いにしえの【世界】 62
ミッド公国は「御位を失った前皇帝への捨て扶持」として、二十余年前に建てられた国だ。その地に元々住んでいた……というよりは、大公一家よりも先に押し込められていた……のが、件のマカム族だ。
彼ら閉じこめられた同士が争うことなく暮らせたのは、新たにやってきた領主が前朝の皇帝であるジオ三世だったからに他ならない。
マカム族を初めとするいわゆる少数民族の多くは、ハーン帝国に好意的だった。
皇帝であった頃のジオ三世がマイノリティを厚遇していたというのではない。むしろ彼らに朝貢を強いたし、文明化と称して強引にハーンの言葉や風習を強制的に学ばせることもあった。
ただ、生来温厚で争いごとを好まないラストエンペラーは、彼らをどこかに押し込めたり、彼らの習慣や信仰を野蛮と切り捨て、それを禁ずるような、性急な政策を採用することがなかった。
今の世と比べればあの頃は良かった……比較論であり、郷愁の類でもある。それでも人々はハーン皇帝に親近感を抱いた。
ミッドに移ってからも彼がやり方を変えなかったのも、マカムの民を喜ばせた。この土地にいる限り、彼らは迫害されないと知ったからだ。
彼の政は画期的な善政とはいえぬが、悪政ではない。
マカムの民は、マカムの神々を信仰しつつハーンの皇帝に仕えていることに矛盾を感じなかった。
山の中の小さな盆地では、マカムの風習とミッドの習わしと、少しばかりのギュネイのやり方とが、大理石の模様のように絡み合っていた。
小さな衝突は確かにあったろうが、それが決定的な亀裂に発展することはなかった。
彼らは皆、ミッド以外で暮らすことの許されぬ者達であった。
ジオ三世は、新皇帝に命じられて彼らと共に赴任した、いわば親ギュネイ派から文官の長を、マカムの中から武官の長を選出した。
ミッド時代から仕えている家臣達を高位に付けることを避けたことに、人々は公正さを感じた。
それでも、一人娘の学友にマカムの娘ガイア=ファデットを選んだことは、流石に国民を驚かせた。
シルヴィーの顔にも、驚きが広がっていた。
「今の御上はマカムの装束を禁じておりますから、ギュネイの貴族の方はあれを見たことなんてないと思ってました」
「ドレスなどよりは、余程着心地が良い……などとは、私自身が言っては、いろいろな意味で良くないけれども」
エル・クレールはちらりとブライトの顔を伺いつつ、声を潜めていった。聞こえていることは承知している。
「ヒトがこれだけ『フォロー』しているのに、テメェから身元を明かすようなことをぽろっと言っちまうってのは、どういう了見だ」
ブライトは文字通りに天を仰いだ。
女であることを黙っていろと言うのではない。大体、シルヴィーにはとうに露顕しているのだ。
確かに言うよりは言わぬ方が幾分か良いではあろうが、言ってしまっても今更それほど問題にはならない。
異民族の衣服を着ることが許される環境に育った貴族の子女であることを、暗に明かしてしまったことのほうが重大だ。
情勢に明るく察しのよい者であれば、その条件だけで充分彼女の正体を推察しうる。
そのような土地はミッド以外にあるはずがない。そのような娘は死んだはずのクレール姫以外にいよう筈がない。
ブライトは顎を天上に向けたまま、目玉をシルヴィーに向けた。
それがシルヴィーには恐ろしく不気味な顔に見えた。身震いし、慌てて頭を振った。
彼女は姫若の『本当の正体』には、つゆほども気付いていないようだ。縦んば察していたとしても、脅しが利いている。彼女が誰かにそれを話す畏れはないと断じていい。
ブライトの目玉は、迂闊で思慮の足りないくせに妙なところだけ勘の働く、それでいて鈍い姫君の方へぐるりと動いた。
彼女に悪びれた様子はまるきり無かった。
「本当に、お前さんは俺サマが付いていないと危なくてしょうがねぇや」
うなだれるように頭を戻した彼に、エル・クレールは
「頼りにしています」
微笑を返した。
真っ直ぐな視線が面はゆい。ブライトは自分の頬が熱を帯びたのを感じた。
「ったく、子供のクセにここンところ妙に色気付きやがって」
舌打ちした。その子供に
『どうやらマジで惚れている』
らしい自分のガキっぽさが、気恥ずかしかった。