いにしえの【世界】 36
「旦那は本当に本当に非道ひどい人だ」
 マイヤーはあきらめの口調で吐き出した。正論に対する仕方なしの承知を意味するうなずきは、落胆の項垂れにも似た力ないものだった。
 羊皮紙を受け取ったエル・クレールは
「……解っています。内容の確認は私がいたしましょう。皇弟殿下にゆかりのあるものを、あなたに任せるなんて、とんでもない」
 その言葉に、マイヤーは尖ったものを感じた。彼はそれを「高慢な家臣に対する少しばかりの厭味」と受け取った。ブライトが薄く笑ったものだから、余計にそう信じ込んだ。
「主に厄介ごと押しつけるなんて、旦那は本当に本当に本当に非道い人だ」
 マイヤーは少しばかり腹が立った。
 大体、こういう面倒な仕事というヤツは、家臣がやってのけたものを主君の「功績」にするというのが、当たり前のことだろう。
 主が年若い場合は、ことさらだ。
 エル・クレールがため息をついている。
『こんなに美しい方を悩ませるなんて、とんでもない』
 意見をしてやらないと……マイヤーはブライトの広い胸板の真ん中あたりへ拳を一発打ち付けた。
 無論、本気の一撃ではない。本気で殴り付けるほどの立腹ではないのだ。
 本気で殴ったところで、痛むのは自分の拳の方だということは解っている。
 初手から力を込める気などなかった。
 仲の良い友人のちょっとした悪意に対して、軽い突っ込みを入れてやろうと言うだけのことだ。
 この世慣れした剣士には、そういう冗談が通じる。他愛のないじゃれ合いで、双方苦笑いして終わる……。
 ところが。
 気がつくとマイヤーは地べたにつくばっていた。
 背中側にねじ上げらた右腕からは、骨がきしむ音が聞こえる。
「冗談は面だけにしやがれ」
 低い声が彼の頭上から降り、背中に重い衝撃が落ちてきた。
 マイヤーは沼の魚が喘ぐように、口をぱくぱくさせた。
 呼吸ができない。
 目玉を動かして周囲を見回す。
 エル・クレールの足先が見えた。
 視線を持ち上げる。
 白い顔に困惑が満ちていた。
 眼差しの先を追う。
 ブライト=ソードマンがこめかみに青い血管を浮き立たせ、憤怒と苦悶の表情を浮かべている。
「旦那……」
 ようやく声を絞り出したが、後が続かない。唇を動かして、
『ご勘弁を』
 音の出ない一言を形作るが精一杯だった。
 途端、マイヤーの右腕の戒めが解かれ、背中を押さえつけていた「重さ」が無くなった。
 一気に新鮮な空気が配布に流れ込み、その急激さ故に、むしろ彼の呼吸は激しく乱れた。
 唾を吐き出しながら咳き込んだ彼は、それを押さえ込みつつ徐々に呼吸を整え、体を起こして顔を上げた。
 ブライトが不機嫌顔でまた右手を突き出している。
「貴様が書いた方」
 原本との突き合わせをするために台本を寄越せ、と言っているのだ。
「紙に書いた分は、ここにゃありません」
 マイヤーは地面に胡座を掻いた。肩口をなでさすり、情けなくも力ない声で言う。
「団長がお役人の所に出しに行ったきりで」
「台本というのは、役者の人数分作る物ではないのですか?」
 訊ねたのはエル・クレールだった。
 マイヤーの頬に朱が差した。少しばかり元気な声で
「字の読める者の分だけこさえるのが、ウチのやり方なんです。読めない連中に配ったところで、読めないんだから意味がないでしょう? 連中には、あたしが直接演技指導するんで、問題はありませんしね。つまり、台本なんてものは私と団長の分、併せて二冊作れば、ウチでは十分なんですよ。それを、あの禿頭と来たら、両方とも持って行きやがった……。もっとも、私の頭の中には全部筋が入ってますし、役者も踊り子も全幕暗記してます。何の不都合もない」
「それにしちゃあ、ずいぶん慌てているようじゃないか」
 突き出していた手に何も渡されないと知ると、ブライトはその腕をさらに伸ばし、マイヤーの襟首を掴んで引き上げ、彼を強引に立ち上がらせた。
「そりゃ、誰だって慌てもします。今まで憶えたことと違うことを、急にやらなきゃならなくなったんですからね」

前へ 次へ
目次に戻るクレールメニュー お姫様倶楽部Petitトップ