いにしえの【世界】 14
見るからに重い長剣が、袈裟懸けに振り下ろされる。
マイヤー・マイヨールの足は、その場から一歩も動かなかった。
ただ上半身だけが後ろにそらされる。
イーヴァンの腕と剣の長さからして、そうすればどうにか避けられると判じたからだ。一張羅のシャツか、あるいは胸の薄皮が一枚切り裂かれるかもしれないが、それは仕方のないことだと、彼はその瞬間まで高をくくっていた。
が。
イーヴァンの技量は、マイヨールの考えていたよりも少しばかり高かったのだ。
彼のつま先はマイヨールが思っていたよりも半歩先の床板を踏み抜かんばかりに捕らえていた。
当然その剣の切っ先も半歩手前を通過するだろう。
その単純な計算を瞬時にはじき出したマイヨールの脳味噌は、それによって採るべき動作の修正を五体に命ずる所までは考えついたが、同時にそれが不可能であることも悟っていた。
後ろに飛び退くことも、左右に身をかわすことも、上半身を後ろにそらした今の不安定な体勢からは難しい。
『逃げられない』
と悟った瞬間、マイヨールは妙に冷静になった。
胸板を斜に斬られるのは間違いない。
肋骨が砕けて、肺が裂かれて、心の臓が破られるだろう。
もしかしたら胴を輪切りにされるかも知れない。そうなれば、
『下半身と今生の別れか』
迫ってくる長剣の鈍い輝きも、他人事に見えた。
『だから、止まって見える』
マイヨールは自嘲気味に笑った。
避けられることを前提とした体勢である。剣が通り過ぎた後、役者らしく蜻蛉でも切って「華麗に」立ち上がろうと考えていた。
予定の「次の動作」が急に取り消しになり、しかも逃げることをすっかり諦めきってしまった今となっては、バランスを取ることも、立て直すこともできない。
マイヨールはしりもちをつく格好で、力無く倒れ込んだ。
尾骨から脳天にかけてしびれるような痛みが走る。ところが、それ以外に痛みを感じる場所はない。
上半身と下半身は繋がっている。
肋骨が砕けた様子もない。
筋肉も皮膚も、服すらも裂け目一つなく彼の体を覆っている。
マイヨールは顔を上げた。
空中に長剣の切っ先があった。
それは小刻みに痙攣してはいたが、その場所から小指の先ほども移動できずにいる。
刃に沿って視線を移すと、鞘に収まった一振りの細身の剣が見えた。イーヴァンの太い剣と垂直に交わった形にあてがわれている。
その細身の剣を細い腕が支えているのも見えた。それも、左腕一つで。
細い腕は小さな肩に繋がってい、肩からは細い首が伸び、その上に小さな頭が乗っている。
ほっそりとしたそのシルエットの向こう側に、イーヴァンの姿があった。
渾身の一撃を邪魔されたことへの怒りと、渾身の一撃を止められたことへの驚愕とが入り交じった顔は赤く染まり、湯気と脂汗が噴き出している。
「小僧、退け!」
渇いた喉の奥から絞り出したイーヴァンの言葉に、「小僧」と呼ばれた細身の人物……エル・クレール=ノアールは従わなかった。
「そちらが退きなさい。さもなければ私も抜かざるを得ない」
小さく、鋭くいうと、右手を己が細い剣の柄に添えて彼をにらみ返した。
イーヴァンは確かに短気な男ではあるが、一端の剣士である。対峙する者を観る眼力がまるきりない訳ではない。
小柄な剣士は総じて身が軽い。
この「小僧」もあっという間に己の懐の内に飛び込んで来るに違いない。
しかもこの「小僧」は腕一つで己の一撃を押さえ込んだ力量を持っている。
イーヴァンの脳裏に、抜き払われた細身の剣が、しなりながら弧を描く様が浮かんだ。
彼は彼の主君の顔色を窺った。
グラーヴ卿の暗い眼差しは、突然現れた見知らぬ人物に注がれている。
「柔よく剛を制すなんてコトバ、今まで信じていなかったけれども、実際にあることなのね。感心だわ、坊や」
赤い唇の端が、少しばかり持ち上がった。
「でも、あまり面白くはないわね。だってそうでしょう? 坊やは不敬な輩をかばっているのだもの」