いにしえの【世界】 15
「害成す虫とて、ただ踏みつぶしてよいとは限りません。断末魔に穢れた飛沫をまき散らし、お召し物を汚されては、閣下もますます面白くないでしょう」
エル・クレールは視線を一瞬だけ尻餅を突いている男の顔に落とした。
見られたマイヨールには、その眼差しがまるで2つの濡れ光る翡翠の珠のように見え、思わず生唾を飲んだ。
グラーヴ卿もやはり一瞬彼を見た。
こちらの眼は小さなヘム石の鏡に思え、マイヨールは何故か寒気を憶えた。
「一理あるわね」
視線をエルに戻したグラーヴ卿は薄く笑い、
「けれども、あたしには身に穢れが降りかかろうとも、毒虫を踏み潰さねばならない義務があるのよね」
小さく頸を傾けた。頭の横に双頭の蛇を縫い取った、重そうな旗指物が揺れている。
「坊やにはそれを止めるだけの権限があって?」
「それは……」
言葉に詰まったエルは、直後、金属がふれあう小さな音を聞き、同時に己の尻に何か硬さのあるモノが触れてもぞりと動くのを感じた。
そして、そのもぞりと動いたモノが大声を出した。
「ハイ、旦那様。どうもオレっちの姫若様は血気の盛んなもので、ええ。こんなに綺麗な顔をしているってぇのに……それですから姫若様なんて呼ばれるンですけれど」
大柄な男が一人、卑屈に頭を下げながら、腕を振り上げていた。
ブライト=ソードマンである。
満面に人当たりの良さそうな笑みを浮かべた彼は、広い肩幅を窮屈に縮ませ、高い上背を無理矢理に丸めて、不自然に身を小さくしている。
「兎も角、オレっちの姫若様は、事の後先を考えずに飛び出すのが悪い癖で、後を始末して歩くのが、そりゃもう苦労で苦労で」
節くれ立った手の中に、金属の塊が一つあった。平べったい台座は銀色で、表面に緻密で豪華な意匠が彫り込まれている。
その意匠はグラーヴ卿の頭の後ろで揺れる「錦の御旗」に描かれた紋章とよく似たデザインだった。
いや、よく似てはいるが、しかしよく見ると大きく違う。
卿の持つそれは双頭の蛇を描いているが、ブライトの持つそれは双頭の龍……蜥蜴じみたそれではなく、鬣(たてがみ)と手足を持つ蛇のような……を描いている。
グラーヴ卿は頬骨を覆う皮膚をひくりと痙攣させた。しかし、
「ご同業?」
と訪ねる声音に動揺らしきものは感じられない。
エルは小さく
「そんなところです」
と答え、その傍らでブライトは、道化人形のような笑顔のまま二度三度うなずいた。
「ふぅん……」
グラーヴ卿は、下ろしていた右腕を宣誓式の儀礼作法のように持ち上げた。
それを合図に、イーヴァンはゆっくりと剣を退いた。苦々しげに舌打ちすることを忘れててはいない。
エル・クレールも剣を退いた。ただし、すぐさま抜刀できると示すため、剣をイーヴァンの視線の中に置いている。
「お名前を伺おうかしら? アタシはアタシ達と別行動をとらされているお仲間の情勢には、疎いのよね」
『エル・クレール=ノアール』
と、名乗ろうとするのを、ブライト=ソードマンの大声が遮った。
「ガップのエル=クレールさまでさぁ」
彼はことさら『ガップの』を強調して言う。
周囲がざわめいた。
さすがにその地名を聞けば、グラーヴ卿も驚きの表情を浮かべざるを得ない。
マイヨールはぽかりと口を開けて、瞬きを繰り返しながらエル・クレールを見上げた。
しかし、一番驚愕しているのはその彼女であった。
「ブライト、それは……」
違うと言いかけるのを、また彼は大声で遮る。
「ウチの姫若さまは、あちらでは随分と古い古い家柄の姫若さまで。どのくらい古いかってぇと、ガップのお殿様よりも古くからで。そんな訳ですから、ガップのお殿様にもよくして頂いておりやした。だからね、ガップのお殿様がどんなモノをお書きになったかもよく知っておりやすよ。大丈夫、大丈夫。あのお殿様はそれほど馬鹿者ではありませんて。グラーヴの旦那を怒らせるような書きものを外に出す訳がない」
鈍な愚者さながらの要領を得ない物言いをする彼に、エルは呆れのため息を吐いた。
『ああ、やっぱりとんでもない悪戯をしようとしている。あんな大法螺を吹いた上に、役者の前で大袈裟に演技までして……』
もっとも、回りの者にはそのため息の真意は知れないだろう。ただ「魯鈍な従者に呆れている」ぐらいに見ているだけだ。