いにしえの【世界】 74
その頭頂部に、声が降り注いだ。
「まだ準備は終わっていないのじゃなくて?」
甘ったるく、ねっとりとした、うすら寒い声だ。
「閣下はお急ぎなのでございましょう?」
マイヤーは頭だけを持ち上げ、ヨハネス・グラーヴの顔色を窺った。
帽子の鍔に鼻から上を隠したまま、グラーヴ卿は笑っていた。
これがなにを意味する微笑なのか、白塗りの厚化粧の上からは読み取れない。
赤い唇が僅かに動く。
「ねえ、マイヨール。アタシは来る途中に、あのお店に寄ったのよ。ガップから来たという、あの美しい坊やを探しにね」
マイヤー・マイヨールは、腰を折り曲げて頭だけを持ち上げた不自然な体勢のまま、硬直した。背筋に冷たい物が走り、目の前に薄霞がかかった気がする。
「左様、で」
ようやっと、相づちを返す。
「我ながら、愚かしいこと。坊や達がまだあそこにいるだろうと思いこんでいたの……。よく考えれば判ることよね。彼らは旅人だもの。一つ所に長居するはずがない」
「左様、で」
マイヤーは愛想笑いを浮かべた。姿勢は不自然なまま変わらない。
「たくさん人がいたわよ。あの可愛らしい坊やが、みなにお酒を振る舞ったのだって。年若いのに、良く気が回る坊やよね」
「左様、で」
振る舞い酒を実際に行ったのはブライトであろうと、マイヤーは推察している。
『若様みたいな浮世離れした方が、ああいう飲み屋に集まる鄙俗でいじらしい連中の腹の内なんかを、判っていらっしゃる筈もない。人心をなごませるのに酒を使おうなんて「姑息」なことは……』
若様に歪んだ愛を抱いていて、若様のためなら……若様に愛してもらうためであれば……どのようなことでもしてのけるに違いない、俗で頭の回転と手の速い、大男の下男の発案に違いないと思い至り、マイヤーの頬はゆるんだ。
直後、グラーヴ卿が小さく嗤った。
「そうよね。坊やは良い家臣を持って、羨ましいこと」
本音を見透かされた。マイヤーは背を鞭でしたたかに打たれたかのような衝撃を感じた。
「アタシにはそういう賢い家来がいないのだもの。可愛いエル坊やごと、彼らをアタシの物にしてしまいたい……できれば直臣に」
「左様、で」
平静を装って相づちを打ちつつも、マイヤーの腹の中は煮えくりかえっていた。
『冗談じゃない。若様や旦那をこの白塗りオバケなんかに盗られてなるものか。お二方はこの……マイヤー・マイヨールのものだ』
ある種の嫉妬だった。当人達の考えの及ばない場所で、当人達の気持ちを顧みることをせず、全くの他人に対して焼き餅を焼いている。はた迷惑な岡妬だ。
「それでね。訊いたのよ。当の坊や達がどこにいってしまったのか。……アタシが坊やの立場だったら、あんな酒臭い場所には小半時だって居やしない。できるだけ早く、もっと落ち着く場所に移動したい。
そうしたら……皆が皆、とても愚かだった。誰も彼も、知らないって言うのよ。いつの間にか、どこかへ消えてしまったって。……腹立たしいこと」
凍えるほどに冷たい声だった。マイヤーは手足の指先がじんじんと痺れるのを感じた。
含み嗤いの音が、グラーヴ卿の帽子の下から漏れる。
「アタシの所には優秀な家臣は居ない。アタシが対処に困ったようなとき、アタシの考えていることとは違うよい方法を考え出して、それを実行できるような、優秀な家来が一人もいない。アタシの家来はみんな、アタシの考えているのと同じことしか思いつけないの。困った子達でしょう?」
マイヤーの全身が粟立った。無惨で恐ろしいことがあの場所で起きたに違いないという確信が、彼の全身から熱を奪った。
相づちを打つことを忘れたマイヤーの、ただ開いているだけの眼の中に、黒い鍔広の帽子がぐるりと動くのが写り込んだ。
グラーヴ卿の顔は舞台の向こう側に向けられている。
やや遅れて、マイヤーの目玉が同じ方角を向く。
「アタシはね、食べてしまいたいほど可愛らしい白髪頭のエル坊やと、どうしても抱え込みたい下僕が、アタシ達よりも早くここに来ているのではないかと思ったの。お前は命の恩人を接待しているだろうから、舞台の側ではなく奥向きに居るだろう……だからイーヴァンに命じた。もし見かけたら、丁重ににお連れしろ、と」
グラーヴ卿が一歩足を踏み出した。