いにしえの【世界】 7
ブライト=ソードマンはギュネイの帝室を嫌悪している。それは頭痛と吐き気を催し、時として正気を失うほどの激しい感情であるということを、エルはよく判っている。
もっとも彼に限らず、今の支配者達を良く思っていない人物は少なからずいる。
理由は各々様々だろう。
前の王朝にへの忠誠心、宗教的な対立、政治思想の違い、成功者への嫉妬、権力者への反抗心、個人的(乃至は一族的)な憎悪、過去に対する憧憬……。
ブライトがどの様な「理由」からその感情を抱いているのかは知れない。
共に旅をする上では理解する必要性があるのやもしれぬが、エルにはそのつもりがない。
直接的な血縁はないが、それでも縁の繋がる人々に対する彼の感情の悪さの由縁を、彼の口から聞かされたくないというのが、彼女の心情だった。
彼はことさら「嫌いな人物」に対する嫌悪感を押さえることを知らない。
よしんば、その顔が笑顔であり、声音が平静であったとしても、頭痛と狂気が変じた『尖った悪意』が皮膚を突き破ってにじみ出るのだ。
周囲の者、あるいは彼自身が、その細く鋭い感情に気付いていないとしても、エルは感じ取ってしまう。その切っ先はギュネイと縁の深い彼女の胸を痛ませる。
胸の痛みの上に耳からも言葉の毒を盛られてはたまらない。であるから、彼女は敢て訊ねることはない。
ところが人間という生き物は複雑にできているらしく、触れれば痛いと判っている針の先に敢て指を添えることをしたがる。
今もそうだ。
目の前の風采の上がらない男が、悪態を吐くか、あるいは、苦虫を噛み潰したような顔で舌打ちするかするのを、彼女は待ちかまえている。
己から敢て訊ねているのではない。相手が勝手にしゃべることだ。
己の胸に言い訳を聞かせると、エルはまぶたを痙攣させながらポスターをにらみ付けている15も年嵩の男の様子を、じっと見つめた。
『きっとこの人は、唾棄する筈。叔父……いいえ、多分叔父と同姓同名の戯作者か、あるいはその名前にこだわる私に対して』
まるで剣山の上に手をかざしているかのようだ。それも針先が触れない程度の、しかし僅かな揺らぎを得れば指先が傷つく距離をもって。
そして白い皮膚の中から己の赤い血潮がにじみ出ることを待ちかまえている。
ところが、普段なら燐が突然炎を上げるように、瞬間的に悪態を吐き始めるはずのブライトが、口を真一文字に結んで黙り込み、痙攣する瞼を静かに閉ざしたのだ。
ほんのひとときか、あるいは小半時か、エルが不安に駆られだした頃、彼は小さく言った。
「お前さんは、俺が怒り出してあの『意気地のない末成り瓢箪』の話をするのを期待してるんだろう?」
ヨルムンガンド・フレキは背の高い痩せ男だという。その身体的特徴を揶揄してブライトは「末成り」と呼びつける。
実際のフレキが「末成り」と呼べるような病的に痩せた体躯であるかどうか定かでない。
ただ、しなやかな筋肉を鎧うた大柄なブライトからしてみれば、大概の男は痩せっぽちなのは確かではある。
彼は瞼を閉じたまま、目玉をぐるりと動かした。……瞳が開かれれば、尖った眼光がエルの顔を射抜くに違いない。
息を呑んで、しかし彼女は胸を張って答えた。
「フレキ叔父は私と親交のある親類です。親交といっても、父との間に幾通か書簡のやりとりがあった程度ですが……。それでも知った人のことです。多少ネガティヴな情報でももっと知りたいと思っては、いけませんか?」
「情報、ね。例えば、剣術はからっきしの先端恐怖症だとか、人前に出るのが嫌いな根暗だとか、役に立たねぇ本の蒐集癖が祟って床が抜けたとか、飯の種にもならねぇような駄文の書き飛ばしを連発しやがたったセイで帝都の紙価が倍に跳ね上ったとか、玉座をかっ攫われたってのにその相手に遠慮して山ンなかに引っ込んで隠者を気取り、その狭めぇ領地の切り盛りに失敗した政治的無能だとか、女嫌いで男として不能だとか。他にゃどんなことが聞きてぇンだ」
ブライトは険と嫌味がたっぷり染みこんだ小声の早口を一息にまくし立てると、生意気な悪童が近所の娘……どうやら別の男に気があるらしい……に向けるような、卑屈で嫌らしく意地悪で不安げな笑みを口元に浮かべた。