いにしえの【世界】 59
小屋の外でざわめきが起きのは、彼にとって好機だった。
「ああ、勅使の皆様がお着きになったらしい」
マイヤーは聞き手の人差し指を立て、唇にあてがう。
「どうか今しばらくお静かに。すぐに都の方々を芝居の中に引き込みますから、その間に裏よりお出になって下さいまし」
浅く頭を下げたまま、
「後のことは、シルヴィー、お前に任せるよ」
言い残し、後ずさりで楽屋から出て行った。
「すぐに芝居に引き込んでみせるたぁ、全く大した天狗だぜ」
遠ざかる左巻きのつむじを眺めやるブライトのつぶやきは、嘲りのようにも、感嘆のようにも聞こえた。
「確かにプライドの高い男ですが、だからといって、うぬぼれが過ぎているとは言い切れないのではありませんか?」
自身が「すぐに芝居に引き込まれた」エル・クレールは、舞台人としてのマイヤーに好意的だった。
ブライトは小さく舌打ちした。彼女が「チビ助」の肩を持つのが気にくわない。意見してやろうとしたとき、視野の中に舞台化粧の踊り子が入ってきた。
「姫若、プライドってのは罪源ですぜ。度を超した自信家は、俺から言わせりゃぁ咎人そのものでさぁ」
一座に関わっている間は、あくまで下男の振りを通す心づもりらしい。苦みばしった顔つきが、エル・クレールの目に妙に可笑しく、少しばかり可愛らしく映った。
「その言葉、有難く承り、我が肝に銘じた上で、そのままあなたにお贈りいたします」
「受け取り拒絶させてもらいますよ。俺サマと来たら、姫若にゃ『忠実』そのものなンだ。あの小天狗と一緒にされちゃぁ困る」
自称忠義者は、顎で楽屋口を指し、わざとらしく下唇を突き出す。
『あなたが忠実なのは己の欲に対してでしょう』
言ってやりたかったが、止めた。エル・クレールの目にも、シルヴィーの姿が映ったからだ。
薄衣を重ねた姫役の衣裳を着た彼女は、舞台の上に居たときよりずっと小柄に見えた。
エル・クレールは微笑んだ。緊張しきりの相手の心をほぐすには、笑みを見せるのが一番良いことを彼女は経験から知っている。
ブライト=ソードマンがそうやって初対面の人物を懐柔しては、己の知りたかった情報からそれ以上の話……時には全く余分な愚痴の類まで……を引き出しているのを、傍らで見てきた。
もっとも、ブライトはその行為行動を全くの「作業」として行っているに過ぎない。
気の良い田舎者の顔、誠実な騎士の顔、零落した貴族の顔――時に応じ、相手に応じて、いかにもそれらしい、人当たりの良い笑顔を面に浮かべる。良くできた作り物の笑顔は、腹の奥にある思惑を覆い隠す仮面だった。
エル・クレールはその点ですこぶる不器用だった。無理に心にもない笑顔を作ろうとすると、大体の場合にこわばった表情となり、誰が見ても作り笑いとわかるものになってしまう。
……と、彼女は思いこんでいる。
実際、彼女の作り笑いは硬く、時に冷たい印象を与えるものだった。しかしその彫刻のごとき微笑が、彼女が思う以上に相手の心を揺り動かす力を発揮することがある。
エル・クレールが口角をごく僅かに持ち上げると、シルヴィーは分厚いドーランの白がバラ色に変ずるほど頬を赤らめた。
熱い血潮が上り詰め、頭がぐらりと揺れた。卒倒しかけた彼女だったが、再び失神する失態を見せるのを恥じる一念が、危ういところで遠のく意識を引き留めさせた。
「君、大丈夫ですか? やはりあれほどの演技の後は、疲れも酷いようだ」
手をさしのべつつ、エル・クレールはまったく見当違いのことを言う。
この世のものとは信じがたい「不可解な美しいモノ」に見つめられ、微笑を向けられた娘の心持ちを、彼女は気付いていないのだ。
隣でブライトが彼女の「鈍さ」に失笑しているが、当の本人には彼の苦笑いの理由がさっぱり解らない。
「ああ若様……お心遣い、ありがとうございます」
差し出された手をおずおずと握ったシルヴィーは、その指先がひんやりと冷たいことに驚き、弾けるように手を放した。
眼がうっとりと霞んでいる。
「思った通り。まるで泉の乙女のよう」
呟いた彼女は、慌てて口を手で覆った。黒目がちな瞳がを泳がせて、あたりを見回した。楽屋は閑散としている。
不安の色濃い眼差しは、最後にブライトへたどり着いた。