いにしえの【世界】 9
 彼女はいたずらなまなざしで笑っている。
「……そんなに駄目叔父貴の話が聞けて嬉しいか?」
 僅かに苛立ち、相当呆れた口調で訊くブライトに、エルは大きくうなずきを返した。
「少なくとも、叔父の文学者としての才能は、あなたでも認めざるを得ない高みにある、と言うことがわかりましたから」
「けっ」
 汚れた床に唾を吐き捨てたブライトだったが、いきり立つとか、怒るとかいった激しい行動が続くことはなかった。
 むしろ彼は脱力したように椅子の背にもたれ、
「あの末成りの書いたモンに、あそこの演目と同じタイトルの馬鹿話がある。ヤツの封地のごく一部の集落で密やかに口伝されていた昔話が元ネタだがね。だがその内容が政治的にヤバイってンで、書いた本人ですら『そのままの形』で外に出すのを躊躇して、そうとう朱筆を入れてから発表した」
「よく事情をご存じですね」
 純粋に驚いたエルに、ブライトは苦笑いして、酷く陰鬱な声音で答えた。
「嫌な断片ほど脳味噌にこびり付くもンさ」
 彼は的を狙う射手のように眼を細めて、件のポスターを見た。
 ポスターの貼られた壁の前で、痩せた農夫らしい二人組が何か話し合っていた。
「娘ッコの出てくる芝居だ」
「娘ッコが刀なんぞを振り回すものか。これは恐ろしい戦女神の出てくる芝居だ」
「女神様だって女だろう。だからやっぱり娘ッコの出てくる芝居だ」
 充分な教育を受けていないに違いない。張り出された紙切れに何が書いてあるのかを、文字ではなく絵から推察しようとしている。
 彼らの背後から別の男が近づき、声を掛けた。
 男は小柄で、こざっぱりとした身形をしている。農民という風ではないが、商人という匂いもしない。
 どうやら農夫達とは面識がない様子だ。話しかけられた方が当惑して、無意識に半歩後ずさりし、男との距離を開けた。
「娘ッコでも女神様でもなくて、お姫様が出てくる芝居ですよ」
 小男は文字が読めるようだった。ポスターの上のタイトル文字を指で指し示して、読み上げる。
「いくさおとめくらりす、ってあるでしょう? 戦乙女っていうのは、女の侍のことですよ。クラリスって言うのは人の名前だ。スカディ女神の化身だという人もあるけれども、そうじゃあない。誰あろう慈母皇后様のことです。将軍皇帝ノアールの奥方様ですよ」
 丁寧な口調のその声は、別段大きすぎるというものではないのだが、妙に響きと通りが良く、ざわめく人々の間を抜けてエルとブライトの鼓膜を十二分に揺らした。
 二人は神経の八割方を耳に集中させた。
「慈母皇后様ぁ、とても綺麗で可憐な方だ。刀ぶん回すような跳ねっ返りじゃねぇ」
 農夫の一人が小柄な男の胸ぐらを掴んだ。
 もう一人が抑えなければ、恐らく男は二,三発殴られて、昏倒していたに違いない。
 国家の母として神格化されていると言っていい初代の皇后を、彼は純粋に崇拝しているのだ。
 小柄な男は頬を引きつらせて、硬い笑顔を作った。
「その通り、その通り。可憐で綺麗で、そして夫を良く助けた方ですよ。夫唱婦随というやつです。だから、皇帝と一心同体で闘い抜いた人という意味で、剣を持たせた絵で描いてあるんです」
 立て板に水のなめらかさで言う男を、農夫はしかし疑念の目で見ている。
「アタシは嘘を吐いちゃいません。この話のスジは一から十まで全部知っているんですからね」
「じゃあ、ここで言ってみろや」
 農夫が強い口調で言う。声は響き、驚いた店中の視線が、彼と彼に関わっている人々に注がれた。
 彼を羽交い締めにしているもう一人が、顔を真っ赤にしてぺこぺこと頭を下げている。
「すいやせん、許してつかぁさい。コイツは酒を飲むと声が大きくなるんでさぁ」
 友人の恥ずかしがりように気付いていないのか、あるいは崇拝対象を侮辱されたという思いこみが強いのか、農夫は手足をばたつかせながら、「スジを言え、今すぐ言え」とわめき立てる。
「そりゃあできませんよ。そんなことをしたら、これから芝居を見ようって方の楽しみを殺いでしまう」
 小柄な男は店の中を見渡し、客の一人一人に、ニコリ、ニタリと笑いながら頭を下げる。
 その愛想の良さを見、エルは気付いた。
「芝居小屋の関係者」

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