いにしえの【世界】 47
彼女の唇は堪えきれずに小さく震えた。
「だからその尊称を消して、あの名を書いた」
かすかな声を己の耳に聞き取ったエル・クレール……いやハーンのクレール姫は、わななく掌で口元を覆った。上目遣いに男の顔色をうかがう。
「そこまで飛躍するかね?」
ブライトの肩が小さく上下した。忍び笑いの口角に浮かんだ歪みはには、邪悪な色すら浮かんでいる。エル・クレールは彼が自分に向けた笑顔の中にこれほどの邪意を見いだしたことはかつて無かった。
確信した。彼も同じことを考えているのだ。
独裁者と戦うために立ち上がった英雄はいない。
捕らわれの姫を助けた白馬の騎士はいない。
国の礎を気付いた為政家はいない。
ハーン家の始祖はいない。
動悸が激しくなった。眩暈がする。大きく息を吸い込もうとした。肺腑は意に反して小刻みな荒い呼吸を繰り返す。
「それほどに畏れることか?」
低く抑えられたブライトの声は、疑念と不審と不安に満ち、少しばかりの嘲笑を帯びている。
「私の先祖が……私に繋がる流れの最初の一点が……無いと言われては……私は塞き止められた淀みと同じです。本流もこれから行く先も判らない」
エル・クレールの声は顫動していた。
自負であった血脈が否まれた……それも自分自身と、敬愛する二人の男によって。
確乎たるものであると信じていた足下の地面が、突如として消えた。ひたすらに沈み込んでゆくばかりの薄寒い浮遊感が彼女を包む。
翠色の目は茫漠と開いている。開ききった瞳孔は、しかし何も見いだすことができないでいた。瞼を強く閉じた時に広がる、血潮の色を帯びた暗闇だけが眼前にある。
呼吸の荒さは喘ぎに、動悸の激しさは破裂の寸前に、眩暈は暗黒に。皮膚が蒸発し、肉が霧散し、骨が融けて流れ、己が無に帰し、存在が感じられなくなった。
深く、冷たく、強く、彼女は心身が堕ちてゆくのを感じていた。
すがる物を求めて手を伸ばした。実際にそうしたのかどうかは、彼女にも解らない。肉の手か、心の内の手か知れぬ、その指先が掴んだのは空だけだった。落胆のあまりに瞼を閉ざそうとした。
薄い隙間、仄暗い闇の奥から、赫い薄明かりを纏った逞しい拳が差し出されるのが見えた。節の太い食指がエル・クレールの胸元を指し示す。
「お前はここにいる」
強い風のうねりのような低い声が、一点の輝きと共に頭上から降ってきた気がした。
大きな声ではない。強い声でもない。穏やかで力のあるその響きに、クレールは耳新しさを憶え、懐かしさをも感じた。
耳をそばだてる。声は続けた。
「源流がどこかなんてことは知ったことか。よしその一滴が無くとも、大河は時の果てから蕩々と流れ続け、お前という存在に受け継がれた。間違いなくお前はここいる。血肉と魂を持って生きている」
瞬間、呼吸が止まった。心の臓の拍動も、闇を巻くめまいも、ぴたりと止んだ。
静寂があった。
「戻って来たか?」
聞き慣れた声を聞いた耳の奥に、清流の漣を感じた。それはクレールの体が発する生命の音だった。心の臓から流れ出る血潮も、肺に流れ込む呼気も、一定の拍子で強く整っている。
エル・クレール=ノアールは大音響の中にいた。目の前にあるのは、古い田舎町の明るい風景だった。
「はっ」
エル・クレールの肺の中に滞留していた重たい息が、塊となって口からあふれ出た。
憶えず、左右を見回す。小さな舞台の小さな客席に彼女は座っていた。
傍らで赤い光背を負った男が完爾として笑っている。
エル・クレールは、彼女としては珍しい行儀の悪さだが、袖口で目を擦った。
尖った光が二筋、彼の額からあふれ出ているかのように思えたのだ……赤く禍々しい鬼の角のように。
再度目を開けたときに見たのは、無精髭を生やしたブライト=ソードマンの顔だった。櫛目の通らぬ前髪が隠す額に、鋭角な突起などは痕すらもあろう筈がない。