信じられないくらいの速さで、エルは「身支度を整えた終わった」と、ブライトの部屋にやってきた。
 しかし、女は化ける、とは良くも言ったり。普段、少女歌劇団の立て役者が演ずる「美少年」といった風貌のエルが、すっかり別人になっていた。
 
 雪を頂いた山のような髪型は、プレゼントの箱のようにリボンで巻き結ばれている。
 ゴブラン風で紅い薔薇模様のドレスときたら、想像以上に襟刳りが胸側に大きく開いていて、いつ乳房がこぼれてもおかしくない。
 コルセットの締め付けが多少弱く「蜂のようなウエスト」の演出は不足しているが、そのかわりスカートは傘の開き始めたベニテングダケよろしく大きくふくらんでいた。
 
 髪を結い上げると大人びた顔になるタイプと、逆に幼く見えるタイプがあると言うが、エル・クレールは前者だった。
 自分がわざわざ選んできた「猥雑」なドレスを、その妖艶妙齢な姫君が着て現れたのだ。ブライトが無精ひげを剃りかけていた剃刀は、彼の手から落ち、節穴の開いた床に突き刺さった。
「作戦、中止」
 痙攣のように瞬きをしたかと思うと、ブライトが言った。
「何故ですか? 『仮面舞踏会は入場者の身元確認をしないが、それにしても男女連れだって行った方が怪しまれない』と、あなたが言うから、わざわざ着替えたのに」
 エルは少々不服そうに訊いた。
「自分で見立てをしておいて言うのもナンだが、おまえのその衣装は危険過ぎる。蟻の巣に砂糖を放り込むようなもンだ」
「ご心配、痛み入ります。……ですが、あなたがこの衣装を買いあさっている間に、私もこの領国のことを少々調べていたのですよ。それで、面白いことが解りました」
 血のように赤く塗られたエルの唇が、ふっと甘いカーブを描いた。
 それを見て“しまった”ブライトの、剃刀を拾い上げる動作や、鏡を凝視して剃り残しを確認している様は、明らかにエルから視線を逸らすための演技だった。動作がぎこちなく、下手な人形師が操る傀儡くぐつさながらである。
「この領国、人口の男女比が、四対六だそうですよ。……ふつうは同数か、むしろ女性の方が多いというのに」
「……ここ最近になって、男の数が減った、か?」
 小さくうなずいたエルの仕草に、思わず息を飲む。
 どうしても視線をそこに注ぎたいという欲求が抑えられなくなり、ブライトは横目で、エルの顔と、その四寸ばかり下の二つの丘陵をちらりと見た。
 その視線の熱さに気づかぬまま、エルは続ける。
「この地の領主は代替わりしたばかりで、まだハタチ前のダヴランシュ伯爵ですが、実質的には姉さん女房な奥方のアーデルハイド夫人が権力を掌握している。 ……何しろ、アーデルハイド夫人はフェンリル皇帝の異母妹ですから」
「ちっ!」
 ブライトは「フェンリル」と聞いた途端、顔をしかめ、せっかく整えた髪を掻きむしった。
 オーガハンターは、一応「皇帝直臣」である。しかしブライトは、臆面もなく『あのヒヒ野郎の名前を聞くと頭痛と吐き気がする』という。それも、どうやら比喩ではなく、本当に発作的な頭痛がするようだ。
「坊やな旦那じゃ満足できねぇんで、男漁りの舞踏会を開いてやがる訳だ。集まってきた男共を『喰う』ために」
「ですから砂糖はむしろ、そうやってひげを剃って、髪をくしけずり、夜会服を着て、貴公子然としているあなたの方だと思います」
 エルはにっこりと笑い、櫛をブライトの手元に差し出した。
「髪をいて、ひげを剃ると、普段より十歳くらい若く見えますよ」
 それを受け取りながら、ブライトは……照れた勢いで……失言をしてしまった。
「自分の通り名に父親の名前を流用するようなファザコン姫に、『若い』って言われても、あんまり嬉かねえな」
 本日二発目のグーパンチは、舞踏会に響かぬように顔を避け、レバーに決まった。


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