いにしえの【世界】 12
男は腰を曲げたまま、顔だけをひょこりと持ち上げた。
「さぁて、手前にはさっぱり判りかねます。もしや、ご挨拶が遅れたことをご叱責でありましょうか?」
飄々と言い、首を傾げてみせる。
若い貴族は益々苛立ち、鯉口を切って半歩踏み出した。
「とぼけたことを言いおって!」
喚きながら、しかし彼は、実際に剣を抜くことと、それを振り回してかの男を叩き斬ることはしなかった。帽子の貴族、すなわちヨハネス=グラーヴが、今度は大きく右腕を上げて彼を制するからである。
「よい子だからお下がり、可愛いイーヴァン」
仔猫をあやすようにグラーヴが言うと、イーヴァンと呼ばれた若い貴族は奥歯をギリギリと軋ませ、元の立ち位置へと半歩退いた。
イーヴァンの不満げな顔に小さな笑みを投げると、グラーヴ卿は小男にも同じように笑顔を向けた。
冷たく尖った、しかし美しい微笑だった。
「フレイドマルの一座の者かえ?」
「ハイ、閣下。マイヤー=マイヨールと申します。お見知りおきを」
小男マイヨールは再度深々と頭を下げた。
「そう、お前がマイヨールなのね。聞いたわよ、ずいぶん面白い台本を書くそうじゃないの」
甲高く、鼻に掛かった、ざらついた音のするグラーヴ卿の言葉を聞き、マイヨールは頭を下げたまま口角だけをひくりと持ち上げた。
「光栄です、閣下」
社交辞令に対する返答は、少しばかりこもった声だった。
「でもこれは良くないわね」
グラーヴ卿は筋張った細長い指で壁を指した。
「良くありませんか?」
マイヨールは下げた頭を少しばかり後方にひねり、グラーヴ卿の指の先にあるポスターをちらりと見る。
グラーヴ卿はクスリと笑った。
「勘違いおしでないよ、マイヨール。お前の書いたもののできが良くないという意味ではないからね。だいたいアタシはまだ舞台を観た訳ではない。大筋は聞かされたがね。……お前の所の座長には困ったものだよ。観る前の客にネタをばらしてしまうのだから……。ともかく、あらすじだけでは脚本の良し悪しは言えたものではないものね。ただ……」
「お題がマズイ、とおっしゃる?」
マイヨールの頭がまたひょこりと持ち上がる。満面の笑みが、自嘲かあるいは自信か、それとも胡乱の故なのか、彼自身以外には図りかねた。
「お前、判っていて演っているのかえ?」
「手前は理解しているつもりでございますよ。今の天子様のことも、前の天子様のことも、お芝居にするには、充分、十二分の注意が必要でございます。座長がどう思っているのかは存じませんが」
「確かにあの男は理解力が足りなそうね」
頭を掻きながらニヤリと笑うマイヨールに、グラーヴ卿は冷たい微笑を返し、続ける。
「でもお前の理解力も知れたものではないわ。『判っていて演っている』と言うのなら、尚更よ。アタシたちの言いたいことがお解り?」
マイヨールの顔からにやけた笑いが消えた。彼は折り曲げていた腰をすっと伸ばした。
「天子様からの許可証が降りていない、とおっしゃるのでしょう?」
彼は悪びれもせず、むしろ胸を張っている。
グラーヴ卿はその堂々たる態度にどうやら嘆息した様子だが、腹を立てた者もいる。
「判っているだと!? 判っていて罪を犯そうとは、この愚かな確信犯めが!」
イーヴァンは上半身のみを前に突き出して喚いた。剣も抜かず、飛びかかりもせぬのは、相変わらずグラーヴ卿が腕一本で制止命令を出しているからである。
「確信犯、ね」
マイヨールは吹き出した。無知なるものへの蔑みに満ちた目で、彼はイーヴァンの真っ赤な顔を見据える。
イーヴァンの脳天から湯気が噴き出した。もっとも、どうやら彼は自分が戯作者風情に小馬鹿にされているらしいということは判ったようだが、なぜあざ笑われているのかまでは理解できていないようだ。
反論する術もない様子で、ただ頬の肉を痙攣させている彼に、マイヨールは恭しく頭を下げ、慇懃無礼に言う。