いにしえの【世界】 49
 膝の上の皮紙束をくり捲るエル・クレールは、目を針の如く細めてメモを睨み付けていた。
 ブライトは背筋を起こし、まじまじとその横顔を見つめた。
 彼は「何を探しているのか?」と訊ねるつもりで口を開きかけたが、その必要はないと気づき、止めた。彼女が漏らしたつぶやきが、すでに答えとなっていたからだ。
「理由を……なぜあの方が男として振るまうことを決心なさったのか、その理由を」
 メモに残る走り書きの文字は、書いた人物が「己が判ればよい」という心づもりでしたためたものだ。他人への伝達を一切考慮していない「インクの染み」は、それそのものが第三者である読み手に対する拒絶の宣言だった。
 しかも、この場所の暗さやインクの色の薄さを味方に付けている。彼女が求めているような記述は、どれほど注意を払っても見つからない。
 あきらめきれず、幾度もページを捲り直す彼女の手を、ブライトは押さえた。
「大凡は、お前さんと同じだろうよ」
 小さなため息が漏れた。
「男の衣服は、軽く息苦しくなく……戦いやすい」
 女物の、特に貴族が着るような豪奢なドレスは、幾枚も布を重ね合わせてふくらみを持たせ、金属や宝石を縫いつけて飾り立てたりするものだから、酷く重い。
 重量を支えるため、そして「ドレスを美しく見せる」ため、着る者の体は紐や金具で締め付けられることとなり、それにより呼吸の自由は制限される。
 襞のたっぷりとられたペチコートは歩行を困難にさせるし、首回りを飾るレースは視線を妨げて視野を狭くする。広がった裾や袖は身じろぎするだけで手足にまとわりつき、敵の手をはねのけることすら困難だ。
 ドレスは、着る者に自分で自分を守ることを許さない、一種の拘束具だ。それを身につけた人間は、否が応でも自分の命を他人に預けねばならない。
「でも私は誰かに身を委ねることができない。自分で戦わねばならないから、男の服を着る」
 ブライトの言うとおりであるなら、国母クラリスも自分と同じ理由で男として生きることを決意したのだろう。
 確かに今の世であれば女の為政者も珍しくはない。時代が下がるにつれ、「彼女」が「彼」として起こした帝国・ハーンでも女帝が君臨することは珍しくなくなっなってゆく。従属国であるユミルに至っては、その建国から現在に至るまで王位は第一王女が継ぐものと定められている程だ。そして漸く二代にしかならないギュネイ帝国にも、女子の即位を禁じる法はない。
 それでもまだ、女が「新しく事を起こす」ことに難色を示す人々はいる。女が「何かを率いる」ことに拒絶反応を示す人々がはいる。
 四〇〇年の昔であればなおさらだ。
「その上、女でありながら男の服を着るような『常識外れ』ですから……。普通の感覚の人間であれば、従おうとは思わないでしょう。
 だから身も心も雄々しく振る舞う必要があった。それも後の世の歴史書に、勇敢な男と記録されるほどの完璧さで」
 さながら真綿で体を締め付けられているかのごとく、胸が苦しくなった。エル・クレールは己の体を抱きしめていた。
「模範解答だな。まったくお前さんの頭ン中にゃ、掃除の行き届いた脳みそがきっちり詰まっていやがる」
 口ぶりは、まるきり優秀な生徒を褒める柄の悪い教師の様だ。弟子達に真理を説く哲学者か僧侶のごとく、彼の黄檗色の目が笑う。
「だがな、こういう考え方もあるンだぜ。ドレスは信頼できる誰かを見つけるための道具。力ある者に、それを纏う者を助けたいと思わせるための、弱者の武器」
 エル・クレールは自嘲気味に小さく笑った。
「……私には扱いかねる武器です」
 彼女とて「姫」と呼ばれていた身だ。ドレスを全く着たことがないというわけではない。むしろそれ故に、自分には似合わない装束だと固く信じている。
「そりゃ確かに、どんな道具でもテメェの体にしっくり来る大きさじゃなきゃ使いこなせねぇもンだ。ありきたりの、出来合いの、吊しのヤツじゃあ駄目だろうよ。だから、お前さんの体にぴったり合うヤツを誂えれば、使いこなせる筈さ。当然、コルセットもドロワースも全部お前さん専用のヤツを、さ」
 ブライトは薄衣のドレスを着た「クレール姫」の姿を想像していた。
 彼女にしか似合わない、特別の意匠の、誂えの逸品は、襟ぐりデコルテが胸元側だけでなく背中側にも大きく開いている。
「少なくとも、対俺サマ用の秘密兵器には間違いなくなる」
 頬を緩め、鼻の下をだらしなく伸ばした。
 ただし、スカートを捲り上げ、薄暗がりの中の白い足を眺める妄想は、耳朶が引き千切られるほどの強い力で捻り上げられた御蔭で、きれいさっぱり霧散した。
「あなたに武器を向けようという気は、芥子粒ほどもございませんので」
 エル・クレールは唇を突き出して怒って見せたが、目の奥には妙に穏やかな微笑が浮かんでいた。

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