いにしえの【世界】 18
「おかげでアタシ達も特等席でお芝居を観られることになった訳だけれども」
グラーヴ卿はエルをじっと見て言う。その視線を見れば、その「アタシ達」の中にエルが含まれているのだということは、容易に知れる。
「私どもに同席せよとお命じですか?」
「まさか。確かに爵位だとか官位だとかを引っ張り出せば、アタシは坊やに命令出来る立場だと言えなくもない。でも双龍のタリスマンを出されたら絶対に敵わないわ。どの関所でも止められることなく、いかなる場合にも法的拘束を受けない。通行御免、斬捨御免のフリーパス……恐ろしいこと」
グラーヴ卿の口ぶりは、むしろ楽しげであった。
「だからね、エル坊や。これは命令じゃないわ。招待よ。一緒にお芝居を観に行きましょう。そして意見をして欲しいの。十人の役者がいれば十通りのお芝居ができるように、十人の観客がいれば十通りの解釈が生まれるハズだもの。あなたがマイヨールのお芝居を観て感じたことを、アタシに教えて頂戴な」
否も応もない。
言い終わるか終わらぬかの内に、グラーヴ卿はきびすを返す。
イーヴァンは鼻の頭に深い皺を寄せ、歯ぎしりしながらエル・クレールをにらみ付けたが、すぐに主人の後を追った。
こうして皇帝陛下勅令巡視大使の一団は去っていった。
嵐が去った後、というのは、恐らくこのような状態を指す言葉であろう。
狭い飲み食い屋の真ん中にぽかりと空いた丸い空間と、役者兼任の戯作者と貴族連が去っていった出口とを見比べながら、人々は自分が何をすれば良いのかを考えることもできず、ただただざわめき立っていた。
一番困った顔をしているのは、最初にポスターの前でマイヨールと口論になった農夫達だった。
彼らはどうやら自分たちが騒ぎの発端であろうということは理解できているらしい。
そして恐らく自分たちが騒ぎを起こしたことによって、見たこともない高貴な方々が、見たこともない立派な刀で斬り合いをすることになったのであろうということも、見当が付いているらしい。
さらには多分自分たちが騒ぎを起こしたことによって、役者兼戯作者の男が死刑にされかねない状況に追い込まれたのではなかろうかということも、想像できた様子だった。
二人は鼠の子供のごとく肩を寄せ合い、店の隅にで固まっていた。
『まずは彼らを安堵させないと』
思ったエル・クレールだが、実際にどうしてやれば良いのかはとんと思いつかない。
困り顔で彼らを見ていると、見られている方は余計に恐縮して、終いにはがたがたと震えだした。
「あんたら、心配しなさんな」
声をかけたのはブライトだった。彼は農夫達の方に顔を向けつつ、不自然な……と見たのはエルだけだが……蟹股で、店奥へ進む。
背の低い、しかし横幅の広い中年の女と、その倅らしい若いのが、厨房らしいところのドアから顔を出して様子を窺っている。
若いのがこの店の主らしいが、実質の経営者は母親の方だろう。
その二人に向かって、ブライトは笑いかけた。
「騒ぎを起こしちまって申し訳ねぇが、どうやら向こう様もこの場は退いてくださったようだから、多分店やあすこの兄さん達には悪いことは起こらないでしょうよ。心配にゃ及ばない」
愛想良く笑いながら、ブライトは女将の手に何かを握らせた。
手の中を見た女将の丸いほっぺたの上に、ちらりと金色の光が跳ね返った。
田舎の飯屋では滅多に見られない「重たい金貨」が、手荒れの酷い掌の中で澄んだ金属音を立てる。
「旦那、こりゃ一体?」
女将は驚くと同時に、商売人らしい欲気の混じった感謝の笑顔を浮かべた。
「ウチの姫若様からだよ。それとも、ここにいる衆みんなに一杯ずつ飲ませるには、これじゃ足りないかね?」
「いいえ旦那方。これだけあればうちの酒樽が二回は空っぽになる」
ニコニコと笑った女将は、もらった金貨を胸に押し抱いて、そのまま奥の厨房へ駆け込んだ。
程なく彼女と倅はもてるだけのマグに安酒酒を満たして戻ってきた。
歓声を上げたのは件の農夫達だけではない。店にいた客の総てと、店の外で見物と決め込んでいた通りがかりとが、どっと駆け寄る。
「旦那方、ご馳になります」
「若様ありがとう」
などと言いながら、あるいは何も言わずに只酒に殺到する人々の流れに逆らって、エル・クレール=ノアールはブライト=ソードマンに引きずられる格好で、漸く店から出た。
通りに出てからしばらくの間、ブライトは「愛想の良い従者」の顔のまま蟹股で歩いた。背丈が普段より頭一つ分ほど低く見える。
仕方なくエル・クレールは「気の強い田舎貴族」の体で、背伸びをしつつ後を付いてゆく。