舌打ちし、ブライトは両の拳を握りしめた。
「戻れ、【恋人達】」
双振りの赤い剣は、燃え尽きる炎が発するような拒絶の声を上げながら、しかし主の掌の中に消えた。
そうしてなんの武器も持たない手で、ブライトはやおら……頭を掻いた。
「さて、どうしてくれようかねぇ」
「なんじゃ、何も考えておらんのか?」
呆れの大声にブライトは力無く振り向いた。杖を担った老人が瓦礫の上を跳ね進み、こちらに近づいてきている。
「どうにもココが足りないンでね」
ブライトは自分のこめかみ辺りを指さし、力無いため息を吐いた。
「それよりじいさん、あんた無事かい?」
「昔から逃げ足の速さだけは自慢じゃった」
軽い足取りでブライトの脇をすり抜け、シィバ老人は死肉の柱の間近に近寄る。
老眼を細めて書物を見るような、あるいは腐りかけた保存食のにおいをかぐようなそぶりで、彼はその物体を観察した。
「回りはどうやら【聖杯の三】に引きずられたていた連中のようじゃな」
「いた? じゃあクレールのドジは【聖杯の三】に取ッ捕まったンじゃねぇのか?」
エル・クレールは【聖杯の三】という亡者達にねだられて彼らに新しい命を与えようとしている……ブライトはそう考えていたのだが。
「ほう、これはエル坊かね? うむ、たしかにエル坊のような顔をしておるが、わしの知っているあの坊やとは別人じゃな」
老人は垂れ下がったまぶたを指先で持ち上げて、強引に目を見開いて見せた。
「器は同じように見えるがのう。中身は先ほどとは違う。あの坊主が全身の毛穴から発していた我の強い正義感が、これからはまるきり感じられぬよ」
「我の強い、正義感……!?」
ブライトは視線を自身の両掌に落とした。
指先を切った革手袋の下で、涙滴の様な形をした紋章が、赤くうずいている。
直後、彼の視線は、彫像のようなエル・クレールの身体……大きくえぐれた腰の左側……に移った。尖った視線で白い肌を睨めつける。
「あいつが【正義】のアームをあそこから引きづり出しているってことは、あそこにゃ【正義】の紋章なり痣なりがあるはず」
そこには、痣どころかほくろの一つも無かった。
その代わり、冗談のように大きくふくらんだ胸の谷間で、何かが薄ぼんやりと光っている。
まるで、浮き出た血管のようだった。それが、衛星を従えた日輪の文様になっている。
文様は心拍の鼓動のリズムで、ビクリびくりとうごめいていた。
「あれは、アームなのか?」
ブライトが困惑してつぶやく。老人は
「そう見えぬかえ?」
何故そのような当然のことを聞くのかと言いたげに答えた。
「死人の臭いがしねぇ」
「ほう。おぬし、鼻が利くの」
一転して老人は大きく感嘆してみせる。さながら「出来の良い弟子の回答を褒める教師」のようであった。
「たしかにエル坊は生きておるんじゃからの。当然アレは死人の魂ではないわさ」
「てことは、ありゃ生き霊かよ」
「まあ、そんなところじゃて。それでじゃな、その生きた力が、周りの亡者共をつなぎ止めておる」
シィバ老人は苦笑いしてうなずいた。
ブライトは全身の力が抜けるほど呆れかえった。
「クレール、本当に莫迦だよ、お前さんは。死人共が『新しく命を得たい』と願ってるんじゃなく、お前さん自身が新しく産み直そうとしてるだって?
そんなつらそうな顔で、そんな苦しそうな形で!?」
ブライトのがなり声が彼女に聞こえている節はなかった。頬の引きつった慈母の笑みを返すばかりである。
「そう言う事じゃな。つまり生来の力よ。普通はそんなモノが身体に影響を与えよう事などありえぬのじゃが、どうやらそれが何かの拍子にあふれてしもうたんじゃろうて。
ところがそいつが強すぎて、身体が追いつかない。ようするに自家中毒と言う奴じゃ」
名医の見立てのように明快な老人の言葉に、ブライトは逆に不審を抱いた。
「じいさん、あんたそんな『症例』を他にも見たことがあるような言いっぷりだな」
「どうやらお主より数倍長生きしておるでな」
ニヤリと笑ったシィバ老は、しかし腕組みして
「原因が何であれ、きっかけはわしにある。弱々しすぎて役に立たぬ魂共を一つにまとめてしもうたのはわしじゃし、オークを作る研究の根幹にはわしの著作がある。さていかにしてエル坊を元に戻してやるか、だが……」
「あれがクレールの魂だって言うなら、ぶった斬る訳にゃいかねぇ。大体斬ろうにも、あの莫迦は俺の【恋人達】まで見境無しに取り込むつもりと来ている」
忌々しげに爪を噛むブライトの胸元に、老人は
「元の『栓』が合えば良いんじゃがのう」
赤い珠を差し出した。
「そいつは【正義】のアームか。あの底抜けのドジめ、吹っ飛ばされた拍子に手から放しちまったのかよ」
「先ほどまでと今とでエル坊に違いがあるとすると、このアームだけじゃ。おそらくこれが何かしらの枷になっておったのだろうよ。しかしいくら【正義】の銘を持つアームとは言っても、その所有者のエル坊から鼻を突くような正義感が匂うものかのう。坊やが若すぎて、外からの影響を受けやすいとはいえども……」
「どんな跳ねッ返りでも、実の親の影響ってのは、他のモノより余分に受ける」
「ほう、これは親か。なるほど、なるほど。エル坊は親の言いつけを聞くよい子であった訳か。なるほど、なるほど」
大仰なほど感心する老人の掌の上で、珠は穏やかに光を放っている。ところが、その表面にブライトの指先が触れた瞬間、
「痛!」
雷のような放電が、彼の爪を割った。
老人は珠とブライトを見比べた。
「嫌われておるようじゃな。お主、この魂の持ち主となんぞあったか?」
「ンな覚えはねぇよ……多分な」
ブライトは苦々しげに唇を曲げ、今度は素早く強引に珠を掴んだ。
指の間から青白い稲光が漏れる。その数倍の衝撃を、ブライトは受けていた。
皮膚の焦げるにおい、血液の沸騰するにおいが、彼の右手から漂う。
流石にシィバ老人も心配して、
「ソードマンよ、右腕が使い物にならんようになるぞ」
脂汗をかきながら、しかしブライトは自信ありげにうっすらと笑った。
「死人の嫉妬なんぞに負けるほどヤワじゃねえよ」
そうしていっそう強く【正義】の珠を握りしめる。
ブライトはエル・クレールの鼻面にその珠を、血まみれの拳ごと突きつけた。
「保護者の再登場だぜ、お姫様。
どうにも口惜しいし、手前ぇが情けなくもあるんだが、どうやら今のところお前さんを助けられるのは、俺じゃなくて親父さんってコトのようだ」
聞こえているのかいないのか、エル・クレールは微笑みを凝固させたままぴくりとも動かない。
ブライトは続ける。
「お前さんがどう思っているのか判らないがね。少なくとも親父さんはまだ親離れさせる気はこれっぽっちも無いとさ」
やはり返事はない。
ブライトは赤い珠をエル・クレールの胸に置いた。歪に脈打つ血管のような、あの紋章の上に、である。
珠は、途端に放電することを止めた。
そして、紋章も痙攣することを止めた。
乾ききったスポンジに吸い込まれる水のように、【正義】のアームはエル・クレールの体の中に消えた。
彼女の身体に張り付いていたモノ達は、崩れるように剥がれ落ち、地面の上で腐った血の水たまりを作った。
そしてエル・クレール自身はというと、吊り糸を断ち切られた飾り人形さながらに、ブライトの腕の中に倒れ込んだ。
ブライトは安堵したが、少々不満をも感じていた。
理由は二つある。
一つ目は、自信の力でエル・クレールを助けられなかったこと。
もう一つはというと、多産の女神そのままにふくよかであったエル・クレールの肉体が、あっという間に元通りの細身に戻ってしまったことだった。