いにしえの【世界】 63
 ブライトは大きなため息を吐き、
「それで? マカムの装束とウチの姫若のことと、なんの関係があるって言うんだ?」
 シルヴィーに話の続きを促した。照れ隠しの強い口調が、茨の棘のように突き出ている。
「部族によってはそれほど厳しくはないのですけれど、マカムの女は肌を人目にさらしてはいけないことになっています。手足は元より、顔であっても、男性がいるところでは見せてはいけないと……。だから、頭からすっぽり布を被るような服装になります。それでも外歩きをするにはものを見なければなりませんから、目の所だけホンの少し開けるような形になります。つまり、外から見えるのも目の回りだけになります」
 しどろもどろに言いつつ、シルヴィーは、恐ろしい顔つきでこちらを伺い見ている大男から、ホンの少しでも離れようと努めた。
 ダンサーに特有な強靱な足の裏の筋肉をそっと動かし、僅かな力だけで、少しずつ立っている位置をずらす。
「装束は誰が着る物もほとんど同じデザインですので……家ごとに幾分か飾り刺繍のパターンが違うことはありますけど、色や形はほとんど同じで……ですから、見えている目の色や形だけで、それが誰であるのか区別しないといけません。知っている人のことはもちろん、初めてあった人のことも、目で判断しないと駄目なんです。年をとった人なのか、子供なのか、亭主持ちなのか、嫁入り前なのか、そういうことも目を見れば大体判ります。ですから若様のことも、初めてお顔を見たときに眼差しがとても『女性的』に見えましたので、最初から、もしかしたら、と思っておりました」
 言い終わった頃には、彼女は二歩分も横に移動していた。
「目だけで?」
 エル・クレールは思わず己の目元に触れた。首を伸ばし、壁際の、踊り子達が使う錫鍍金スズメッキが剥げかけた青銅の鏡を覗き込む。
 痩せた、目つきの鋭い「少年」の影が、不思議そうにこちらを見つめ返していた。
「マカムの人には区別がつくのですね……」
 落胆と感心が混ざったため息が漏れた。
 と、彼女の視界が突然閉ざされた。汗のにおいがする布が、頭から上半身にかけてをすっぽりと覆っている。
「それじゃぁ今後は、可愛い乳とケツだけじゃなくて、綺麗な目ン玉を隠す方法も考えねぇといけねぇな。まったく、面倒臭ぇったらありゃしねぇ」
 いつの間にか上着を脱ぎ、それを「主」の頭にかぶせたブライトは、もがくエル・クレールの身体を、さながら丸太を担ぐがごとく方に持ち上げ、立ち上がった。
「何事ですか?」
 くぐもった声に、彼は
「どうやら戯作者殿の作戦は見事なまでに失敗だったようでね」
 忌々しげに答えた。
 芝居小屋の客席の方向から、楽屋の通用口を通り抜けて、不安げなざわめきが漏れ聞こえてくる。
 ちらりと通用口を見た彼は、空いた手でそちらを指し示し
「ちょいとお願いだ、プリマドンナ。あっちから『お客さん』が入ってきそうなんだが、百数える間だけ引き留めてくれないか?」
 シルヴィーの返事を聞く前に、ブライトはエル・クレールを担いだまま駆け出した。天幕の、出入り口用のスリットが入っている方向ではなく、太いぺグでピンと張られた「壁」の側に向かっている。
 肩の上で足掻いていたエルが、暴れるのを止めた。
 腐臭がする。鼻ではなく、脳そのものがそれを嗅ぎ取っている。赤黒く、息苦しい威圧感が足下にまとわりつき、背中を這い上ってくる。
 元凶は蝸牛のようにゆっくりと移動している、とエル・クレールには感じられた。
「死者の、気配……」
 呟いた。ブライトの足が止まった。
「コイツではなく?」
 上着の中に拳を突っ込む。薄暗闇の中、指と指との僅かな隙間から、ほの赤い光がにじみ出るのを見たエル・クレールは、首を否定の形に振った。
「このあたりに、他のが湧いて出たか?」
 古びた上着が小さくうなずいた。
「二つ……二つの気配が一つに繋がっている」
「今日はなんて厄日だ」
 ブライトは担いでいた「荷物」を放り投げた。
「若様!?」
 小さく悲鳴を上げるシルヴィーの眼前に、上着を引き被ったままのエル・クレールが蜻蛉トンボを切って着地した。
「どっちだ?」
 舞台の方向を睨みながら、ブライトが問う。エルは彼の上着を出口に向かって投げつけた。
 上着は帆布に当たると同時に、切り裂かれて落ちた。

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