「だから何度もいうが、グーで殴るな、グーで」
ブライトは、両鼻の穴に裂いたハンカチを詰め込んでいる。
「助けてやったんだぞ。あのままだったら、お前は間違いなく犯されてた」
隣を行くエルは、答えない。
「感謝されこそすれ、グーパンチ喰らわされるいわれはなかろうに」
まだ無言だ。
美しい男装の女剣士と、むさ苦しい中年の傭兵は、哀れな農婦の亡骸を担って、近くの集落へ向かっていた。
「ははぁん。おまえ俺に、そのおいしそうなおっぱいを見られたことが、そんなに恥ずかしかったのか。もぉ、ウブなんだからん♪ でも、照れ隠しに殴るなんて大人げないぞ」
鼻に詰め物をした無精ひげの男は、助平丸出しににやけた。
すると。
エルは、ぴた、と立ち止まった。
眉をつり上げ、ブライトをにらみつけると、
「私は、あなたの所有物ではありません」
「今はまだ、な。でも安心しろ、じきに嫁にしてやる」
一瞬、エルの白い頬が赤くなった。しかしすぐ、首を左右に振り、
「未来永劫、あり得ません」
「つれないこと言うなって。こんなにあ・い・し・て・るのに」
言い終わらない内に、平手が飛んで来た。
「殿方は、勝手すぎます」
そういうエルは、瞳の内に涙を満たしていた。それがいつあふれ出してもおかしくない。
ブライトの口元から、助平笑いが消えた。
「勝手なのは、俺個人じゃないのか?」
「皆、勝手です。まるきり女を道具のように扱うではありませんか。欲のはけ口か、子を産む畑か…商品のように売り買いもする。そのうえ、傷付けても、苦しませても、罪悪感がない」
瞼の堰が決壊した。
大粒の涙を拭きもせず、エルは苦痛に顔をゆがめたままの亡骸の頬を、そっとなでた。
「おまえは、賢すぎて、真面目すぎて、優しすぎる」
ブライトは頭を掻いた。
しばらく、二人は黙ったまま立ち尽くしていた。
やがて、ブライトがつぶやいた。
「俺は、おまえさんが傷付けられるのも、苦しむのも、それから怒りに我を忘れるのも、あげくに悲しむのも、見たくないと思ってるがね」
ブライトは冷たくなった亡骸を負い直すと、再び歩き始めた。
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