絶え入らむばかりに悶え苦む。想へば同じイーヴも、 彼方《かなた》の木の根に身を投げ伏して、悲嘆の涙に咽《むせ》び居たるが、餘りに苦しげなるアダムが樣を、 さすがに見すてゝも置かれなねば、やをら此方によろめき來りて、言葉やさしくげにいひ慰むる。 されど、此方は情《すげ》なく顏を背けて、かつ喞《かこ》ち、かつ怨みつゝ、なほも絶え入らむばかりに悶え苦しむ。
「退《さが》れ、毒蛇、汝《いまし》が姿は人間に似たれども、汝《いまし》が心は毒蛇よりもおそろし。あゝ神よ、 全智の名ある大神よ、天上の神には男女の別なしと聞くものを、何故、下界にのみ斯《かゝ》る竒《く》しき妖魔を造りしぞ。 子孫蕃殖のためならば、他に其 途《みち》もあるべきに、さりとては、また、惡戲《あくぎ》を弄するにも程こそあれ。 あゝ、かへす〜゛も怨めしの大神よ。」
今はイーヴも前のごとくに爭ひもどかん力も泣く〜、瀧のごとくに流れ落つる涙を拂ひもあへず、アダムが足下にひれ伏しつ、
「許させたまへ、脊《せ》の君よ。御身が怒りもさることながら、妾《わ》が命たる御身に棄てられては、 死せるに等しき此體を、さな憎々しげに退《しりぞ》けたまひそ。御身には罪も科《とが》もなけれど、 若しありとせば、そは妾《わ》が罪の半《なかば》にも及ばねど、 其苦はた其 半《なかば》にも及ぶまじ。妾《われ》には、神に對すると、御身に對すると、此二重の大罪あり。 今さら謝罪《わび》の八千度《やちたび》繰りかへすとも、御身の怒は解くまじければ、最後の裁判のあらむ折には、 墮落の張本たる我が身一つに一切の罪を負ひて、御身に對する我が大罪の幾分を償はむ覺悟。 兎ても角てもたすかりがたき此身を、せめては蟲の呼吸《いき》の通はむほどだに、 やさしき言葉をかはしてよ。」
我強《がづよ》く拗《くね》りしたことはありても、元より女性《によしやう》の心弱くて、 此方《こなた》を杖柱とも頼めばこそ、斯く足下にひれ伏して、 謝罪《わび》の八千度《やちたび》繰りかへすものを、いかにアダムの怒烈しくとも、 情《すげ》なう跳ね退《の》くるにも忍びず。
「御身が言葉は殊勝らしけれど、我が怒りだに得堪へぬ御身の、いかで彼のおそろしき大神の怒に得堪へむ。 さばれ、かよわき御身にだにさる覺悟ある上は、我れいかに女々しくも、いかで後れを御身に取らむ。 最後の裁判のあらむ折には、我れ一切の責を負ふべし。先づ、それまでは、益《やく》なき爭論《いさかひ》をやめて、 樂しからぬが中にも、せめては成らむかぎりの樂を樂まむこそ賢かるべけれ。」
夫《つま》の心のやゝ和らぎたるを見て、小さき胸を撫でおろしつゝ、イーヴはやう〜起き直りつ。
「やさしき御身の一言によりて、已に死なむとせし我身の、俄によみがへりたらむ心地ぞする。 されど、いつかは死すべき我等の行先を想ひ、 且つは、我等が犯しゝ罪のために未來永劫其罰を受くべき幾億萬の子孫《こうまご》の嘆きを想へば、 いつまで斯くてあるべき我等が命ぞ。子孫《こうまご》なき今の間に覺悟する所なくば、 愛しき子孫の生れ來にたらむ後に至りて、臍を噛むとも其甲斐なからむ。一日《いちじつ》を長うすれば、 一日《いちじつ》の苦《くるしみ》を増す。寧《むし》ろ、死の鰐口に噛み裂かれて、 一想《ひとおもひ》に呼吸《いき》の根を斷ち、禍《わざはひ》の根を斷たむこそ、なか〜に心やすかるべけれ。」
顫《ふる》へる唇を噛みしめつゝ、思込みたるさまにて、アダムが顏を見つめたり。 彼れが心が動けり。彼れはしばし思ひに沈めり。人類の存亡は、彼れが一言によりて決せむとす。
「御身の覺悟は、我が意《こゝろ》を得たり。されど、我れに今一つの疑あり。御身が言葉のごとく、 死の鰐口に噛み裂かれて、一想に呼吸《いき》の根を斷たむは、 或は難きにあらざらむも、未來永劫浮む瀬のなかるべき我等が、 斯くして容易《たやす》く禍《わざはひ》の根を斷たむことは、殆ど望み得らるべきにあらず。天網いかに粗くとも、 いかで我等の大罪を洩すべき。肉體の死と共に、精靈の苦も熄《や》むものならば、 我等の死したらむ後、神は何方《いづかた》に向つてか其怒をうつさむ。全能の大神にさる不用意のありとおもふは、 智慧深からぬ人間の空想のみ。なまなかに小才を弄《もてあそ》びて、大威力の御怒を増さむよりは、 寧ろ素直に御掟《みおきて》に從ひて、御心のやはらがむ日を心ながく待たむこそ賢かるべけれ。 且、大御子の御言葉によれば、 御身は毒蛇を敵《かたき》として、彼れと合ひ見る毎に、彼れが頭を叩き碎くべき筈なるに、 御身亡からむ後は、誰れか天に代りて、呵責の笞《しもと》を彼れが頭に加へむ。苦痛よ〜と事々しげにいへど、 御身が將來の苦痛ともなるべきものは、僅《わずか》に懷胎の苦惱《なやみ》あるのみ。 やがて、愛兒《いとしご》の笑顏を見るに至らば、 其 苦惱《なやみ》もいつしか忘られて、反《かへ》りてそがために後の樂を増さむもはかられず。 たゞこゝに憂ふべきは彼の守護神隊の退き去りし其日より、天象に地氣に大異變を生じて、 暑き日ざかりには燒き殺さるゝがごとく、 寒き夜ふけには凍え死ぬるがごとく、風吹けば荒く、雨降れば烈しく、時ならぬに稻妻閃き神鳴り渡るなど、 餘りの物凄さに身の置所なきを疑ふほどなれど、 囚人《めしうど》たる我等がために手づから毛衣を造らせたまひつる彼の大御子の御情《みなさけ》より推して考ふれば、 こもまた深く氣遣ふには及ばざるべく、兎まれ、角まれ、我等が所有《もの》ならぬ我等が身ぞと諦めて、 御情あつき大御子の御手に縋《すが》りつゝ、我等が天運の盡くる日を待たむこそ、なか〜に心やすかるべけれ。 いざ、さらば、我妹《わぎも》よ、彼方の森蔭に殘りたる御足の跡に跪きて、涙の雨と吐息の霧とに大空を曇らしつゝ、 懺悔の赤心《まごゝろ》を雲井遙かに聞えあげてむ。」
邪道に深入せむとして、ふと正直に振りかへりたる彼れが一言は、 能く幾億萬の子孫《こうまご》を無底の奈落より救ひ出せり。
彼等が懺悔の赤心《まごゝろ》は、直ちに天に通じたりと覺しく、やがて、大天使マイケルは、大命を奉じて天降りぬ。 夢かとばかりに喜び迎ふる二人に向ひて、大天使はいとおごそかに天意を傳へていふ。
「二人の祈祷《いのり》をあはれと聞《きこ》しめされて、呵責の笞《しもと》をしばしゆるめよとの大御言なり。 今より善行を積みて怠らずば、やがて、恩赦の御沙汰に接することもあるべし。さりながら、 已に汚れたる其身を、此安樂園の淨土に久しくとゞめ置かむことは、神慮に叶ひがたければ、 今宵一夜の中に何處《いづこ》へなりとも立ち退くべし。」
呵責の笞《しもと》をゆるむべしとの大御言はかたじけなけれど、年久しくも住み馴し此樂園を立ち退けよとの嚴命は、 さすがに豫想の外に出でたれば、アダムは暗涙《あんるい》を呑みて言葉なく、 イーヴは身をふるはせて泣きわぶる。
「あはれ、なつかしの花の御園よ、汝《いまし》と別るゝは死よりも悲し。 同じく死ぬるものならば、彼處《かしこ》の森の下蔭にこそと、 手づから落葉を拂ひ、露の小草を刈りて、薔薇《さうび》の床をしつらへ、 小百合《さゆり》の褥《しとね》を敷き竝べしも、今はなか〜に物思ひの種とはなりぬ。其種の頃より、 土かひ、水をそゝぎて、いたはり育てたる此方《こなた》の花壇の花のいろ〜、今日は幾つの蕾愛らしければ、 明日は幾つの笑顏を見ましと、指折り數へて樂みしも、今はた見ぬ世の夢となりはてぬ。 あはれ、なつかしの花の御園と別れて、波風荒きいづくの果に、塵と消えゆかむ我が身ぞも。」
想ひは同じアダムも、やがて、イーヴが喞言《かごと》に和して、大御使の足下にひれ伏しつ。
「大御言の旨は、いともかしこし。そを爭ひもどかむは、大空に向ひて唾吐くにも似たらむ。さばれ、此處に生れ、 此處に育ちて、此處より外に足踏みいだしたることもなく、 ゆく〜は此處の塵土《ちりひぢ》たらむとのみ思ひ詰めたる我等二人に向ひて、 今俄かに此處を立ち去れよとの嚴命は、實《げ》に死刑の宣告よりもなほおそろし。 若し我が願言《ねぎごと》の叶ふこともあらば、朝な夕なに祈祷《いのり》の八千度《やちたび》繰りかへしつゝ、 我が子孫に向ひて、朝露かぐはしき彼の岡の上こそ、天津大神の出現ありし處なれ、 夕霧匂へる此の芝生こそ、天津大御子の我れに言葉をかけられし處なれ、 小夜風《さよかぜ》さゝやく彼方《かなた》の水際こそ、 天津大御使の憇はせ給ひし處なれよと、神寵ありがたかりし昔を語つて、感謝の涙に咽ばむものを、 今俄かに此花園と別れては、あはれ、波風荒き何方《いづかた》の果に彷徨《さまよ》ひつゝ、 いづらの空に向つてか報恩の微意を聞えあぐべきぞ。」
血涙の雨を流しつゝ、哀訴の膝を八重に折るとも、天意は今や微塵も動《ゆる》がず。 已に汚れたる其 醜骸《しうがい》を、久しく淨土に留め置かむは、所詮神魔に叶ふべくもあらず。 斯くして、人類の遠祖《おほつおや》たるアダム、イーヴの二人は、 地上の天國たる花の樂園を失ひ畢《をは》んぬ。(完)