いにしえの【世界】 44
緞帳がゆらりと動いた。
上手の舞台端でローブを纏った人物が一人、幕の間から首を突き出していた。目深にかぶったフードの下から、低い声がする。
「時は古。知るすべ無き昔。世界を巡るは一陣の風」
閉ざされた幕の前、細く狭い空間を、その人物はふわりと駆け抜けた。
右から左へ、幕が波を打って揺れる。
語り部の姿が下手に消えるのを合図に、緞帳幕はゆっくりと上がり始めた。
薄寒い空間があった。婦人の部屋だった。暗く、人気がない。壁も丁度もみなゆらゆらと揺らめいていた。黒子が道具幕を不規則に揺っている。
舞台下から木材の軋む音が響いた。
奈落の底から、丸い床が回りながらせり上がってくる。上に、白い影が乗っていた。
白い薄衣が細長い何かを覆っている。
透けて見えるシルエットは、うつ伏して倒れ込んでいる人間。繭にこもった蛹のようだった。ぴくりとも動かない。
白い人物を乗せた丸い床は舞台の高さを超えてなお、せり上がり続けた。
上手から立派な軍装を纏った踊り子のたちが、下手からは貧相な装備の踊り子たちが、それぞれ飛び跳ねつつ現れた。上昇を続ける回り舞台の前で出会った二つの集団は、入り乱れ、争うように舞った。
戦が起きている。結果は見るまでもない。
下手の集団はあっという間に押し戻されてゆく。彼女らは隊を乱し、てんでに逃走する格好で舞台袖に消えた。
上手からの集団は傲慢にすら見えるほど力強い舞で鬨を表現すると、なおも勝利を求めて敗者を追走し、やはり下手に向かって走り去った。
集団が去ったとき、舞台のせり上がりは止まっていた。
壇上の人物が、ゆっくりと身を起こす。薄衣を頭からかぶったまま、赤子のように這い歩くと、回り舞台の縁から身を乗り出して舞台の上を覗き込んだ。
悲しげな音楽が鳴り、下手から別の踊り手達が音もなく現れた。
彼女らは皆真っ白な裾長の衣裳を着、顔を青白いドーランで塗りつぶしている。
衣裳とメイク、そしてアンバランスなポーズを強いる静かな振り付けが、彼女たちが人でないものを演じていることを表していた。
幽鬼達の列は回り舞台の足下を囲み、舞う。
白い顔で舞台を仰ぎ、白い腕を壇上の人に向けて力なく伸ばす。
回り舞台の影から古いローブを着た人物が現れた。踊り手達の間を縫って舞台の上を駆ける。
風が吹いている。生暖かい、不穏な風だ。
音楽が音量を上げた。低く不快な響きが舞台を包む。
白い集団演舞の動きが激しさをが増した。それに誘われ、回り舞台の上の人影が立ち上がる。
薄布を被った人物の真後ろで、照明が輝いた。細いシルエットが浮かび上がる。
影の腕が突き出され、己の頭上を覆う薄衣を掴んだ。打楽器が出す破壊音と同時に、その人物は自らを覆い隠していた布きれをはぎ取り、足下遙かな舞台上に投げ捨てた。
男の身なりをした踊り子が、高みから下界を睥睨する。
再び打楽器が大音響を発する。
細身の男が、せり上がりの上から飛んだ。
そう、飛んだのだ。飛び降りたというのではなく、鳥がするように、大きく腕を広げて飛び立ったのだ。
瞬間、照明が消え、黒幕が風を巻いて閉じられた。
突如、肩に衝撃を受け、エル・クレールの神経は現実に引き戻された。いつの間にか背中がイスの背から離れている。彼女は前のめりになって舞台に見入っていた。
肩の上に、ブライトの大きな掌が乗っている。
「頼みますよ姫若さま。やらなきゃならねぇことを忘れて貰っちゃ困ります」
苦笑いしながらわざとらしく下男の口調で言う彼に、赤面と引きつった笑みを返すと、彼女は慌てて膝の上に広げた羊皮紙に目を落とし込んだ。
暗闇の中に目を凝らす。闇に目が慣れるまでしばらく時間がかかった。
読みづらい。灯りがない所為ばかりではない。
ほとんど文章をなしていない単語の羅列が、滲んだ薄いインクで書き殴られている。断片的で、文章の体をなしていない。
最初の一枚の中でどうやら読める部分はヨルムンガント・フレキの「文章」ではない。文字は確かに彼の物だったが、内容は別人の書いた物……正史と呼ばれる古い歴史書の引用だった。