いにしえの【世界】 60
 鋭い眼光が跳ね返ってきた。
 シルヴィーの頬から血の気が引いた。白い顔に幾ばくかの恐怖心を見たエル・クレールが、
「彼は、見た目にすこしばかり厳ついが、意味もなく暴力を振るったりするような男ではないから、畏れることはない」
 シルヴィーの顔に一瞬浮かんだ安堵は、すぐさまかき消えた。
「意味があれば子供でも容赦なくぶん殴るし、理由が有れば女だって遠慮なく叩っ斬るがね」
 ブライトは一層強い眼力で彼女の顔を睨め付け、声にすごみを利かせた。
「何故そのように無駄に人を怖がらせるような真似をなさるのですか」
 エル・クレールが語気を荒げ、首をかしげたのは、呆れゆえではなく驚愕のためだ。
 言葉遣いの善し悪しは別として、彼は場を弁えた物言いをすることの得意な男だ。別して女性にはギャラントで、理由もなく相手を怖がらせたりなど決してしない。
 彼が人を脅すような口ぶりで話すとすれば、それは彼が相手を脅す「必要」があると判断しているということに他ならない。
 エルの疑問はそこにある。シルヴィーを脅さねばならない理由など、彼女には見あたらなかった。
「今日のお前さんがことさら鈍いもンだから、俺がその娘の返答次第で暴れなきゃならなくなるってこってすよ。つまり……」
 ブライトは視線を踊り子の青白い顔に投げたままエル・クレールに言い、一つ息を飲み込んだ。
「……ウチの姫若は生まれつき『姫若』でね。これからもずっと『姫若』であり続ける必要がある。それだってぇのに、あんたは『乙女』呼ばわりしてくれたわけだ」
 彼はことさら『姫若』の一語を強調して言った。
 遠回しの物言いだったが、エルは理解した。
『この娘が、私を女と見通した』
 彼女は少しばかり喜んだ。
 この男装の姫君と来たら、並の男よりも雄々しい振る舞いをしておきながら、女として扱われないと不機嫌になるという、酷くややこしい心情の持ち主だ。
 父親である大公ジオ三世が男子を欲していた事もあって、彼女は幼い頃から男装ばかり着込まされてきた。男の子にするように剣術や馬術を習わせ、学問を修めさせた。
 大公の男子を欲する思いは強いものだった。前の后との間に生まれた皇子を、二人とも幼くして失ったためかもしれない。
 年経て生まれた姫皇子に、あろう事か男名前を付けようとさえしていた。
 年若く従順な公妃ヒルダは、大凡のことでは夫に逆らわなかったが、娘が男の名で呼ばれることには大いに反対した。
 学者を交えての侃々諤々かんかんがくがくの末、誕生から十日も後に、漸く姫にはクレールという名がつけられた。
 ヒルダは愛しい娘に国母クラリスの名と近い響きと意味を持つ名がつけられたことを大いに喜んだ。
 夫がこの名に異議を唱えなかった理由が、遙か昔に光り輝ける者クレールと名乗る優れた功績を残した幾人かの「勇敢な男達」が存在したためであるとは、夢にも思いはしなかったろう。
 兎も角。
 父親からは男子の教育を施され、母親からは人形の如く溺愛されたクレール姫は、男の身なりをしながら女と扱われることを望むという、ややこしい性分となってしまった。
 狭く小さな故国の中でならば、そのややこしさも当たり前のこととして押し通すことができた。国中の者達がクレールを「姫」と知っていたのだ。男の身なりをしていたとしても、彼女は童女として愛され、小さな淑女として丁重に扱われた。
 国が滅び、仇を追うために己の身分正体を隠さねばならず、「本物の少年」の振りをしているはずの今となっては、それは当たり前とはなり得ない。ある種「我が侭」とさえ言えよう。
 我が侭が通らないことを頭では理解している。しかし、思いもしないことを表に出すことは苦手であるし、思っていることを内に秘め通すことも不得手だった。
 今日初めて逢った娘が、自分を女と認めてくれた喜びが押さえきれず、エル・クレールの瞳は輝いた。立ち上がってシルヴィーの細い体を抱きしめたい衝動に駆られた。
 ブライトは大げさに首をがくりと落とし、
「ほれ、この通りの正直者だ。ウチの可愛い姫若さまはな、命がけで隠さなきゃならねぇ秘密でも、胸の内に納めておくのが苦手な方なんだよ。そこが良いところなンだが、そうも言っちゃぁいられない」
 顔を伏せ、落胆の声を上げた。
 彼の目元と口元に浮かんでいる歪みを、嬉しげで優しい笑みと見たのはエル・クレールだけだ。
 下から覗き込む角度で自分を睨む眼光は、シルヴィーには威圧以外の何物とも思えない。


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