いにしえの【世界】 46
「お前さんを迎えに来て卒倒した娘だな。確かシルヴィーと言った。舞台に上がると人間が変わるタイプか。中々に巧いじゃねぇか。もっとちゃんとした所でも……現状じゃ主役はキツかろうが……第一舞踏手は演れる」
ブライトはエル・クレールが望んでいる回答を返さなかった。
「娘ばかりの劇団だから、しかたなく娘に男の役を割り当てている……?」
エル・クレールはあえて間違いなく否定されるであろう「好意的な意見」を口にした。
「あの阿呆のことだ。件のお偉いさんにゃぁそう言い張る腹づもりでいるンだろうがね」
ブライトは唇の端に意地の悪い微笑を浮かべた。『続きは言わなくても解る筈だ』の意である。
エル・クレールはうなずいた。
『その人物が女であったから、当然女の踊り手に役が振り当てられている』
彼女は膝の上の羊皮紙をじっと見た。闇の中で一つの単語が踊っている。インクの色は心もとないほどに薄いが、筆圧は高い。その女性名が強い確信を持って書かれたことの証だった。
「フレキ叔父は……なぜそう思われたのでしょう?」
文字の上を指でなぞりつつ、エル・クレールは呟いた。
「四〇〇年の間にゃいろんな史料が作られちゃぁ捨てられるを繰り返してる。捨てたつもりが捨てきれなかった物も、中にはあらぁな」
くぐもった声でブライトが言う。彼の視線は舞台に注がれていた。閉ざされた幕が重く揺れている。
「捨てられるはずだった物の方が、伝わっている物よりも正しいと?」
当然ともいえる疑問を投げかけられたブライトは、深く二つ息を吐いた。
「残った物にだって正しい物はある。例えば、正史にゃクラリスって名前は書いてねぇんだぜ。かっ攫われたときにゃ『美姫』、その後は『皇后』。それっきりさ」
「え?」
人気のない劇場の中に、エル・クレールの声が反響した。驚愕の大きさが、そのまま声の大きさとなっていた。
「『ガップの古書による。后の諱、クラリスと伝わる』ってのは、正史を書き始めたヤツがおっ死んでから百年ぐれぇ後に、別の研究家が付けた注釈だ。まあ、それくらい古い注になっちまうと、ほとんど本文と同じ扱いにされちまってるから、普通に学問するときにゃ区別もしねぇがね」
「あ……」
エル・クレールは急速に己の記憶を十年ほど巻き戻させた。父の友であり、ミッド公国随一の学者であったセイン=クミンに師事して学んでいた幼い日のことを思い出すためだ。
史学を学ぶに際し、師は古い書物を書写させた。物事を記憶するには、それが一番良い方法だというのが、彼の持論であった。
ブライトが言った皇后の名前に関する記述の部分は、注釈であると明記されてはいなかったが、他の部分の文字よりは小さめに書かれていた気が、おぼろげにする。
瞬きを二,三度する間に意識を今に引き戻したエル・クレールは、ブライトの横顔に眼差しを注いだ。
「それからさらに三百年も経っちまった。件の注釈の引用元の『ガップの古書』ってヤツは、きれいさっぱり散逸したってことになっている。初代皇帝の后だの国母だのとあがめられている女の名前がそこに間違いなく書いてあったのか、あったとしても、その女の名がクラリスだったのか、今となっては解りゃしない、と」
ブライトのこめかみあたりが、ひくりと痙攣した。
頭痛がする。それでも口元には薄い笑みが浮かんだ。妙におもしろい気分だった。
「フレキ叔父は散逸した古書と思わしきものを、ご領地で見いだされた。あるいはそれは書物の体をなしていない口伝であったかも知れませんが……。兎も角、そこにはクラリスという女性の名があった、ということですね」
エル・クレールが口に出したのは、考え至った事柄の半分程度だった。残りの、核心に当たる部分を言葉として発することは憚られる。
自分の先祖達から聞き伝えられた自分の先祖の伝を、根底から覆すようなことを、その末の身が口に出して言えるものか。
国を興した英雄の性別が、伝わる物とは違っていた……いや、それならばまだ良い。遙か昔、女性が帝位を認められていなかった頃の詭弁の名残だと思えば、どうにか理が通る。
エル・クレールは別の可能性を見いだしてしまった。そして、義理の叔父も自分と同じことを考えていたのではないかと思い至った。
初代皇帝「ノアール=ハーン」は、存在しなかった、と。