いにしえの【世界】 45
「皇帝サフサファ山にて野営を張る。足下戦多し。平定の誓いを立て、封禅となす」
引用された文章の「皇帝」という単語が、引用文を書いたのとは違う濃さのインクによって丸く囲まれていた。
このインクは単語を囲むばかりでなく、その上に二重の打ち消し線を引いている。
さらにそれは矢印を描く。太く引かれた矢柄をたどり、行き着いた矢羽の先には、単語が一つ書き留められている。
――クラリス――
エル・クレールは息をのんだ。
顔を上げた彼女は声を上げることができず、無言でブライトの顔色をうかがった。
彼はうっすらと笑っている。
「『帝、人心乱れるを憂いて聖山に上る』だな。つまりお前さんの四〇〇年昔のご先祖が挙兵の表明をしたってあたりのハナシだ。音楽は官製の楽譜と寸分違わない。あの阿呆が指揮者に刺した釘が、しっかり効いていやがる。演出は少しばかり違うが、筋立てそのものは公式な物と大差ない」
「本当にあなたという方は、妙なことにばかり精通していらっしゃるのだから」
エル・クレールはため息を吐いた。
ブライト=ソードマンが世の中の表裏について様々な知識を持っていることは、彼女もよく知っている。
ことさら市民の風俗についての見識は、その分野について全く疎い折り紙付きの「深窓の令嬢」にとっては計り知れぬ深さのものだった。生活能力が皆無に近い彼女が、今まで無事に生き延びてこられたのは、彼が傍らにいてくれたからこそである。
ただし、思いもよらない部分に関して、彼は酷く無知であった。
亜麻布の手触りで産地を易に言い当てる割には、その糸が青く可憐な花を咲かせる亜麻の茎から紡がれるのだということを知らない。(それでいて、亜麻畑の労働者達がどの様な労働歌を歌っているのかは熟知している)
微妙に色合いの違う顔料がそれぞれどこから産する鉱石を砕いた物なのかを見分ける眼力があるにもかかわらず、全く画風が違う絵の描き手の区別が付かない。
知識の厚みが片寄っているのだ。焼き損ないの薄焼きパンさながらに、不必要に分厚く、それでいて所々薄く、酷いところは穴が空いている。
実をいうと、エル・クレールは彼の知識の「穴」を見つけることが好きであった。
ブライト=ソードマンは、恐ろしく腕が立って、恐ろしく頭の回る男だ。
彼が外道共を文字通りに粉砕するさまを見せつけられれば、人間離れしているという言葉が比喩とは思えなくなる。
彼を心から信頼しているエル・クレールも、時折恐ろしく思うことがある。……それは、自分自身の内側から湧いてくる力にも感じる、得体の知れない恐怖でもあった。
その恐ろしい男が時折間の抜けたことをするのを見ると、彼が普通の人間であると、ひいては自分自身も紛れもない人間であると確信でき、安堵できるのだ。
粗探しの趣味の悪さを恥じつつも、エル・クレールは期待し、同時に不安に苛まれている。
「精通なんて大仰なモンじゃねぇだろうに。この国の人間をやっているヤツなら大概あのつまらない音楽が脳味噌にこびり付いてる」
ブライトは呆れ声で呟いた。知らない方が可笑しいと、暗に言っている。
「仰る通りです……楽譜の通りだと断じられるほど理解しているかどうかは別として」
「突っかかりやがるな」
エル・クレールの眉間に浅い縦皺を見つけたブライトは、腰袋を指し示し、訊ねる。
「こいつが何か悪さをしてるかね?」
彼は相棒の不機嫌の原因に自分が含まれていようとは、つゆほどにも考えていない。もっとも、彼の言動自体が彼女に不審を与えているわけではないのだから、考えが及ばないのは当然のことだった。
故に彼は、腰袋の中にしまい込んだ「物」が彼女に何かしらの影響を与え続けているのではないかと考えるに至った。
エル・クレールは首を横に振った。ブライトにはそれが緩慢に見えた。
考えが確信に変わる。彼は袋に手を突っ込んだ。
「お前さんがなんと言おうと、今朝からこいつの存在がお前さんの気を散らしているのに間違いはねぇ。押さえ込んでおいてやる」
がらくたの中から小さな蝋の塊を探り出し、握る。
「それで、どう見たね?」
彼は腿の上に肘をつき、背を丸めた。握り拳を顎の下に置き、頭を支える。
「初代皇帝の役、つまり男性を、あの娘が演じている」
低く言うエル・クレールの唇は、乾ききっていた。