いにしえの【世界】 38
封蝋に不可解な部分を見つけたのだろうことは察しが付く。エル・クレールには彼がそれを隠す意図が解らない。
「殿方の手は熱が高いそうですから、長く握りしめていると、蝋が溶けてしまいます。ギュネイの家に由来するもので、お手を汚されても宜しいのですか?」
彼女にしては珍しく婉曲な物言いをすると、ブライトは少しばかり口角を持ち上げ、
「手の冷たい自分の方へ寄越せ、か?」
拳を開いた。
開きはしたが、その中のものをエル・クレールへ渡そうとはしない。
彼は麻紐から封蝋を剥がし取ると、人差し指と親指の間につまんだ。
赤い顔料が練り混ぜられた蜜蝋の塊を、彼女の目の高さに持ち上げ、紋章が刻印された側を示す。
しっかりと押された印影は、間違いなく皇弟自らが使う紋章だった。
「何か問題が?」
エル・クレールは小首をかしげる。ブライトは無言だった。
中指で封蝋を軽くはじく。
上下を指に挟まれたまま、それは反転した。
麻紐の縄目が濁った赤い蝋の表面に刻まれている。
蝋の内側で鈍い光が跳ねた気がした。
「灯りが反射した……? 何に?」
滑らかな蝋の表面がはじいたにしては、鋭い光り方だった。
鋭角な、そして硬い何かが、蝋の中に埋没している。
地下の暗がりに目を凝らした。
直後。
黒く伸びた爪。赤く濁った目。
エル・クレールは確かにそれを見た。
彼女は猛烈な勢いで上体を後ろに反らした。
真後ろにあった柱に、背中が激しく打ち付けられた。
エル・クレールは己の体を抱き、うずくまった。体が小さく震えている。
背を打った痛みは感じていない。
そんなものよりもはるかに痛烈な「恐怖」が痛覚を麻痺させている。
封蝋の奥から突き出された腕が彼女の顔面を掴み、眼差しが彼女の全身を睨め付ける。冷たい指先が頬に触れる、生暖かい吐息が耳元に吹きかけられる。
あるはずのない感触に彼女の総身は粟立っている。
肩口が掴まれた。それを実感した。
「ひっ」
しゃくり上げるような悲鳴を上げ、彼女は顔を上げた。
闇の向こうで、ブライト=ソードマンが静かに笑っていた。
「誰かの魂の『断片』だ。これ自体にゃお前さんに悪さをするほどの力はねぇさ。悪夢を見せるが精々ってところだろうよ。実害は……ちぃとばかりあったが……ま、その程度だ」
彼は、彼が言うところの「魂の断片」を硬く握った拳を、エル・クレールの前に示した。
黒い爪の幻視も、まとわりつくような体感幻覚も消え失せていた。
彼女にそれを感じさせていたある種の波動じみたものが、ブライトの肉体に阻まれ、封じ込められているのやも知れない。
「あなたに対しては?」
薄気味の悪い「感触」が、彼に悪影響を与えてはいないのか、エル・クレールは疑問にも思ったし、案じもした。
「どうやら俺は、死んだ野郎どもには嫌われる体質らしい。連中は俺に対してすこぶる攻撃的だ。お前さんの『父親』もそうだが、こいつも爾り」
ブライトは拳を一層強く握る。
エル・クレールの顔に不安が広がった。彼の拳に指先を添えた。
かすかに震える手を、ブライトのもう片方の掌が覆った。
「まあ、微々たるものさ。お前さんの『父親』の比じゃねぇよ」
反射的に、エル・クレールは己の左の腰骨の上へ左の手を乗せた。
飲み込まれればその「力」に操られ、受け入れれば「力」を操ることが適う、赤い刃がそこに眠っている。
彼女が【正義】と呼ぶ「武器」は現世に思いを残して逝かねばならなかった人間の魂が凝華し、変じたものだ。
ブライト=ソードマンもまた、同様の「武器」を持っている。
両の掌の中、黒い革手袋の下に刻み込まれたそれを、彼は【恋人達】と呼んでいる。
エル・クレールの【正義】は、彼女の実父、すなわちミッド大公ジオ・エル=ハーンの無念の結晶である。ブライトが持つ【恋人達】は、彼の友人であったミハエルという男性とガブリエラという女性が変じたものであるという。