赤い瞳の若者は、ハンナの腕をさながら雑草でも抜くかのように引いた。ハンナの体は、雑草のようにあっさりと化け物の口の中から引き抜かれた。
自分をそっと床に下ろしたその若者の脚にハンナは抱きついた。
「ありがとう、助けてくれてありがとう」
若者は、答えなかった。それどころか、ハンナの顔を見ようともしない。
若者が見ていたのは、件の化け物の方だ。しかも慈愛に満ちた優しい微笑みを浮かべて。
見つめられている化け物の方も、どうやら笑っているらしい。
「おまえ、すごくつよい、いのち」
今まで以上に大きく口を開き、手を使うのももどかしく、獲物に覆い被さるようにかぶりついた。
「いやぁあ!」
諸共飲み込まれる……ハンナは目を固く閉じた。
痛みを伴った衝撃が、彼女の身体を吹き飛ばした。
何か柔らかい物に突き当たって、ハンナの身体は止まった。酷く痛む腹の辺りをそっと見ると、白いドレスの上に小振りな靴の跡が付いていた。
ハンナを蹴り飛ばした若者の姿は、辺りにはない。
見回すとと、十歩も先のところに件の化け物の姿がだけが見えた。
閉じた口の端から、白い小振りな靴が突き出ていた。
「あの人も、食べられちゃったぁ!」
叫び終わってから、ハンナはあわてて己の口を覆った。
大声に気付いた化け物が、彼女の側に顔を向けたのだ。
化け物はしげしげとハンナを見、
「おまえのいのち、いらない。もういのち、たくさん……」
満足げにニタリと笑った。
歪んで重なっていた口角が、じわりと開いた。少しずつその隙間は広がって行く。
「おお、おおおおお」
今度は化け物の方が口を覆った。
革の弛んだ顔が、苦痛に歪んでいる。
身体がガタガタと震え、やがては膝の力が抜けた。最後にはどすんと尻餅をついた。
化け物は口の辺りを掻きむしった。太い指が、口の端から突き出た異物に当たった。
化け物はその異物……先ほど頭から飲み込んだ人間の脚……を掴み、力任せに引き抜いた。
ズルリと引き出されたのは、飲み込んだ人間よりも三回りも大きな、赤黒い肉のかたまりだった。
それは、先ほどハンナが見た、化け物の腹の中で亡者の群れそのものであった。いや、それ以外の肉、つまり化け物自身の臓物も芋蔓に引き出された。
化け物はあわててそれを体の中に戻そうとした。だが足掻けば足掻くほど、肉は身体の外に出て行く。
その様は、さながら、袋の口から手を入れて、裏返しているかのようだ。
骨の砕けるめりめりという音を立てながら、それでも化け物はまだ動いていた。
しかも外表になった身体でどうにか移動しようとしている。どうやら、自分が引きずり出した「最後に飲み込んだ人間」から遠ざかろうとしているらしい。
臓物の先にからまりついた亡者の群れのその中心で、「最後に飲み込まれた人間」は相変わらず微笑んでいた。
「おおお、おおおお、おおお」
声なのか音なのか知れない空気の震えを発しながらじりじりと進んだ化け物だったが、やがて何かに突き当たって、止まった。
行く手を遮ったのは、薄汚れた靴と、薄汚れたズボンをはいた人の脚だった。
太く逞しい脚の持ち主、ブライト=ソードマンだった。
彼の体中には無数の傷があり、無数の血の流れた跡があった。……血はとうに止まり、傷口はふさがりつつあったが。
ブライトは裏返しになった化け物の、頭であるらしいところに片足を乗せると、
「つまるところお前は、図体がデカくて少々知恵があるのが厄介なだけで、結局シィバじいさんの手袋とかわらねぇって事だろう? とうに死んだはずの人間の命の燃えかすを腹の中に詰め込んだ、蛋白質の塊め」
その灰色がかったクリーム色の塊を、一息に踏みつぶした。
「ビッ!」
小さく悲鳴を上げた化け物だったが、それでももぞもぞと動いている。
ブライトはおもむろに
「【恋人達】」
アームを呼び出すと、二つの切っ先を化け物に突き立てた。
化け物は動くことを止めた。だが、その引き延ばされた臓物の先にあるモノ達は、まだ蠢いている。
亡者達は、まるで母親に抱かれた赤子のような安堵の顔で、その人間にすがっていた。
いや、すがっていたという表現は、間違っているかも知れない。
彼らは、その中心に立つ人物にまとわりつき、徐々に同化していた。
その様を例えるなら、囚われし乙女のレリーフ。
赤い目の、白い髪の、青白い肌の、ヒトを越えた姿。
「あの、バカが。俺に二度も同じ手間をかけさせる気か」
ブライトは死骸と残骸とを一足飛びに越えた。そのままの激しい勢いで剣を振り、そのままの激しい勢いで肉のレリーフ……死人に引きずられたエル・クレール……に斬りかかった。
右に掴んでいた刃が、一人の亡者の肩口にめり込んだ。
そして、そこで止まった。押すことも引くことも敵わない。
だがブライトは、アームごと自身が引かれるような感覚に襲われた。
「ナンだ!?」
身体は動いていない。引かれているのは、力であるとか、命であるとか、そう言ったモノだけだ。
「お前、今度は死人だけじゃなく、生きてるモンまで取り込むつもりか?!」
ブライトは全身全霊を右腕に込め、引いた。
アームの切っ先はようやく抜けたが、心なしかその赤い光が弱くなった気がする。
「ヒトのアームまで喰いやがって。くそったれが、まるきりオーガに堕っちまったてぇのかッ?!」
エル・クレールは慈愛の笑みを崩さず、ゆっくりと右腕を持ち上げ、手招きをした。
「土から生じたものは、土に返る。そして再び土から生じる。世界は巡る。その環を断ち切ってはならない。故に、死せる者は全て天へ戻せ」
「お前、何を言っている?」
どこかで聞いたことのある……ブライトは、後頭部の痛みと吐き気に耐えながら、経文のような言葉の出所を思い出そうとしていた。
乾いた部屋。
壁一面の書棚。
金属と薬品の溶けるにおい。
古びた書物。
虫食いのある行間。
その言葉は、赤茶けたインクで書かれていた。そこまでは思い出せる。だが、
『畜生め、回りが見えてこない』
彼は行水後の犬のように頭を振った。
目を見開いて、エル・クレールをにらみつけた。
彼女の身に何が起こったのかは解らない。
原因は解らないが、彼女が「死んだはずの人間達」を自分の中に取り込もうとしているのは事実だ。
身体に張り付いていた亡者共は、半分以上彼女の身体に溶け込んでいる。そして彼女自身は、相変わらずの慈愛の笑みを浮かべていた。
しかし顔色は青白く脂汗にまみれていた。
肩で息をし、赤い瞳にはうっすらと苦悶の涙が浮かんでいる。
【主公】
突如、女の声がした。
その声は、ブライトの脳に直接響いていた。出所は、ブライトの左手に握られた、もう一本の赤い剣だった。
【主公、はやくあの方を止めて下さい。あの方はまだ、その準備が整っていらっしゃらない】
「準備だと? 何のことだ」
ブライトは改めてエル・クレールの頭のさきから爪先まで、舐めるように見た。
脂汗をかいた顔の下、肩から胸にかけての線が、妙に柔らかく膨らんでいる。それだけではない。腹も、腰回りも、丸く大きい。
『アイツ、あんなに胸があったか? 何でまたいきなり、あんなに丸っこいうまそうな身体に……。待てよ、あの腹の出方は、まるで妊婦じゃないか!』
【あの方は、死せる魂をおのが胎に取り込んで、新たな命として産み落とそうとなさっている。悲しみも執着もない、新しい命として……。ですかが、あの方はまだ子を産むには早すぎます。どうか主公、あの方を止めて下さいませ】
左手の剣が懇願する。
「要するに、まだアイツは本当に童女で、子供を産むどころか、血を流したこともない、って事かい」
剣は、答えない。恥ずかしがる乙女のように黙り込んだ。
ブライトはため息を吐いた。
「そう言うことなんだな。……しかし、止めろと言われても……」
アーム【恋人達】で斬りつけてもどうやら無駄だというのは、先ほどの一撃で知れた。
『ハンターの武器も、オーガの牙も、喰われたグールどもも、今のアイツにしてみれば、等しく「死せる魂」って訳か。厄介だな』